目隠しの森 七
えーんえーん。 何処からか遠くで子供の泣く声が聞こえる。声からしてまだ幼い、小さな子供の声だ。 どうしたのだろうと周りを見渡そうとしても、そこは真っ暗な闇だった。自分の足元さえ暗闇の中だ。何も見えない。こんなにはっきりと声は聞こえてくるのに、子供の姿も見えなかった。 えーんえーん。 泣き声は止まない。この足が竦みそうな深い闇を恐れているのだろうか。誰もいないと寂しがっているのだろうか。せめて、と声のする方向に手を伸ばす。一人じゃないのだと子供に教えたかった。 恐れる事はない、俺がいる。お前が生まれた時からずっと、俺はお前を見てきたんだ。誰にだろうとお前を渡したりしない。この命に代えても。 その時子供が身動きし近づく気配がする。 「兄ちゃん」 暗闇から懸命に伸ばされた小さな手にあったのはー真四角の痣。お前と俺を隔てた全ての元凶。 「良守」 誰かの名を呼ぶ。この世界でたったひとつ、大切で愛しい名。 待っていろ。今こそお前をそれから解放してやる。お前を飲み込もうとする者、奪おうとする者、全て許さないー! そこで夢は唐突に途切れた。 |
ヒュッ、と息を吸い込み善信は目覚めた。自然と荒くなる息に胸苦しさを覚えTシャツの胸の辺りを握り締める。妙に肌寒く感じると思ったら寝汗をかいていたらしい。冷えたそれのせいでTシャツが肌にへばりついていた。 時計を見るといつも起きるよりも1時間早く、カーテンの向こうは微かに明るくなっている。善信は溜息をついてベッドから起き上がった。寝る前に風呂には入ったのだがこのままでは気持ちが悪い。着替えるよりシャワーを浴びた方がサッパリするだろう。 乱暴にTシャツを脱ぎ捨てると、自分の右手が目に入った。思わず手の平を見てみてもそこには何もない。 また、あの夢か。 ここ暫く繰り返し見るそれは、やけにリアルな夢だった。いや、本来の現実味という意味には程遠い夢だ。あれ程の闇など見たこともないし、刺青ならともかく真四角の痣などありえない。それなのに何故かあれは偽物じゃないと思えた。そう感じる事自体が矛盾している。本物偽物以前にあれは夢なのに。 (ー夢、なんだろうか) もしかして失われた記憶の一部、という事はないのか?夢の中、泣き続ける子供。あれが自分に関わる誰かなら。 あれほど強く誰かを求めた事など、今の善信にはない。愛しくて守りたくて必死だった。自分の全てを投げ打っても構わないと、そう思える誰かを忘れてしまっているだけではないのか? ゴクリ、と唾を飲み込む。握り締めた手の平にじっとりと汗が滲んだ。 思い出したい。せめてあの子の事だけでも。なくした記憶を取り戻したいと、今まで以上に強く思う。 その時、「守る為に戦ってたんだよ」と言った良守の言葉が脳裏に過ぎる。今ならその言葉に素直に頷ける気がした。あの子を守る為ならこの身などどうなってもいいと思った。あれがただの夢じゃないのなら、あの子を守る為、自分は戦っていたのかもしれない。 そんな事を考えながら。ふと善信は昼間の事を思い出した。幻を見るかのようにぼんやりと、どこか哀しみを秘めた目をしていた良守。 あれは善信を見ての事だったのか。それとも兄を思っての事だったのか。それは恐らく…後者だ。その事に胸がざわめくのを感じる。 初めて会った時、必死に縋り付いてきた良守。見間違うくらいには良守の兄と善信は顔が似ているのだろう。あまり詳しい話は聞いていないが、数年前に失踪したらしい兄を良守がどれほど慕っていたか、出会った時の良守の様子を考えれば想像はつく。 風呂から出てきた後良守は心なしか沈んだ様子で、服が乾く間も言葉少なだった。雨が上がり家に帰る時もいつもなら笑って別れるのに、今日だけは小声でありがとうと言って帰ってしまった。その時の様子を思い出した途端、悔しい、と感じた心に気付き善信は愕然とする。 何故、悔しいだなんて思わなくちゃいけない? 良守が兄を思い出し落ち込んだとしてもそれは仕方のない事。ましてや善信と似ているなら、一緒にいると思い出す事も多いはずだ。 だからこそ会って間もないというのに、こんなに親しくなったとも言える。そこに絡むのはいつだって「墨村正守」という存在だった。それは最初から承知の上だったはずだ。それなのにー、兄に対する思慕を向けられていると、そう認める事が辛いと感じるのは何故だ。 どうしてこんなにも気にかかるのだろう。この4年間というもの、記憶もない事もあって人との付き合いは希薄だった。付き合いが悪いわけではないけど、自分から積極的に人と関わろうと思ったことなどない。それなのにどうして良守に対してだけは違うのか。それどころかもっと踏み込みたいとすら思ってしまう。出会ってまだ2ヶ月程しか経ってないというのに、何が他の人と違うのかわからない。見たこともない「正守」という良守の兄に嫉妬してしまう自分が信じられない。と、そこで己の思考に息を飲む。 ー待て、嫉妬って何だ。 ギュッとタオルケットを握り締めた。そうだ、俺は嫉妬しているんだ。一緒にいても自分の中に兄の面影を追う良守の、その心を占める「墨村正守」に嫉妬している。 ここ最近、どこか胸の奥がチリチリするような、得体のしれない違和感を感じていた。その正体が嫉妬だとすれば。 俺は、気付いてはいけない事に気付いてしまったのかもしれない。 いつの間にか芽生えていた感情につけられるべき名を、彼はその日、知ってしまった。 |
2008.6.26