目隠しの森 九
何が起こっているのか良守には分からずただ呆然とするしかない。 唇を離されても何も出来ずにいる良守を善信はそのまま抱き締めた。ギュッと強く善信の胸に顔を押さえつけられて、混乱しながらも懐かしさを感じる。やがて少しずつ落ち着いてくると、先程の行為が何だったのか、良守にもようやく思い当たった。 キス、した?兄貴が俺に? 『なんで』、と思わず考えた台詞は口をついていたらしい。ピクリと善信の肩が揺れる。 「好きだ。」 善信は伝えるべきではないと戒めたばかりの気持ちを吐露していた。 もう会えないなんて許せないし認められない。離れていくというのなら、そこまで兄の存在が大きいのなら。 無理矢理にでもそれ以上の存在になってやるだけだ。 「好きだ。お前が好きなんだ。」 目を見開いてまたも呆然とする良守の頬を掴み、善信は繰り返し好きだと告げた。それと同じだけ触れるだけの口付けを、額に、頬に、鼻先に、唇に落とす。その間も良守はまったく動かなかった。それを良いことに善信はそっと薄く開いた唇から舌を差し入れる。柔らかく滑った良守の舌を見つけると、すぐにそれを絡み取った。 「ん…っ!」 さすがに驚いたように善信の肩を押し退けようとするのを許さず、そのまま強く抱き込むと体を密着させる。 「良守。」 善信が名を呼ぶと、良守が目に見えて体を震わせた。躊躇いながら上げた顔は頬がうっすらと赤く染まり、戸惑いを滲ませた瞳には涙が浮かんでいる。その様子に体の奥で何かに熱が灯るのを感じた。 腕に閉じ込めたままゆっくりと髪を撫で、良守が落ち着くのを待つ。すると良守が何かを考えた様な顔をした後、怖ず怖ずと口を開いた。 「すきって…。」 それ以上何と言って良いのか分からないのだろう。言い淀む良守にもう一度告げる。 「友人としてじゃなく、キスしたいって思うような『好き』って事だよ。」 ここで曖昧に言っても仕方ない。分かりやすく伝えると良守は目を数回瞬かせて、それからふるふると首を振った。 「違う…。違うよ、その気持ちは。善信は勘違いしてるんだ。」 「勘違い…?」 「そんな事言っちゃ駄目だ。いつか必ず、後悔する日が来る。」 訝しがる善信にどう説明すれば良いのだろう。こんな事を言い出すなんて、きっと善信の中で記憶は無くても「弟」という存在に対する思いが残っているのかもしれない。その家族としての愛情を恋と勘違いしてるだけだとすれば…。 今は忘れてしまっているけど、もしかしたらいつか、全てを思い出す可能性だってある。良守が弟なのだと知る日が来るかもしれない。 その時苦しむのは兄だ。そうなれば真実を黙っていた良守を恨むだろう。 弟なのだと告げれば納得するのかもしれない。でも言えない。やっぱり関わらないようにしようと決めたばかりなのに。でもそれは幸せになって欲しいからで。このままじゃもっと不幸にしてしまう。 言い淀む良守だったが、また善信が顎を捉えてきたのに目を瞠った。 「勘違いなんて言うな。」 顎を掴んだまま真っ直ぐ良守を見る善信の目は、抑えきれない想いと怒りを滲ませていた。 「受け入れられないって拒絶するなら解る。だが俺の気持ちをお前が勝手に否定するなよ。こんな事、生半可な気持ちで言ってると思ってるのか?」 「よ、しのぶ…。」 「好きだ。」 有無を言わさぬ強さで善信はまた良守の口を塞いだ。すぐに深くなる口付けに頭の中が霞んでいく。 拒まなければいけない。受け入れるわけにはいかない。解っているのに手は震えながらも、突き飛ばすでなく善信のシャツを掴んでいた。 酩酊したような、トロリと蜜のような濃い空気が二人の間に流れて体が熱くなっていく。混乱しながらも良守の中で何かが囁いた。 もう良いじゃないか。例え勘違いでも、いつか思い出すとしても。今、好きだと言ってくれてるなら。 自分から離れて会えなくなるのと、全てを思い出した兄に憎まれて会えなくなるのと。どちらにしても会えなくなるのは一緒なら、少しだけ、思い出すまでの間だけでも手に入れて何が悪い? 好きだと言ってもらえて、本当は喜んでしまっているくせに。 そうだ。本当は嬉しかった。抱き締められてキスされて心が歓喜に震えた。そのまま溺れてしまいたかった。 4年も生死が分からずようやく会えたのに、傍にいられるようになったのに、もう会えないなんて言いたくなかった。傍にいられるならどんな事だってできるし何でも差し出せる。ずっと好きで大切で欲しくて、焦がれ続けた不可侵で特別な存在。 だからといって、記憶の無い兄を更に不幸な目に合わせるつもりか。…なんて浅ましいんだろう。 良守の頬に添えていた善信の手に水滴がこぼれ落ちる。口付けを解いて見ると、良守の閉じた目からは次々と涙が溢れていた。 力を失い、善信の手が滑り落ちる。 「泣くほど嫌なら、俺を拒絶してくれよ。二度と会いたくないって突き飛ばせば良い。」 無理矢理キスするよりも酷い事をしてしまいそうな自分が恐かった。優しい良守に無理を強いている自覚はあったが、そうでもしてもらわないと諦められない。善信の言葉に良守が力無く首を振った。そのまま力の弛んだ善信の腕から逃れると、後ろの壁に背を持たれ、顔を手で覆って俯いてしまう。 「嫌なんかじゃない…、それが嫌なんだ。俺はいつだってお前を不幸にする!」 血の滲むような、心からの叫びだった。聞いているだけで苦しくなるような、そんな哀しみを滲ませた良守の叫びに一瞬気を取られた善信だったが、その言葉の意味に気付いて眉を顰める。 「いつだって、って…。どういう意味だ?」 訝しげな善信の言葉に、良守は激情に駆られたまま発した自分の言葉の過ちに気付いた。サッと全身から血の気が引いていく。 涙を拭う事すら考えつかずに顔を上げれば、真剣に自分を見つめる善信の姿があった。嘘や誤魔化しなど通じそうもない、その全てを暴いてしまいそうな漆黒の瞳に晒されている事に恐怖を覚える。 「あ…。」 このままじゃいけない、そう思った。これ以上誤魔化す事も真実を伝える事もできない。 ただこの場から消え去りたいと、それだけの思いで良守は走り出していた。一目散に玄関へと向かう。 「待て、良守!!」 呼び止める声に追ってくる気配。その全てから逃げたくて必死だった。目に入った階段を一気に駆け下り闇雲に走る。どこに向かえば良いのかすら考えられないまま良守はマンションを飛び出していた。 「良守ーっ!!」 絶叫のような善信の声と、パァーン、というクラクションの音が鳴り響く。良守が我に返った時には眩い光がすぐそこまで迫っていた。道路に飛び出していたのだと気付くと同時に、「あの時」もこんな風に必死に名を呼ばれたなとぼんやり思う。身を守ろうという意識は微塵も浮かんでこなかった。 目を閉じてその瞬間を受け入れようとしていた良守だったが、覚悟した衝撃はいつまで経っても襲ってこない。恐る恐る目を開けると、車は良守のすぐ1m程の距離で止まっていた。 「え…。」 良守の周りにあったのは紛れもなく結界だった。無意識に自分で作り出したわけではない。良守の作るものとは違う深い海のように紺碧のそれは、いつだって完璧で近寄りがたいくらいに綺麗で…。幼い頃から憧れと悔しさの混じり合った思いで見ていたから見間違うはずがなかった。 「あ、にき…?」 振り返ると呆然と、良守とその周囲にはられた結界を見る兄の姿があった。周囲の人間が慌てて集まり騒然とするなか、二人の間に張りつめた空気が流れる。だがそれも一時の事だった。 「…っ!」 その時まるで鈍器で殴られたかのような衝撃が彼を襲った。目の奥が急激にチカチカと光りだし、腹の底を渦巻くような強烈な吐き気がして、堪えきれずに頭を抱え身を屈める。 あの透明なものが『結界』なのだと何故か知っていた。それを作り出したのが自分だという事も。失う恐怖が全身を支配した時、身の内から迸るように『力』が湧き上がった。それが極自然な事のように思えたのはー。 「兄貴!!」 その場に頽れた兄の尋常ではない様子に、良守は咄嗟に結界を解き走り寄った。ぼやけていく視界に必死に伸ばされる右手が見える。そこに四角の痣は無いが、ようやく彼の中で全てが一致した。 (そうか、お前だったんだな…) そこで『彼』の意識は途絶えた。 |
2008.8.27