目隠しの森 十






えーんえーん。


何処からか遠くで子供の泣く声が聞こえる。声からしてまだ幼い、小さな子供の声だ。
どうしたのだろうと周りを見渡そうとしても、そこは真っ暗な闇だった。自分の足元さえ暗闇の中だ。何も見えない。こんなにはっきりと声は聞こえてくるのに、子供の姿も見えなかった。


えーんえーん。


泣き声は止まない。この足が竦みそうな深い闇を恐れているのだろうか。誰もいないと寂しがっているのだろうか。せめて、と声のする方向に手を伸ばす。一人じゃないのだと子供に教えたかった。恐れる事はない、俺がいる。お前が生まれた時からずっと、俺はお前を見てきたんだ。誰にだろうとお前を渡したりしない。この命に代えても。

その時子供が身動きし近づく気配がした。同時に暗かった世界にぼんやりと光が差し込み、その光を纏いながら近づいてくる子供の姿は少しずつ大きくなっていく。


「兄貴」


差し出された手に方印はない。あの、烏森の最後の日よりも大きくなった弟の姿。


「良守」


この世界でたったひとつ、大切で愛しい名。ようやく全て思い出せた。


眩しさに目を細めながら弟の手を取ると、伝わる温もりに心の底から笑みが浮かぶ。その時世界が白い光に包まれた。








『彼』が目を覚ました時、そこは自宅ではない場所だった。クリーム色の壁と天井、寝ているのは真っ白なシーツに包まれたベッド。すぐに病院だと思い当たる。横を見ると俯せた頭が目に入った。誰だなんて考えるまでもない。
そっと手を伸ばし、シーツに顔を埋める良守の頭に触れた。少し癖のある髪を何度も撫でると、それだけで心が安らいでいくのを感じた。
やがて小さく身動ぎして良守が目覚める。

「ん…?…っ、兄貴!」

ガバリと起き上がった良守だったが、思わず『兄貴』と呼んでしまった事に慌てて口を手で塞いだ。

「あ、あの…。」

体を起こし、言い淀みすまなそうに眉を下げる良守の様子を見ていた男は、ついに耐えきれなくなったのか口元に手を当て、体を折り曲げ肩を震わせ始めた。

「ちょ、善信…?具合でも悪いのか!?」

咄嗟にナースコールを押そうと手を伸ばす良守の腕を男が掴む。そのまま上げた男の顔はどう見ても笑っていた。唖然とする良守に「すまんすまん」と謝りながら起き上がった男は実に楽しげだった。

「お前の慌てた顔見てたら、今までの事思い出しちゃってさ。『兄貴』って呼ばないようにするの大変だったろう?」
「へ…?」

意味が飲み込めない良守に男が微笑む。

「全部思い出したから。俺は墨村正守で、そしてお前は…弟の良守だ。」

その言葉に良守が目を瞠る。時が止まったかのように動かない弟に男ー正守は苦笑した。

「本当…に?」
「信じられないか?」

まあいきなりだしね、と正守は嘆息すると、右手で印を結び自分達の周囲に結界を作ってみせた。

「さっきはまだ記憶戻ってなかったのに結界作れたのって不思議だけど、こういうのってやっぱり体が覚えてるものなのかな。」

結んだ印を見ながら言う正守を良守はただ呆然と見つめている。そんな弟の手を取り引き寄せると、正守は自分の腕の中に引き寄せた。

「…っ!」

驚く良守を正守はギュッと抱き締めた。

「なかなか思い出せなくて、ごめんな。」

耳元に寄せられた正守が呟いた言葉に、抱き締められた温もりに、ようやくこれが現実だと実感する。

「兄貴…っ!!」

込み上げてくる何かで胸が熱くて苦しくて。その時の良守には、ただ兄を呼びながら縋り付き、泣き続ける事しか出来なかった。





2008.9.1



Novel 十一