目隠しの森 十二
鏡に映った自分の顔を確認する。散々泣いたせいで目は真っ赤に充血し、瞼は腫れぼったくなっていた。この顔で正守の元に戻るのは気が引けたが、いつまでも戻らなければ心配させるだけだ。幸いというか、正守の記憶が戻ったと知った時にも思いっきり泣いているので誤魔化す事は出来るだろう。 よしっ、と気合いを入れると良守はトイレを出て正守がいる個室へと向かった。部屋に入った良守の顔を見て、正守はホッとしたような顔になる。清香と良守が話していた事は気付いているのだろうが、何も聞かずに良守の頭にポンと手を乗せた。 「計算が出来たみたいだから、下で会計して帰ろう。お前も一晩俺に付き添って疲れただろう?」 そう言われて良守は小さく首を振った。 「俺は大丈夫だよ。兄貴の方こそ本当に大丈夫なのか?あんなに辛そうだったのに。」 倒れた時、正守の顔色は尋常じゃなかった。脂汗とも冷や汗とも分からない汗が一気に噴き出し、痛みに顔を歪めていた。今まで良守はあんな兄を見たことが無かった。淡幽の神佑地で無道と戦ってピンチになった時だって余裕は無かったし辛そうだったけど、それよりももっと苦痛に満ちた顔をしていた。心配げに見上げてくる良守に正守は微笑んで見せる。 「あれは一時的なものだよ。記憶の戻った今はもう、まったく痛くも何とも無いから大丈夫だ。」 正守の言葉に良守は安心したように頷いて、ドアを開けた正守に続いて部屋を後にした。 携帯から養父に連絡を取り、病院を出た頃には昼も随分過ぎた頃だったので、昨夜から何も食べていない二人はまず食事をとる事にした。安心したら急に腹が減ったと、良守はライスを大盛りにしてもらい美味しそうに食べている。その様子に苦笑しながら、正守も食事を味わった。いつもよりも美味いと感じるのは、良守と一緒だからだろうか。それとも記憶が戻ったからだろうか。 取り敢えず腹を満たした二人は、正守の家でちゃんと話そうという事になった。途中良守の家に寄り、飛び出したままだった部屋の灯りを消す。玄関はオートロックだったし、火を何も使っていなかったのは幸いだった。泊まりがけになりそうだったので、適当に荷物を持っていく事にする。 この時の良守はすっかり忘れていたのだ。あの事故の前、二人が何に揉めていたのかという事を。 マンションに辿り着き玄関のドアを開けた正守は、そこでそのまま立ち尽くした。動かない背中に訝しげに良守が声をかける。 「兄貴?中に入らないのか?」 「え、ああ。」 どこか曖昧に応えると、正守はようやく靴を脱いで部屋に上がった。その後を良守が続く。何度も来て泊まった部屋だから勝手は分かっていた。遠慮無くキッチンを通り、2Kの間取りの内、居間として使っている部屋へ向かうと荷物を降ろす。振り向くと正守は部屋を見回している。その他人の部屋にいるような様子に良守も戸惑った。 「ー兄貴?」 名を呼ばれその表情を見て、良守の言いたい事が解ったのだろう。正守はバツが悪そうに苦笑した。 「どうもここが自分の部屋って気がしなくてさ。変な感じだ。」 確かにこの部屋で暮らしてきた記憶はある。だがそれはまるで別の自分だったかのように現実味が薄いのだ。他人の部屋に上がり込むような居心地の悪さがあった。 スチール棚に乗せていた折り畳みの鏡を広げてみる。そこに映る顔は紛れもなく自分の顔だが、伸びた髪と剃られた髭にも違和感があって落ち着かない。 「傷が目立つし、サラリーマンらしくなくて髪を伸ばしたんだけど、こうなると早く剃りたいな。」 「そうだな〜。俺はこっちのも見慣れたけど、やっぱ坊主の方が兄貴らしいとは思うよ。」 「良守もそう思う?」 正守がヒヒっと楽しげに笑うのに良守も釣られて笑う。それから飲み物でも出そうとキッチンへ向かおうとした正守は2つの事に気付いた。 「そういや夕べ風呂に入ってないんだよなぁ。ちょっと自分が汗くさい気がする。」 良守も入りそびれたんじゃないのか?と聞かれて、そう言えばと思い当たった。 「俺は一晩くらい平気だけど、兄貴は風呂入っとけば?別に汗くさくはないけど、きのう倒れた時凄い汗だったから気持ち悪いだろ。」 「んー、お前から入っててくれ。俺はちょっと買い出し行ってくるから。」 「買い出しなら俺が行くけど。」 「いや、見たいのもあるし俺が行く。出かけたら汗かきそうだから風呂はその後入るよ。あ、喉乾いたら冷蔵庫から適当に好きなの飲んどけ。」 そう言うと正守は行ってしまった。良守は頭をボリボリ掻いて荷物を見る。確かに夕べ風呂には入ってないし、それに気付いてしまうとちょっと気持ち悪い気もする。こうなったらさっさと浴びてしまった方が良いだろう。良守は持ってきた荷物の中から替えの下着を取り出すと浴室へと向かった。 15分ほどして良守がシャワーを浴びて浴室から出ると、ちょうど正守が買い出しから戻ってきたところだった。居間で頭をガシガシ拭いているとポンと冷たい物を手渡しされる。新発売のカフェラッテ。良守がその内買ってみようと思っていた物だ。 「おー、サンキュ!」 喜々としてストローを差し込み飲み始める良守に思わず正守の顔に笑みが浮かぶ。こういう時の顔は子供の頃と変わらないなと、言えば怒られそうな事を考えた。 それから買ってきた食パンや牛乳をコンビニの袋から取り出す。ちょうど切れかかっていたので、良守が泊まるなら朝食分が足りないのだ。早めに気付いて良かった。昼食が遅かったから夕飯は軽い物でも作るか、どこか近所で食べてもいい。 そんな事を考えながら正守も浴室へと向かった。 少し温めの湯が浴室の床に当たり筋を作りながら流れていく。頭からシャワーを浴びた正守は髪を洗おうと手を伸ばし、その感触に驚いたように手を止めた。顔を拭い鏡を見ると、見慣れているのに別人のように感じる自分の姿。髪と髭程度でここまで印象が違うものかと思う。 「藤崎善信」として生きていくしかないのだと覚悟したのは、割と早い段階だったはずだ。それからは後見人になってくれた養父の元、大検を取り進学して就職し独り立ちする事も出来た。その点、本当に運が良かったと思う。 この姿で生きてきた4年間。最初何とか思い出したいと願った記憶は、甦りそうな予感さえ無いまま時間だけが過ぎていった。思い出せないのではなく、失ってしまったのだと、そう思うくらいに断片さえ浮かぶ事は無かった。 それなのに良守に会った途端、少しずつ何かが動き出していたのだ。 結局、俺はー。 正守は静かに目を閉じ、再確認した自分の心を受け入れた。 |
2008.9.13