目隠しの森 十三







正守が浴室から出ると、良守がクッションを枕に目を瞑っていた。やっぱり疲れてたんだろうと苦笑しながら近づいて、改めてその顔をじっくりと眺めてみる。
19歳になった良守は、それなりに背も伸び顔つきも随分男らしくなっていた。だが笑ったりこうして眠っているとまだあどけなさが残っている。
この4年間、弟はどんな思いで過ごしてきたのだろう。自分を庇って兄が消えた事を、優しい良守が悔やまないはずがない。きっと自分を責めながら生きてきたのではないだろうか。

あの時、正守にはああするしかなかった。全てを無くしても自分自身がどうなっても、良守だけは助けたかった。烏森と道連れになどさせる訳には、奪われるわけにはいかなかったのだ。だがその結果、4年間も苦しめてしまったのは間違いない。

再会した時、泣きじゃくりながら「善信」にしがみついてきた良守を思い出す。話すようになってから、自分の中に「兄」を見る良守に苛立ったのも今考えると間抜けな話だ。良守が見ていたのは紛れもなく自分だったというのに。

(馬鹿みたいだよな。自分に嫉妬してたなんて。)

思い返すともう笑うしかない。だがあの時はそれなりに必死だったし、切羽詰まっていたのは確かだ。
苦い思いを飲み込みながら眠る良守を見ていると、胸が苦しくなってくる。その温かさをもう一度確かめたくて無意識に伸ばした手を、触れる直前で留めた。
本当は自分の中の枷など、とっくの昔から無かったのだ。今触れてしまえばどうなるか自分でも解らない。そんな思いが弟に触れる事を躊躇わせた。その時眠っていた良守の瞼がピクリと動く。

「あれ、兄貴…?」

どこか舌足らずに呼ばれ、正守は体を強張らせた。それには気付かず良守は数回瞼を擦るとゆっくりと起き上がる。

「やっべー。俺寝てた?」

頬をピシャピシャと叩きながら眠気を覚まそうとする良守に、正守は内心の動揺を綺麗に隠して声をかけた。

「夕べ殆ど寝てないんだろ?眠いなら布団用意するからそっちで寝ろよ。」
「う…ん。いや駄目だ。まだ話したいし。」
「まだ時間も早いから後でも大丈夫だぞ。」
「今が良い。寝ちまうの勿体ない。」

ふあ、と欠伸をしながら言う良守の言葉に正守は溜息をついた。無意識なのは解っているが、あまりそういう事は言わないで欲しい。と言ったところで良守には理解できないだろう。

「…まあ良いけどさ。」

何だか脱力している兄を不思議そうに見ながら、良守は聞こうと思っていた事を尋ねた。

「兄貴、これからどうするんだ?」
「どうって?ああ、仕事とかの事?」
「それもあるし、家の事も。みんなに知らせないとさ。きっと父さん達泣いて喜ぶぞ。とにかく一度帰ろうぜ。」
「う〜ん、でもいきなり帰ったんじゃ驚かせちゃうし、電話して多少事情を話してからの方が良いかも。」
「電話でも驚かせるのは変わりないけどな。」
「心構えは違ってくるだろ。そうだ、夜行は今どうなってるのかお前知ってる?」

正守が尋ねると、良守は僅かに眉を曲げ不機嫌そうな顔になった。

「…確か、誰かを頭領代理にして何とかやってるって聞いた。あんま詳しくは知らないけど。」
「そうか。じゃあ刃鳥が上手くやってくれてるのかもな。」

いきなり正守がいなくなった事で大変だったかもしれないが、だいぶ内部変革も進んでいたし組織の規模を縮小するなり対応は出来ただろう。しかし、4年間も生死不明になっておいてひょっこり現れたところで、まさか泣いて大感激されるとも思えない。顔を出した途端攻撃されるくらいは覚悟しておかないとなと、正守は内心溜息をついた。とにかく行ってみないと何とも言えないと考えていると、良守が口を開く。

「…兄貴、夜行に戻るのか?」

そのいかにも不本意そうな言葉の響きに、正守は少し驚いた。

「そうだな。もう俺がいなくても大丈夫そうだけど、取り敢えず一度は夜行に戻るよ。」

夜行は正守が立ち上げた部隊だ。仕方ない事情だったとはいえ、4年間も放置したのだからもう頭領と名乗る資格は無いだろうが、まだ自分にも出来る事もあるだろう。正守の意思で引き取った子供達の事もある。行かないわけにはいかなかった。
そんな正守の言葉に、良守が小さく呟く。

「行くなよ…。」
「ー良守?」

ぎゅっとズボンを握り締める良守に、正守は訝しげに声をかける。すると良守が必死の顔を正守を見上げてきた。

「また裏会になんか戻ったら何があるか分からないだろ?だったら今の仕事を続けたって良いんじゃねーの?せっかく資格取ったんだろ。そうだ、家に戻ってあっちで就職するって手もあるよな。それで兄貴が家を継げば良いんだ。」
「良守…、俺はとっくの昔に家を出た身だ。今さら墨村を継ぐ気はないよ。」
「何でだよ。もう烏森は無いんだ。だったら長男の兄貴が継ぐのが当然だろ?」
「長男だからなんて関係ないさ。お前が継ぎたくないっていうなら利守もいる。俺が戻る必要はない。」
「必要とか、そういう事じゃねーんだよ!裏会になんか行く事無いって言ってるんだ!!」
「良守、勘違いするなよ。」

思わず怒鳴ってしまった良守の耳に、正守の厳しい声が届き顔を上げる。

「普通に生きたければ進学すれば良かった。家を早めに出るにしても、全寮制の学校に進むって手もあったんだ。正統継承者じゃない俺にはいくらでも道はあった。でも俺は術者であることを選んだんだ。家を出たのも裏会に行ったのも夜行を立ち上げたのも、全ては俺の意思なんだよ。」

フッと苦笑を浮かべ、正守は良守の頭を撫でてやった。

「選択を後悔した事はない。お前が俺を心配してくれるのは嬉しいが、今さらごく普通の暮らしをしたいとは思わないさ。」

まあ、今回のはそれなりに良い思い出になったけど。と正守は笑って言う。こんな事でも無ければ、異能者ではない極当たり前の暮らしなどする機会は無かっただろう。だが慰めではないその言葉に、良守は泣きそうな顔で俯いてしまった。

「何でだよ…。何で今の生活じゃ駄目なんだ。だってそれじゃこれから先、お前ばっかり危険な目に遭うだろ…。」

撫でていた正守の手が止まる。良守は顔を上げ真っ直ぐ正守を見た。その目は堪えた涙で潤んでいる。

「俺は、普通の暮らしが出来るなら兄貴に夜行に戻って欲しくない。もう傷ついたりしないで欲しいんだ。」

裏会の仕事は危険が付き物だ。ましてや正守は夜行の頭領であり、一番の実力者。力があればそれだけ厄介な場面に借り出される事も多いだろう。再会してから見た正守の体には、4年間の年月に少しは薄れた、だが消えようのない疵痕が残っていた。夜行に戻ればまた戦いの日々だ。命の危険だってある。

「せっかく生きてたのに…。こうして会えたのに。また滅多に会えなくなって、いつ怪我するか分からない暮らしに戻って…。嫌なんだよそんなの。頼むから、もう俺の前から消えないでくれよ!!」

叫びながら良守が正守の胸に飛び込んできた。縋り付くように胸元を掴む良守の手が、肩が小さく震えている。良守がこれほど必死に、そしてあからさまな言葉で、心情を吐露し懇願してきたのは初めてだ。それほど4年前の事が心の傷になっているのだろう。一度失ったからこそ、もう一度の消失の予感すら許せない程に怯えている。

大きくなったと思っていた。だけどこうして腕の中にいる良守は正守より一回り小さく、まだ線の細さを残している。離れたくないと、そう全身で訴えるかのように縋り付かれて正守の胸が熱くなり息苦しさまで感じた。


どうしたらいい。もう、愛しさを隠せそうにない。


湧き上がる感情に正守は瞠目する。記憶が戻った今、この想いは自分の中に押し込めるべきだと思った。例え良守も4年前とは違う感情を抱いているにしてもそれは一時の気の迷いだと、あの4年前の出来事があったからこその勘違いなのだろうと、そこに付け入るような真似をしてはいけないと思っていた戒めが、脆く崩れ去る音が聞こえた気がした。

「そんな事言うなよ。ーお前を、手放せなくなるだろう。」

いや、本当はわざわざ戒めようと思った時点で手遅れだったのかもしれない。腕の中の小さな体をぎゅっと強く抱き締める。良守の望む良い兄でいようと、そう考えた事自体が無理だったのだ。こんなにも欲しいと心が訴えているのに。

「兄貴…?」

戸惑ったように腕の中から見上げてくる弟に、正守は無言で顔を近づけていった。




2008.9.19


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