目隠しの森 五






1週間後、善信はまだあの良守という少年の事が気になっていた。兄弟ではなかったにせよ、兄をあれほど求める少年への何らかの親近感なのだろうか。せめてあの日、もう少し話が出来ていればと思っても後の祭りだ。

本当は会いたいならば手段はあった。あの時少年が落とした教科書は市内でも大きな製菓学校の物だったし、名前も分かっているのだから尋ねて行けば良い。だがさすがにそこまでするのもどうだろうと踏ん切りがつかずにいる。

妙に疲れた気持ちになった善信は、ケーキでも買って帰る事にした。善信は見た目に反して和洋問わずかなりの甘党だ。
その日立ち寄ったのは駅から10分の小さな店。裏通りにあるので目立たないが知る人ぞ知る名店で、しっとりしたきめ細かいスポンジと牛乳っぽいまろやかさな生クリームが美味しくて気に入っていた。

ショーウィンドウに飾られたケーキは眩いばかりに輝いて見えて、どれを選ぼうか客を悩ませる。定番のショートは外したくないけど、チョコ系と季節限定品、どちらを選ぶべきだろう。ダークチェリーのタルトも美味しそうだ。
悩んだ末、結局ショートケーキとタルト、そして季節物の桜のロールケーキを買う事にした。箱に詰めてもらったそれを店の入り口の前で受け取り自動扉をくぐろうとした善信は、店に向かってくる人物に気付き目を瞠る。

「あ…。」

相手も善信に気付き動きを止め目を見開いている。その唇が小さく何かを言いかけたが、彼は慌てたように口元を手で覆った。彼が何を言いそうになったのか善信には大体の察しがつく。恐らく「兄貴」と言いかけたのだろう。歩みを止めた良守の元へ善信が近づいた。

「良守君、こんばんは。元気にしてた?」
「…はい。あ…、善信さんも。」
「俺は元気だけど、先日があんな別れ方だったから君の事が気になってたんだ。今日会えて良かった。」
「あ、俺!この間は本当にすみませんでした!」

頭を下げる良守に、善信は微笑んだ。

「あの時もちゃんと謝ってくれたのに、二度も謝る必要はないよ。それだけ俺がお兄さんに似てたんだろう?」

優しく諭すように言われたその言葉に、良守はハッとしたように顔を上げた。その顔が泣きそうに歪む。似てるとかそんなんじゃない。そう叫んでしまいたかったけど言えなかった。俯いてしまった良守に善信は苦笑する。

「気にしなくて良いよ。それよりもせっかく出会って知り合いになれたんだし、何か君の力になりたいんだ。」

え、と驚いて顔を上げた良守に、善信はにっこりと微笑んだ。

「俺は君のお兄さんじゃないけど、見間違うくらい似てるわけだし。何だか妙に他人の気がしないっていうか、君の事もお兄さんの事も気になってね。探す手伝いでもできたらって思ったんだ。まあ俺じゃ大した力にもなれないけど。」
「そんな…、だって善信さんだって大変なのに。」

良守が悲しげな顔で見上げてくる。優しい子なのだろう、善信を本当に心配しているのが伝わってきて、やはり何とか力になりたいと彼は思った。いや、力になるとかよりも放っておけないというか、このままさようならにはしたくない。

「じゃあ、取り敢えず手伝いとかは置いといて、単純に友達になろう。良守君はこんなおじさんの友達はいらないだろうけどさ。」

笑いながら言う善信に、良守はふるふると首を振った。

「いいんですか…?」

躊躇いがちに尋ねてくる良守に、良守は手を差し出した。

「言い出したのは俺だよ。良いに決まってる。」

よろしく、と言う善信が嬉しそうだったから、良守もその手に怖ず怖ずと手を伸ばす。
触れた途端ギュッと握り締められて、その懐かしい力強さと温もりに、泣きそうになるのを堪えなくてはいけなかた。







家に帰り着いた良守は、気持ちを落ち着かせる為真っ先に風呂に入った。頭と体を洗い、たまった湯につかってホッと息をつく。一息つくと先程まで一緒にいた正守の事を思い出した。

兄が生きていると知った日から1週間の間、良守は自分がどう過ごしていたのかよく覚えていない。ただ学校に行き当たり前のように飯を食い当たり前の暮らしをしていたはずなのだが、それがどうにも別の自分が体を動かしているみたいに遠く感じていた。

生きていた兄の姿を何度も繰り返し思い出し、その度に会いに行きたくなって。自然と正守の家へと足が向かい、それに気付いて引き返す日々。部屋の灯りがついているのを確認して安堵した事もあった。

もう関わっちゃいけない。幸せに暮らしているなら邪魔しちゃいけない。そう思っていたのにー。


思い掛けず再会し、記憶のない正守から友達になろうと言われた。言われた瞬間断るべきだと思った。あの女性にもそっとしておいて欲しいと言われていたのだから。自分もそうしようと思ってあの日間違いだったなんて言ったのだから。だけどそうできなくて。
家族として弟としてが駄目ならば、友達としてなら傍にいても許されるんじゃないかと、そう思った。
正守から手が差し伸べられた瞬間、それを拒む事なんて出来なくて。触れても良いのかと逡巡する気持ちもあったけど、結局抗えなくてその手を取ってしまった。

自分の右手を開いてみる。もうそこには方印はない。そっと左手で触れてみると、握り締められた時の兄の温もりが甦ってくるようだった。それを少しでも逃したくなくて手を握り拳を作る。自然と震えてくる手を額に当て目を閉じた。

本当に兄の幸せを願うなら関わらない方が良い。だけどどうしても会いたい。自分の意志の弱さに自嘲する。許して、と良守はここにはいない何かに懺悔した。



風呂から上がり髪を拭きながら部屋に戻る。するとテーブルの上に置かれた白い箱が目に入った。
『お友達記念に』と渡されたのは、正守が買ったばかりだったらしいあの店のケーキだ。良守に渡した後、同じ物を買い直していた。

『良守君は製菓学校行ってるんだろう?俺、甘い物好きなんだ。今度一緒に食べに行こうよ』

そう楽しげに言っていた正守の顔を思い出す。保冷剤の入った箱はうっすらと汗をかいていた。手に取り開けてみると、ショートケーキとダークチェリーのタルトとロールケーキが入っている。
あいつ、一人で3つも食べる気だったのか。記憶は無くなっても甘いもの好きの体質って変わらないんだな、と思うと何だか可笑しい。

「俺さ、お前が言ってたようにパティシエ目指してるんだ。あの頃よりもずっと腕上げたんだぜ?」

何故だか勝手に涙が出てきた。兄が烏森で消えた時に散々泣いて以来4年間、泣く事なんて一度も無かったというのに、再会してからは泣いてばかりだ。涙腺がおかしくなったとしか思えない。

「ばーか。ばか兄貴。弟泣かせてるんじゃねーぞ…。」

そう呟くと、どこか遠くから『本当だな、兄貴失格だ』と苦笑する声が聞こえたような、そんな気がした。




2008.6.2



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