目隠しの森 十一







目が真っ赤になるまで泣いた良守を宥め、とにかく病院を出ようと正守は考えた。ここでは積もる話もできやしない。
幸いあの時車は良守のすぐ傍で止まり、結界にも当たっていなかったので事故扱いにはなっていなかった。車の運転手には散々謝り事なきを得ていた事を知り正守は安堵した。正守が倒れたのは、元から体調が悪かったのだと誤魔化したのだという。

時計を見ると10時になっていた。丸々半日近く眠りこけていたのかと思うと苦笑するしかない。まだ僅かに頭が重いのも、記憶が戻ったせいもだろうが寝過ぎたせいじゃないだろうか。
ブザーを呼んで来た看護師に事情を話し、退院したい旨を伝える。元々病気ではなかったのだから、医師の簡単な診察の後すぐに退院の許可が下りた。会計計算が済むまで30分ほど待って欲しいと言われ部屋で待つことにした二人だったが、扉をトントンと叩く音に視線をそちらに向ける。

「どうぞ。」

正守が答えると、そこにいたのは清香だった。

「清香さん、どうしてここに?」

予想外の人物の登場に驚く正守に、清香が微笑した。

「あなたは知らなかったでしょうけど、ここの副院長先生はうちの院長先生と同期で仲が良いの。あなたの事も知ってたし、付き添ってたのが未成年の少年だったからって、今朝、院長先生に連絡してくださったのよ。でも院長先生は出張中でね。それで病院に連絡が来て、ちょうど夜勤明けだった私が様子見に来る事になったの。」
「そうだったんだ…。疲れてるのに悪かったね。先生にも心配かけちゃったかなぁ。」
「私の事はいいのよ。あなたが大丈夫そうで良かった。でも、院長には後で連絡してね。」

そうするよ、と頭をかきながら苦笑する正守を見た後、清香はソファに座っていた良守を見た。

「…よしもり君、だったかしら。未成年の少年、って聞いてたからあなただろうとは思ってたんだけど…。」

視線を移されて良守はパッとソファから立ち上がった。彼女と会ったのは正守と再会したあの日以来だ。

「すみません…。」

項垂れる良守に清香が首を振る。

「あなたが謝る事なんて何もないのよ。ただ少しだけ彼と話がしたいから、二人にしてもらえないかしら?」

清香の言葉に良守はハッと顔を上げ、ちらりと正守を見た。小さく頷く兄の仕草にそっと部屋を後にする。スライド式のドアが完全に閉じられるのを見送って、清香は意を決したように男に向き合った。

「記憶、戻ったの?」
「…判るんだ。」
「判るわ。顔つきが違うもの。」

ふう、と嘆息して清香は目を伏せた。事実を確認し、意外に冷静な自分をおかしく思う。それどころか心はやけに静かだった。

「私、今日はあなた達に謝ろうと思ってここに来たのよ。」
「謝る?何を。」

訝しげな顔になる男に、清香の方が驚いた。

「よしもり君から聞いてないの?」
「良守から?別に君の事は何も聞いてないけど。」
「そう…、そうだったの。」

てっきりもう、あの日清香がついた嘘はばれていると思っていた。ではあの子はまだ、清香の嘘に気付いていないのだろうか。

「私ね、あなた達が再会した夜によしもり君と二人っきりになった時、彼に嘘をついたの。」
「嘘?」
「そう、酷い嘘。あなたと私がもうすぐ結婚するって。だからそっとしておいて欲しいって言ったのよ。」
「・・・・。」

その言葉に正守は押し黙った。再会した夜、いきなり勘違いだったと言ってマンションを飛び出した良守の事を思い出す。記憶の甦った今、何故あんな事を言ったのだろうと不思議に思い後で尋ねようとしていた事だったが、これで理由が解った。

「あなたはいつかいなくなる人だって、分かってたつもりだったの。でも実際その時が来てみるとただただビックリして。何としても引き離さないとって、そればかり考えてた。」

そう言うと清香は深々と頭を下げた。

「謝ってすむ問題じゃないけど、酷い事をしました。本当にごめんなさい。」

そのままピクリとも動かず、頭を下げたままの清香にそっと正守は近づくとその肩に触れた。

「清香さん、頭をあげてくれないか。謝るのは俺の方だ。」

顔を上げた清香に、正守は向き合った。

「俺は君の気持ちに薄々気付いてたのに、気付かない振りをしていた。その方が楽だったから。君にそこまでさせたのは俺自身だよ。」

すまない、と頭を下げる正守に清香は頭を振った。

「あなたがそう思ってる事は知ってたわ。だからあなたが誰と付き合っても安心してたのよ。結局誰もあなたの一番深い、大切な所には触れられないなら、友人として近くにいられればそれで良いって。楽な方に逃げてたのは私の方。」

でも、と清香は少し俯いてからまた顔を上げ正守を見上げた。

「あなたは記憶を取り戻したのに、この4年間の事も忘れないでいてくれたのね。…もうそれだけで充分よ。」

肩にかけていたバッグを抱えなおして、清香は正守から身を逸らした。扉の一歩前で振り返る。

「幸せになってね。大切な人がいるなら、もう忘れないで。手を離しちゃ駄目よ。」

それからー。

「許してくれてありがとう。私達の事、忘れないでくれてありがとう、善信さん。」
「忘れないよ。この4年間、随分助けてもらった。本当に感謝してるんだ。」

微笑んで言った清香の言葉に、正守も微笑み返して答えた。それは心からの言葉だった。それに嬉しそうに頷くと清香が尋ねる。

「そう言えば、もう善信さんとは呼べないわね。本当の名前は何て言うの?」

清香の言葉に正守は一瞬軽く目を瞠ったが、すぐに理解し答えた。

「正守。墨村正守って言うんだ。」
「まさもり…。そう、弟さんといかにも兄弟って分かる名前ね。…あなたにピッタリ。」

清香は納得したように小さく微笑んだ。

「じゃあ、まさもりさん。私はこれで失礼するわ。」
「そうか。その内病院にも顔を出すよ。」
「そうして。みんな会いたがってるから。」

そう言うと清香は静かに扉を開け部屋を後にした。大きく息を吐き、部屋を出ている少年を探す。するとエレベーターホール脇のソファに所在なさげに座る姿を見つけた。

「よしもり君。」

声をかけると弾かれたように良守が立ち上がった。そんな良守の傍まで真っ直ぐ進む。

「ありがとう。彼と話をさせてくれて。」
「そんな…。当然の事です。」

そんな良守の様子から、本当にまだこの子は自分の嘘を信じてるのだと清香は知った。

「当然じゃないのよ…。あなたにこそちゃんと謝らないと。」

そう言うなりいきなり頭を下げた清香に良守が慌てる。

「あ、あの、きよかさん?」
「ごめんなさい。あれは嘘なの。」

え、と良守は意味がわからず戸惑う良守に真実を話そうと清香は顔を上げた。

「あなたと初めて会った日、彼と結婚するからそっとしておいてって言ったでしょう。…結婚するなんて嘘よ。あなたが彼の弟だって知って、焦ってあんな嘘をついたの。」
「嘘…?」
「そうよ、嘘。やっぱりどんなに邪魔したって、血の絆には敵わないのね。帰るべき所に帰るようになってるんだわ。解ってたはずなのに悪足掻きして…。本当に馬鹿だった。そのせいであなたを傷つけてごめんなさい。」

瞠目する良守に向かって清香は再び頭を下げた。だがその言葉で、清香がどれほど兄を好きだったのか良守にはわかった。理性では制御できない感情がある事を、今の良守は知っている。
渡したくないと、失いたくないという強い想い。同じ相手に抱いた想いはまったく同じで…。だからこそ、彼女を恨む気持ちは湧いてこなかった。

「きよかさん、もういいです。頭を上げてください。」

良守が肩に触れ促すと、清香はそっと頭を上げた。そんな彼女に良守は告げる。

「きよかさんだって色々と辛かったと思うし、兄貴がこの4年間生きてこれたのは、きよかさん達が助けてくれたおかげです。結果的に兄貴は無事だったし記憶を取り戻したんだから、きよかさん達にはいくら感謝しても足りません。」

きっぱりと言う良守に清香は目を細めた。もっと詰ってもいいのに、この兄弟ときたら同じ事を言うなんて。

「ありがとう、よしもり君。」

少しだけ微笑んで言うと、良守がホッとしたように嬉しそうに笑った。優しい子なのだな、と思う。そんな子を自分のエゴで悲しませて苦しめたのだと思うと胸は痛んだが、その痛みは自分の胸にしまっておくべきだろう。エレベーターの昇降ボタンを押しながら言う。

「これから色々とバタバタするかもしれないけど、私で力になれる事があったら何でも言ってね。いつでも駆け付けるから。」
「ありがとうございます。」

恐らく彼は元いた所に帰るのだろうが、親代わりだった院長や、勤めていた会社の事もある。彼の性格からいって、戻るのはそれらの始末をきちんとしてからの事になるだろう。
完全に元の生活に戻れるまではもう暫くの時間が必要だ。そうなるまでの間、できるだけの助力はするつもりだった。
エレベーターが上がってくる。それを見ながら清香はふとある事を思い出し、背後の良守を振り返った。
よしもり君、と呼ぶとキョトンと清香を見上げてくる良守に清香は微笑む。

「彼ね、病院に運ばれてきた時、ずっと何かを呼んでたの。私達には辛うじて「よし」っていう単語しか聞き取れなかったけど、繰り返し誰かを呼んでるみたいだった。でも目覚めた時、その事すら彼は忘れてしまっていて…。だから彼の後見人になった院長先生は、彼の名前を決める時、「よし」を名前に入れる事にしたの。それで「善信」って名付けたのよ。せめてずっと呼んでた誰かに繋がるように、記憶が無くても自分を信じられるようにって。…彼が呼んでた誰かは、きっとあなただったのね。」

そう告げると清香は上がってきたエレベーターに乗り手を振りながら扉を閉めた。その場に残された良守の中で、何度も清香の言葉が繰り返し響く。


あの時、あの烏森の消滅の時。巻き込まれそうになった良守を正守が庇った。必死に名を呼ばれた事を、その声を忘れた事はない。
烏森が消滅した瞬間、正守がどんな風になったのかは分からないが、記憶を失うような強い衝撃があったのは間違いないだろう。
そんな衝撃を受けて倒れた後も、兄は良守の名を呼び続けていたというのだろうか。記憶を失いつつある中、良守の名だけを呼んでいたと…?


自然と溢れ出す涙を止める事ができず、良守はその場で立ち尽くしながら涙を流すしかなかった。






2008.9.7


 Novel 十二