目隠しの森 八
携帯メールの履歴を見ながら善信は溜息をついた。ここ最近良守とは会っていない。いや、会っていないというより会ってくれない、というべきか。あの雨の日以来、良守は善信を避けるようになっていた。あれほど頻繁に会っていたのが嘘のように、この2週間程はろくに声も聞いていない。なぜこうなったのか善信には分からなかった。ただあの日、良守の様子がおかしかったのは確かだが。 こうして一人でいると、考えるのは良守の事ばかりだった。会って2ヶ月程しか経っていない良守になぜこうまで惹かれたのかは分からない。だが思い返せば最初から彼の事は気になっていた。兄と間違われたからというのもあるだろうが、それだけであんな風にまた会いたいなどと思うだろうか。 記憶を失った状態で病院で目を覚ましてからの4年間、とにかく必死だった。 失ったのは自分に関する全て。どこの誰なのか、どんな風に暮らしてきたのか、今まで生きてきた全ての記憶を無くしていた。日常的な事や知識まで無くしてなかったのは不幸中の幸いといえたのだろうか。そのおかげで進学し資格を取って、今はこうして殆ど不自由なく暮らしているのだからその点は幸運だったと思う。 だが自分がどこの誰だか分からないという状態は、時に酷く不安を誘う。叫び出したくなる気持ちをひたすら勉強や仕事に打ち込む事で誤魔化してきた。人との付き合いは事情を知っている人以外は、浅く適度な距離を持って接するようにしていた。女性との付き合いも無かった訳ではないが、それだって殆どが体だけの関係といえるような相手ばかりを選んでいた。その方が楽だったからだ。自分の事をあれこれ詮索されるのは面倒だし苦痛だった。 そんな風に生きるのが当たり前になっていたのに、良守に対してだけが違っていた。また会いたいと思ったし、知りたいと思った。それがどんな感情からきた気持ちだなんて考えもしなかった。思わず力が入っていたのか掌に爪が食い込む感覚に気付き、そんな自分に自嘲する。 ー考えもしないだなんて当たり前だ。自分は今まで普通に女性と付き合ってきたし、男に食指が動いた事など断じてない。自分より年下でまだ19歳の、しかも同性である良守に抱いたのが友情ではなく恋愛感情を孕んだものだなんて、一体誰が考えるというのだ。 だがそれを否定する気にはならなかった。特別だと思う気持ちを、大切だと感じる心を否定し誤魔化すなんて意味がない。ただ相手に押しつけてはいけない、それだけの事だ。 間違っても気持ちを伝える事などできない。ならばせめてこれまで通り、友人として会いたい。 善信は余所余所しくなった良守にその訳を聞く為に、強引に会いに行く事を決めた。 翌日、善信は良守の家を尋ねる事にした。いきなり行っても留守の可能性もあるが、その時は帰ればいいだけの事。あらかじめ連絡しても用事があるから会えないと言われればそれ以上は何も言えない。ならばいきなり行った方が話ができる可能性は高いだろう。 話の種になるかと思い、最近人気のある店のケーキを買ってみた。良守が好きなチョコレートケーキだ。白く小さな箱を見て、みっともないほど必死だなと自嘲する。成る程、今まで自覚はなかったが、割と自分はこうと決めた事に対しては粘着質らしい。物事に執着することのなかった自分の、意外な一面を見た気分だ。 何度か来た事のある道を歩く。日は暮れ薄暗くはなったがまだ寝るには早い時間だ。目指す方向に見えてきた良守の住むマンションの部屋に灯りが見えてホッとする。とりあえず家にはいるようだ。と同時に少し緊張してきた。今まで自分の家に帰るように行っていた良守の家に向かう事にこんなに緊張するのは初めてだ。 2階の奥、表札を確認するまでもない部屋の前に立ち、インターホンを鳴らした。 『はい。』 電源の入る音の後聞こえてきた良守の声。そう長く会ってなかったわけでもないのに、その声が懐かしいと感じる。 「俺だけど。」 一言そう言えば、インターホン越しに息をのむ気配がした。それほど会いたくなかったのだろうかと善信は眉を顰める。 やがて少しの間を置いて玄関の扉が静かに開けられた。暫く振りの良守は少し俯いていて表情は見えなかったが、やはり以前とは雰囲気が違っているように見える。 「急に来てごめんな。ちょっと話したくて。」 そう言うと良守は一瞬躊躇った後、善信を部屋へと招き入れた。6畳一間の部屋にはベッドとテーブル、そして隅に小さな棚があってその棚の殆どはお菓子に関する本で埋まっている。荷物らしい荷物はあまりない殺風景な部屋だった。この年の少年にしては珍しく、ゲームもしなければ漫画も読まないらしい。以前、家が厳しかったし興味もなかったのだと笑って言っていたのを思い出す。その頃から趣味といえばお菓子作りだったというから、今この部屋にそれ関係の物しかないのも当然だろう。 テーブルの周りにあった本を軽く束ねて退ける良守に、そのままで良いからと断ってから白い箱を渡す。 「ケーキなんだけど、一緒に食べよう。」 手に乗せられた箱と善信の顔を見て、良守は礼を言うとキッチンへと向かった。やがてコーヒーの良い香りが漂ってくる。善信はキッチンに行き、遠慮する良守からコーヒーの入ったマグカップを取り部屋へと向かった。その後ろからケーキの乗った皿を持った良守がついてくる。 テーブルを挟み二人で向かい合わせに座った。マグカップを持ち上げ、いただきます、と良守を見ればコクンと頷く。その様子ははやり今までと違い大人しく、余所余所しく見えた。ケーキを食べる間、いつどう切り出して良いものか善信も気まずく考えていたが、やがてケーキを殆ど食べ終える頃になってようやく決心し、顔を上げる。 「良守。ちょっといいか?」 声をかけると良守がピクリと動き、俯いていた顔をそろそろと上げた。心なしか不安そうな顔に見えるのは、話の内容が薄々分かっているからだろうか。そんな顔をさせたい訳じゃないのに。怯みそうになる心を抑え、善信は良守を真っ直ぐ見た。 「この所、お前様子がおかしかったよな。何があったんだ?」 善信の問いに良守は視線を伏せ、別に、と言葉を濁した。その様子に、遠回しに言ったって話が長くなるだと悟る。ここはストレートに聞いた方がいいと、正守は単刀直入に切り出した。 「別にって事ないだろ。お前の様子がおかしくなったのって、明らかにあの雨の日からだ。あれからお前、全然俺に会おうとしなかっただろう。」 「…ちょっと課題がたくさん出たりして忙しかったんだよ。ただそれだけだ。」 「じゃあそれが終われば、また前みたいに会えるのか?」 そう尋ねれば、良守は何も返せず黙り込んでしまった。その様子を見て善信は溜息をつく。 「良守…。情けないけど、俺にはお前に避けられる理由がまったく思いつかないんだ。俺が何かやったんならちゃんと謝りたいから、理由を教えてくれないか。」 その言葉を良守は慌てたように首を振って否定した。 「そうじゃない!善信は何もしてないし悪くないんだ!ただ俺が…っ。」 「…ただ俺が、って事は、やっぱり避けてたんだな。」 言質を取って問うと、良守が言葉に詰まり唇を噛み締めた。そのまま俯き、苦しげに答える。 「ごめん…。もう俺、善信に会えない。」 良守のその言葉に、善信は頭を殴られたかのような衝撃を受けた。避けられていたのは気付いていても、まさかもう会えないとまで言われるなんて考えてもいなかったからだ。 「会えないって、どうして…。」 呆然と問いかける善信に、良守は手を握り締めると意を決したように言う。 「辛いんだ。善信を見てるのが。一緒にいると、凄く楽しかった。でも時々どうしようもなく辛くなる。」 「…それって、俺がお兄さんに似てるから?思い出して辛いって事?」 善信の言葉に良守は頷いた。 「良守。思い出す事がどうして辛いんだ?お兄さんはいなくなっただけで生きてるんだろう?いつかきっと会える日が来るよ。」 諭すような善信の言葉を聞いても、良守は必死に首を振って否定した。 「生きてても俺はもう会えないし会っちゃいけないんだよ。そうすべきなんだって分かってたくせに、目を逸らしてたんだ。」 「何故会っちゃいけないのかよく分からないけど…。だからってお兄さんによく似てる俺にも会わないって言うのか?」 その言葉にコクリと頷く良守を見て、善信は言葉にならないような悲しみと憤りを感じていた。 兄と似ているから話をするようになって、兄と似ているからもう会わないという。結局、良守にとって自分の存在なんてそんな程度のものだったのか。自分など「墨村正守」の代用品でしかなかったというのだろうか。 色んな感情が一気に噴き出してきた。頭の中が真っ黒に塗り潰されたように、どす黒い何かに支配されたようだった。 善信は無言で俯いている良守に近づく。気配に気付いた良守が顔を上げた。 「よしの…。」 呼びかけた言葉は途中で途切れ、お互いの口内へと溶けていった。 |
2008.7.29