目隠しの森 六






それから二人は、メールや電話で連絡を取り合うようになっていた。良守が善信に請われるままに学校での他愛のない事を話すと、彼は何が面白いのか楽しげにその話を聞いていた。甘い物に目がない善信に、実習で作ったお菓子を試食してもらい、意見をもらう事もあった。時には一緒にでかける事も。やがて呼び捨てでお互いを呼ぶようになり、敬語を使うこともなく話せるようになった。

だが相変わらず「正守」の記憶は戻らない。まるでそんな記憶は元々無いか、本当に失ってしまったのかと思える程に。
原因があの烏森の消失に巻き込まれたせいである事を考えると、兄の中で何が起きていてもおかしくはない。生きていた事が奇跡なのだ。それ以上を望む事なんてできない。むしろ思い出さなくても良い。

良守は兄に会い続けた。全てを話せない事に後ろめたさを感じながらー。





その日は二人で買い物に出かけていた。昼食を食べ、暑いからとアイスを食べつつ街をブラブラと歩く。他愛もない会話も、逆に会話もなく一緒にいることも苦にならないくらいには、二人でいる事が多くなっていた。遠く離れて暮らしていた4年前よりも、今の方が話す機会も多いくらいだ。
書店に入りお目当ての本を買い、店を出た所で良守の頬に何かが当たる。

「あれ、もしかして雨か?」

良守の言葉に、善信が空を見上げながら手を伸ばした。その手の平にもポツリと滴が落ちてくる。

「本当だ。さっきまで晴れてたのに。」

朝、綺麗に晴れていたから天気予報なんて見なかった。だが空はすでにどんよりとしている。

「これはすぐ一雨きそうだな。良守、いったん俺の家に行こう。そしたら傘もあるから。」

善信の言葉に良守は頷いた。今いる場所からなら善信の家の方が近い。走れば数分で行けるだろう。
荷物を持ち直すと二人して軽く走り出す。辿り着くまでは何とか小雨のまま保って欲しいという二人の願いは天には届かなかった。水分をたっぷり含んだ真っ黒な雲から閃光が落ちると同時に大粒の雨が落ち始め、あっという間に本降りになってしまう。ようやく善信の家に辿り着いた頃には二人はすっかり全身ずぶ濡れになっていた。

「うっひゃ〜、参った!」

玄関口でぶるぶると頭を降る。その度に雫が飛ぶほどに濡れた髪を梳きながら、良守は溜息をついた。

「夕立にしても凄いな。もうちょっと待てばやんだのかもしれないけど。」

善信はそう言うと濡れているのを気にしてか、玄関から動こうとしない良守の腕を取り強引に部屋へと上がった。

「ちょ、善信!」

腕を掴まれたままポイッとバスルームに放り込まれ、良守が慌てたように善信を見る。

「とりあえず熱いシャワーでも浴びて体を温めて。濡れた服はそこのバスケットに入れといてよ。乾燥機かけるから。」
「何言ってんだ、シャワーなら善信が浴びろよ。俺はタオルだけ借りるから。」
「お前ね、変な遠慮はするな。俺は着替えがあるんだから大丈夫。ほら、ぐずぐずしてるとそのまま浴槽に放り込んで、頭からシャワーかけるぞ?」

善信の言葉に良守はグッと言葉を詰まらせた。冗談っぽく聞こえるが、こいつならやりかねない。渋々シャツに手をかけた良守の横で、善信も服を脱ぎ始めた。肌にまとわりつくTシャツを脱いだその半身が目に入り、良守の動きが止まる。以前よりも少し筋肉の落ちた体は、それでもガッシリと逞しかった。広い背中も変わらない。ただ、その背についた無数の傷痕が良守の心を締め付ける。
随分と薄れてはいるがそれはどれも深く、致命傷になっていてもおかしくない程の傷だ。

じっと自分を見つめる視線に気付いた善信が、洗面台の鏡に映った自分の体を見て合点がいったように苦笑した。

「傷だらけだろ。まったく、昔の俺って何やってたんだろうね。」

暴走族でもやってて喧嘩しまくってたのかな、だなんて笑いながら言う善信に良守は首を振る。

「違う。善信はそんなヤツじゃないだろ。記憶があっても無くても、それは変わらないよ。」

静かに言う良守の言葉に、善信が驚いたように瞠目する。それには気付かず良守はある一点を見つめていた。脇腹から大きく横に裂けたような傷痕。それは忘れもしないあの神佑地で、良守を庇った時に出来た傷だった。
目の前に広がった黒い羽織と、飛び散った赤い血潮。それまで見た事もなかった兄の焦燥した顔と跪いた姿。
きっと心の中で色々と複雑な思いを抱えていたはずの兄が、それでも自分を庇って傷ついたあの姿を忘れた事なんてなかった。

「きっと、色んなもの守る為に戦ってたんだよ。」

兄が自分だけじゃなく、家族も、そして自ら作り上げた夜行のメンバーを大切に思っていた事は知っている。それらを守ろうと自分一人が泥を被ろうとしていた事も。汚い事、危険な事、厄介事を引き受けて、それが自分の役目だと言わんばかりに強がって。本当は誰よりも優しいくせに身を削るように全てを抱え込んで戦っていた。
良守の目は善信の傷を見ながら、どこか遠くを見ているようだった。その見た事のない表情に善信は何故か焦りを感じる。

「良守…?」

思わず呼ぶと、良守が目に見えて驚いたように体を揺らした。何かを言いかけた口元がキュッと引き結ばれる。

「ごめん、風呂借りる。」

そのまま良守はバスルームに飛び込み扉を閉めた。残された善信は呆然とその扉を見つめる事しかできなかった。



2008.6.13



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