目隠しの森 二




ガシャン、とガラスが割れるような派手で甲高い音が辺りに響き、男は後ろを振り向いた。その数メートル先に少年が呆然とした様子で立ち尽くしているのが見える。足元にビニール袋に入った箱が見えた。どうやらあの箱が先程の派手な音の原因らしい。同じく落ちたバッグからは、数冊の教科書か参考書らしき本が飛び出している。

あれは確実に割れたな、と気の毒に思い少年を見ると、足元の箱になどまったく眼中にないくらいにこちらを目を見開いて見ていた。
まさか自分を見ているとは思わない男は周囲に目をやり訝しげな顔になったが、立ち尽くす少年を放っておけなくて近づいてみる。

「…君、大丈夫?ああ、やっぱり割れてるみたいだな。」

声をかけながら足元の箱を揺すってみると、案の定ガチャガチャという音がした。箱に入っているので中身は飛び散ってはいない。

「残念だろうけど、危ないからこれはこのまま捨てた方が良いと思うよ。」

袋を持ち上げ少年の手に握らせようと手渡す。その時触れた手に少年がピクリと動いた。見開いていた瞼が何度か瞬きを繰り返す。まるで何かを確認するかのようなその仕草に男が訝しげな顔になった。

「具合でも悪いの?だったら医務室にー。」

男が言葉を切ったのは、少年の口から小さな呟きが零れたからだ。絞り出すような弱々しい声では何を言っているかは分からなかったから、思わず「え?」と聞き返した男の顔を凝視しながら、「あにき」と少年は震える唇を薄く開く。

「兄貴…、生きてた…っ!!」

そう一言叫び、少年は男に抱き付くとしがみついて泣き出した。






訳も分からなかったが、子供のように兄を呼びながら泣き続ける少年を放っておくことも出来ずに、男は取り敢えず少年を落ち着かせるのが先決と手を引いてその場を離れた。あのままでは目立つことこの上ないし、周囲に有らぬ誤解をされかねない。
どうしようか迷ったが、帰宅途中だった男は幸い家が近いので自宅へ少年を連れて行く事にした。初めて会う人間を連れて行くのは多少の抵抗があったが、少年はどう見ても悪事を働きそうな人間には見えないし、泣いている人間を連れてその辺りの店に入るわけにもいかない。
それに男は少年に見覚えは無かったが、思う所があったから話を聞いてみたかった。



家に着いた男は居間のクッションに少年を座らせると、洗面所からタオルを取り冷蔵庫からペットボトルのお茶を取りだしてコップと共に部屋へと戻る。ティッシュとタオルを少年に渡すと、少年は真っ赤になった目で男を見た。盛大に泣いたせいで、すでに目元は腫れぼったくなっている。

「顔洗いたいなら、洗面所使って良いよ。」

場所を指し示して促せば、少年はコクリと素直に頷きのろのろと動き出した。バシャバシャという水音が止み、やがてタオルで顔を拭いながら部屋に戻ってきてまたクッションに座った少年は泣き疲れたような顔をしている。コップにお茶を注ぎ勧めると、喉が渇いていたのか一気に飲み干してしまった。

「…まずは君の名前を聞いていいかな。」

お代わりを注ぎながら尋ねると、少年が驚いたように男を見た。

「な…に、言ってるんだよ、兄貴。俺の名前なんか、聞かなくたって分かるだろ?」

何故今さら自分の名を尋ねるのか、彼にはわからなかった。驚きの為目を瞬かせる少年に男がすまなそうな顔になる。

「ごめん。俺は君を知らない。…というより、覚えてない。」
「え…?」

知らない、と告げられた言葉に少年は激しいショックを受けた。だが目の前の兄が自分を見る目は、確かに以前の兄の目とは違っている。
どういう事だと尋ねる少年に、男は言いにくそうに応えた。

「俺には生まれてから4年前までの記憶が無いんだ。」
「記憶がない…?」

そんな、と少年が呆然と呟く。それに男は静かに頷いて見せた。

「4年前、俺は浜辺で気を失っている所を発見された。1週間ほど眠り続けて、目が覚めた時には記憶を全て失っていた。日常的な事は分かるんだけど、自分の名や、自分自身に関する記憶はまったく無いんだよ。だから今は一応、「藤崎善信」って名乗ってる。藤崎って言うのは俺が運ばれた病院の院長先生でね、後見人をしてくれてるんだ。善信は善悪の善に信じるって書くんだけど、この名前もその人がつけてくれた。」
「善信…。違う、兄貴の名前は正守って言うんだ。墨村正守。俺は弟の良守。なあ、聞き覚えがあるだろ?」

服を掴み、必死に言う良守という名の少年に善信は苦しげな顔をして小さく首を振った。良守の顔に絶望の色が浮かぶ。それを慰めるように善信は裾を掴んだ良守の手をそっと外し、自分の手で包み込んだ。

「よしもり君。まだ確定じゃないけど、君が探しているお兄さんは確かに俺かもしれない。だから詳しく話を聞きたいんだ。」

『よしもり君』という他人みたいなその呼び方に、良守は涙が出そうになった。仲が決して良くはなかった頃だって、兄にそんな風に呼ばれた事は一度もない。涙を堪えきゅっと唇を噛み締める良守に、善信が困ったような顔になった。
その時インターホンの音が部屋に響いた。ちょっと躊躇った後、少し待っててね、と告げて善信は立ち上がり受話ボタンを押す。モニタに映ったのは見知った女性の姿だった。

『よかった、いたのね善信さん。友人からリンゴが送られてきたんだけど食べない?』

ほら、とモニタ越しにリンゴの入った紙袋を掲げて見せる女性に善信は頷いた。

「待ってて、すぐに開けるよ。」

玄関に向かいドアを開けると、女性を部屋に招き入れる。

「急にごめんなさい。あんまり美味しかったから早く渡したくって。あら、お客様だったの?」

玄関に見慣れないスニーカーを見つけ女性が善信に尋ねた。じゃあすぐにお暇するわ、と言う女性を善信が引き留める。

「いや、来てくれて助かった。君にも話に加わって欲しいんだけど、時間はあるかな。」
「え、まあ…、時間は大丈夫だけど。何の話なの?」
「それも今から話するから、とにかく上がって。」

促されて女性は家に上がった。居間に行くと一人の少年がソファに座っていた。見上げてくるその顔は、色を失って今にも気絶しそうに見えた。何かを堪えているかのような哀しげな目をしている。その表情に何故か胸騒ぎがした。胸苦しさを覚え、ギュッと胸元を押さえていると、善信がコップを手に居間へとやってきてお茶を注ぎテーブルに置いて話始めた。

「よしもり君、彼女は今村清香さん。俺が運ばれた病院の看護師で、4年前から色々世話になってる。」

その言葉に清香は驚き善信の顔を見た。それは明らかに彼の記憶に関する話題で、今まで彼はそんな事を軽々しく人に話した事はない。

「清香さん、もしかしたら彼のお兄さんが俺かもしれないから、話を聞こうとしてた所なんだよ。」
「え…?」

善信の言葉に、清香は思わずよしもりという少年を振り返った。青冷めた顔で善信を見ている少年の顔は、先程より厳しい表情になっている。言われてみるとキリッとした眉、大きく黒目がちな瞳はどことなく善信に似ている気がして、清香は先程感じた胸騒ぎの原因を知った。

「俺の方の事情は簡単に話したんだけど…。よしもり君、君のお兄さんの方の話を聞かせてくれないかな。さっき会った時「生きてた」って言ってたけど、それってどういう事情なの?」
「あ…、それは。」

良守が口を開きかけたその時、善信の懐から電子音が鳴った。明らかに携帯電話の着信音だ。慌てて胸ポケットに手を差し込んで着信を確認する。留守電にしとけば良かったと内心舌打ちしながら、良守に手でごめんと謝ると仕方なしに電話に出た。電話の相手は会社の直属の上司で、トラブルがあったから応援に行って欲しいとの要請だった。

「すみませんが、今立て込んでるんです。他の人をお願いできませんか。」
『休みの所悪いが君じゃないと無理そうなんだ。明日は午後から半日出社で良いから、今回は頼む。』

いつも目を掛けてくれている上司からの頼みに、善信は溜息をつきたい気持ちを辛うじて堪えた。わかりましたと承諾し、電話を切る。

「話の途中ですまないけど、ちょっと仕事で出かけなくちゃいけなくなった。すぐにすませてくるから、ここで待っててもらえないかな?今日の都合が悪いようなら後日ちゃんと会いたいんだけど…。」

すまなそうに言う善信に良守は頷いた。話をしたいのは良守も同じだから、話を後日に引き延ばすより多少遅くなっても待っていた方がいい。待つという良守の言葉に、善信はホッとしたように笑顔になった。

「それじゃ清香さん、悪いけど彼を頼めるかな?あ、この後用事があるなら無理にはいいけど。」
「私は構わないわ。いってらっしゃい。」
「ありがとう。じゃあすぐに戻ってくるから。」

慌ただしく仕度をして、善信はコートを手に部屋を出ていった。二人だけ残された部屋ではどちらも何か言いたいのに切り出せず、ただ時間だけがゆっくりと流れていく中ようやく清香が口を開く。

「よしもり君…だったかしら。本当に彼があなたのお兄さんなの?」

清香の問いに良守は一瞬戸惑ったが、頷いて答えた。

「兄貴を間違えたりしません。…記憶が無いってのには驚いたけど、あの人は俺の兄貴です。」

清香を真っ直ぐ見返して言う良守の目には揺るぎがなかった。その事に清香は苛立ちを覚える。

「よく似た別人って事は無いの?彼、あなたを見ても記憶が戻らないようだし。」

その言葉に良守の表情が曇った。確かに兄は自分の名にも覚えがなかったようだ。

「だけど4年前から記憶が無いんでしょう?兄が行方知れずになったのも4年前なんです。それにー、そうだ。以前より髪が少し長くなってたから見えなかったけど、兄の額には三日月みたいな傷痕があるはずです。あれはそうそう消えるはずがない。」

良守の言葉に清香は息を飲んだ。…確かに善信の額には三日月のような深い古傷がある。発見された当時坊主頭だった頃には目立っていたその傷は、今は辛うじて髪に隠れて普段は見えない。それではやはり、善信はこの少年の兄なのか。
清香は俯いてギッと奥歯を噛み締めた。震えそうになる手でスカートを握り締める。その様子に良守が気付いた。

「あの、きよかさん…?」
「・・・・・・何で?」

俯いたまま発せられた言葉に、え、と良守は聞き返した。それに清香が顔を上げ良守を睨み付ける。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。








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