目隠しの森 十五
目を覚ますと、自分の物ではないベッドの上だった。体の大きな正守はセミダブルのベッドを使っていて、良守が一人で寝るには随分と余裕がある。 「………?」 無意識のまま手を伸ばし隣を探っても、そこには誰もいなかった。その事実に寝ぼけ眼だった良守の目が一気に覚める。思わず正守を呼ぼうとしたが喉がガラガラしていて声が出ない。起き上がろうとしても体に力が入らなかった。 「良守、起きたのか。」 背後から声をかけられて良守は必死に振り向く。すると上半身裸でカーゴパンツを履いた正守が部屋に入ってくる所だった。今にも泣きそうな良守の顔を見て正守は大体の所を察する。 「ごめんな、側を離れて。ちょっと風呂入ってた。お前も喉乾いただろう?ほら。」 ベッド脇に座り、力の入らない体をそっと支え起き上がらせると、正守は持ってきたペットボトルを開け良守の口元に当てる。ちらりと正守を見上げ、それからそのミネラルウォーターを口にした良守だったが、一口飲んだ途端猛烈な喉の渇きに気付き勢いよく半分ほど飲んだ。軽くなった容器を渡すと、正守も数口飲んでベッドサイドに置く。それから気怠げに座る良守を抱き寄せた。見上げてくる良守の額に小さなキスを落とすと、ゆっくりと頭を撫でてやる。心地よさそうに目を閉じる姿に自然と笑みが湧いてきた。 思えばこんな風に甘やかしてやった事も遠い記憶の隅にしかない。まだ良守が幼かった頃、ただ兄を兄として慕ってくれていた頃は、こんな風に甘えてくる良守を抱き締めてやれていた。他の誰より、自分を慕い追い掛けてくる小さな弟が愛しくて、愛情を注ぐ事に満たされていた。だがそれも良守が自分の右手の印の意味に気付くまでの事。様々な誤解やわだかまりが解け、やっと兄弟らしくなれたのが4年少し前。その後は離れ離れになっていては、甘やかすどころの話じゃない。本当はもっと前からこんな風に、手放しで甘やかしてやりたかったのに。 正守は少し寝癖のついた良守の髪に口付けを落とした。それからベッドサイドの時計を見る。デジタルの表示はもうすぐ11時になろうかという頃だった。そういえば昨夜は結局夕飯も食っていないんだっけ、と思い当たる。 きのう、というか今朝までお互いを貪るように体を重ね、泥に沈むように眠り、気付けばまた求め合った。昼過ぎから夜明けまでだなんて、いくら許してくれたとはいえ初心者相手にどれだけがっついてるんだと自分に呆れるが、長年密かに思い続けてた良守が相手なのだ。多少歯止めが利かなくなるくらいは許して欲しい。が、冷静になってみると良守の体が心配になる。 「なあ良守。お前体は大丈夫か?どっか痛い所は?」 そう問われて良守はちょっと頬を染め、決まり悪そうな顔になる。言い淀む良守に正直に言うようにと促すと、渋々ながら「あちこち痛いし軋む。変な感じ」と掠れ気味の声で答えた。その言葉に正守はそうだろうなぁと内心思う。怪我はしないように気遣ったつもりだが、何しろ一回目は無我夢中でよく覚えていない上に、その後はお互い歯止めが利かずに一晩中色んな…いやいやそれは置いといて。ちらりとベッドを見ると無惨な惨状となっている。良守の体も色々と汚れていた。 「とりあえず風呂だな。しっかり掴まれよ。」 「え?ってうわっ!」 承諾も取らずに正守は良守をタオルケットで包むと抱き上げた。状況に気付き良守が暴れる。 「ちょっと待てよ兄貴!降ろせって!!」 体を捻り腕から逃れようとするのを制し、正守が良守の顔を覗き込む。 「ん?だってお前風呂入りたいだろ。」 「そりゃ入りたいけど…。俺一人で行けるから。」 「その様子だと無理だと思うけど。今さら恥ずかしがるなよ。」 「べ、別に恥ずかしがってる訳じゃ…。いいから降ろせよっ!」 「はいはい、もうちょっとの辛抱ですよー。」 「人の話を聞けー!!」 叫く良守を無視して、正守はさっさと風呂場に移動する。洗い場の椅子に座らせた頃には良守も大人しくなっていた。というより居たたまれない気恥ずかしさから何も言えないといった風情だったが。 「ゆっくりお湯に浸かった方がすっきりはするかもしれないけど、体はかえって疲れそうだな。さっとシャワー浴びるくらいにしておいた方が良いか。」 そう言いながらズボンの裾を捲り始めた正守に良守が慌てる。 「おい兄貴、まさか俺の体洗おうとかしてないよな?」 「そう思ってるけど?力入らないだろ?」 「…っ!自分で洗えるから!!兄貴は出てってくれよ!!」 きのう散々お互いの体を見たというのに恥じらう姿は可愛らしいが、何しろ良守は初めてだったのだ。真っ赤になって言う良守に、まあさすがに恥ずかしいかもな、と思い言う通りにしてやる事にした。 「じゃあ、自力でどうにもならなくなったら呼べよ。無理するんじゃないぞ。」 その言葉にホッとした様子の良守に苦笑しながら正守は風呂場を出た。力の入らないあの様子では少々心配ではあるが、湯船に浸かっているわけではないから溺れる事はないし大丈夫だろう。そう思いながら脱衣所を出ようとした正守だったが、ふと気付いて洗濯機を覗く。きのう二人とも風呂に入った後洗濯機を回していたのだが、取り出す前にそれどころじゃない自体になったのでそのままになっていた。 蓋を開け中身を手に取ってみると、軽い乾燥までのコースにしていたのと気候が幸いして、多少くしゃくしゃになってはいたが殆ど乾いている。その綺麗になった良守の下着と新しいタオルを脱衣籠に置いてから、部屋に戻り滅茶苦茶になったベッドからシーツを引き剥がし何とか見れる程度に整え、周辺に落ちている二人分の服と下着を拾い集め洗濯籠に放り込んだ。 そのままキッチンへと向かうと朝食兼昼食の準備に取りかかる。さすがに夕食を食べていない上に運動したわけだし、良守も腹が空いている事だろう。パンじゃなくて米の飯の方が良いだろうかと、手早く出来てできるだけ腹の膨れそうなボリュームのある食事のメニューを考えながら、正守は良守の世話を焼ける幸せを噛み締めていた。 食事で腹を満たした後、ソファに凭れて二人で微睡む。食べている間も良守はまだ気怠そうにしていた。その様子に正守は少しだけすまないと思うと同時に、昨夜の事が思い出されて顔がにやけるのを慌てて引き締める。きのうは途中で有耶無耶になってしまったが、まだ考えなくてはいけない事、決めなくてはいけない事は残っているのだ。のんびりばかりもしていられない。 正守は手帳を手に取り中身を確認し始めた。仕事はそれなりに楽しかったし充実していたが、それはあくまで記憶が無かったからの話だ。昔から、自分は術師としてしか生きられないのだと解っていた。昨夜も良守に話したが、記憶が戻った以上ここでこのまま会社務めをするつもりはない。 だがサポートしてるだけの仕事はまあ良いとして、完全に正守に任されている仕事は引継をするにも時間がかかるだろう。明日朝一で上司に事情を説明し、辞める為の準備を始めなくてはいけない。 「なあ、良守。」 「んー?」 唸るような返事をして緩慢に見上げてくる良守に苦笑する。正守はその頭をゆっくり撫でながら言った。 「来週の3連休に家に帰ろうと思う。だから家にはそれまで連絡しないでおいてくれないか?」 「どうしてだよ。電話で知らせるくらいは良いだろ?きっとみんな大喜びだぞ。」 良守が不思議そうに問うと、正守は苦笑しながら答えた。 「喜んではくれると思うよ。だけど今の俺は会社に勤めるサラリーマンで、こういう事情だからっていきなり会社を辞める訳にも休みをもらう訳にもいかないんだ。今の会社の社長は俺の事情を知った上で雇ってくれたから恩もあるし、仕事に対しても責任がある。会社は辞めるつもりだけど、引継なんかもあるから実際に辞められるまでには1ヶ月以上かかるだろうし、その前に家に顔を出すにしてもどうしても週末が一番早い。となると今すぐ会いに行けないのに、生きてたって連絡だけするのもちょっとね。」 まあ父さん達ならこっちに駆け付けてくるかもしれないけど、と正守は肩をすくめて見せる。そんな正守の言葉に良守も渋々頷いた。そもそも良守だって兄が見つかった事を家に知らせていないのだ。今から1週間遅くなった所でたいした違いはないだろう。 この4年間、正守は色々な人達の助けを借りて生きてきた。その人達への義理を欠くような事は出来ないから、ここは正守の言う通りにしておいた方が良さそうだ。だが…。良守は少し俯いた。 「やっぱり…、夜行に戻るのか?」 ポツリと呟かれた言葉に正守の手が止まる。体を正守に預けて凭れている良守の顔は今は見えない。だがきっと眉を下げ悲しそうな顔をしているんじゃないかと思った。 良守の願いなら叶えてやりたいが、こればかりは無理だった。普通に生きられるものなら15の時に裏会に行くなどという選択をするはずもない。実際裏会へ行ったのはそればかりが理由でもないが、生き方なんてそう簡単に変えられるものじゃないのだ。 「戻るよ。」 そうきっぱりと言うと、良守の肩が小さく震える。そんな良守を強く抱き寄せながら正守は優しく穏やかに話しかけた。 「俺はさ、どうしたって術師としてしか生きられない。それに夜行は俺が立ち上げた組織だから、最低限の責任は果たしたいんだ。なあ良守。ちょっとこっち向いてくれない?」 正守が促しても、良守は首を振って嫌がった。そんな良守に正守は無理強いする事はしない。 「頼む。顔を見て話したいんだ。」 正守の言葉に良守は一度俯きを深くし、それからおずおずと顔を上げ正守の方に振り向いた。その顔は泣いてはいなかったが今にも泣きそうなほど瞳が潤んでいる。そんな目尻に一つキスをしてから、正守は良守の頬に手を滑らせ優しく撫でた。 「危険が無いとは言えない。裏会がどんな所か、大体のところはお前だって知ってるしな。だからあそこに戻ればそれなりに怪我をする事もあると思う。だけど良守。」 良守の目を真っ直ぐ見ながら正守は伝えた。 「何処にいても何があっても、俺はお前の元に戻ってくるよ。それだけは約束する。」 良守の瞳に穏やかに微笑む正守の顔が映る。その優しい笑みに、告げられた言葉に良守の涙腺が一気に崩壊した。 「ふ…っ、あ…にき、兄貴…っ!!」 とうとう盛大に泣き出しながら正守の胸元にしがみついてくる良守を抱き締めた。 「なんだ良守。お前この頃泣き虫だなぁ。」 ちょっとからかうような口調で言いながら、それでもそっと髪を梳く正守に良守は嗚咽を混じらせながら悪態をつく。 「お前がっ、な、かせてるんだ、ろっ!」 涙と鼻水で顔中ぐちゃぐちゃにして、苦しそうに息を切らせながら言う良守に正守は軽く笑い声をあげた。 「本当だ。弟を泣かせるなんて、俺、兄貴失格だな。」 そんな風に、以前考えた通りの台詞を口にする正守に良守の涙が更に溢れて零れる。 ばか兄貴、と呼ぶ度に正守は嬉しそうに「うん」と応え、それは良守の涙が止まるまで繰り返された。 |
2008.10.2