目隠しの森 四




バタン!!

いつにないほど玄関を乱暴に閉め、良守はその場に荷物を放り出した。ずっと走り続けたせいで呼吸は酷く乱れている。蹌踉けそうになりながら靴を脱ぎ冷蔵庫に駆け寄ると、ペットボトルの水を取りだし口にした。飲みきれなかった水が口の端から零れるのも気にならない。
中途半端に飲んだペットボトルを掴む手が弛み床へと落ちる。残っていた水が辺りに散らばったのを何の感慨もなく目の端で見ていた。
やがてのろのろと重い足を引きずってベットへと倒れ込むと枕に顔を押しつける。その途端、堪えていた涙が勝手に出てきた。

死んでいなかった。生きていてくれた。それだけで充分じゃないか。
もう兄と呼べなくても…会えなくても、正守が生きている。元気に暮らしている。それが分かっただけでも喜ばなくちゃいけない。
そう思おうとするのだが、心はまったくそれを受け入れようとしない。善信なんて名前、認めたくなかった。お前の名は正守なのだと認めさせたかった。
この世界でたった一人の、大切な…兄、なのだ。

この4年、胸に仕舞っていた思慕が膨れ上がりそうだった。髪が伸び、服装だって以前とはまったく違っていたけど、紛れもない正守の姿と声が脳裏に甦る。ただひとつ違うのは、自分を見る目がいかにも年下の子供を見る大人の目だった事。あの頃のようにからかいながら、厳しいながらも心の中で弟を慈しんでくれていた兄の目ではなかった。

兄貴を不幸にするだけの弟の記憶なんて、無くなった方が良い。

そう何度も自分に言い聞かせる。その度に涙が溢れ嗚咽が込み上げるのを良守は耐えなくてはいけなかった。
兄と結婚するという女性を憎みそうになる心を、涙と一緒に飲み下した。









風呂に入り人心地着いた後、善信はベッドに横たわって今日出会った少年の事を思い出していた。

『兄貴…、生きてた…っ!!』

そう言って抱き付いてきた少年の、しがみつく手の強さと必死さ。きっと少年にとって本当に大切な兄で、ずっと探しているのだろう。
あの少年の兄が自分だったなら、そう考える自分に苦笑する。我ながら諦めが悪い。彼が違っていたというならそれが真実だ。

「すみむら…まさもり。」

すみむらはどんな字だろう。隅村、それとも墨村?そんな事を考えていた善信は、少年と出会った時、彼が落とした教科書の隅に書かれていた名前を思いだした。確か『墨村良守』と書かれていたはずだ。

「じゃあ墨村まさ守、かな。」

呟いてみてもその名前に覚えはない。正守、政守、将守と考えつく限りの字を当て嵌めてみても、ピンとくるものはなかった。自分が彼の兄じゃないならそれも当然だ。

一つ溜息をついて天井を見上げる。目を瞑っていても、泣きじゃくっていた少年の姿が脳裏にちらついて落ち着かない。

「墨村、良守。」

その名を呟いた時にだけ、胸をチクリと何かが刺したような、そんな気がした。







2008.5.20



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