人魚の涙 後編







良守が人になってから2週間の時が過ぎていた。
最初はなかなか人の足に慣れなかったが、少しずつ歩く内に支えが無くても歩けるようになり、今では普通に歩けるようになった。
一番戸惑ったのは少年の体になってしまった事だったが、こちらも数日経てばすぐ慣れてきた。むしろこっちの方が身軽な気もする。

『術には大きな代償と危険と苦痛が伴うはず。どんな反動がその身に降りかかるとも知れません。』

時子はそう言っていた。ならば魔力を宿すと言われている髪が代償になり、反動として男の体になったのだろう。前例も少ない危険な術だったのだから、生きているだけでも幸運だと良守は思っていた。
会いたいと、それが第一の願いだったのだから性別が変わったくらいは大した問題じゃない。そのおかげでこうして彼の傍に置いてもらえるなら願ったり叶ったりだ。


身元の分からない良守を、正守は快く迎えてくれた。その正守はというと、貴族どころかこの国の皇太子だったのには良守も驚いた。
「年の離れた弟がいるから、遊び相手になってくれると助かるんだけど」と言われて引き合わされた正守の弟利守、そしてまだ若く優しい両親も良守を温かく受け入れてくれて、良守は幸せな日々を過ごしていた。今では本当の家族のように暮らしている。

だが時々、どうしようもなく海が恋しくなる時がある。そんな時は1人あの浜辺でボーっと海を眺めた。
この大きな海で自由に泳ぎ回っていたのが嘘のようだ。何q、何十qだろうと泳ぎ続けられた人魚の体。その力は歩く為の筋肉へと変えられた。今ようやく普通に歩けるようになったばかりのこの足では、昔の様に泳ぐ事は無理だろう。そもそも人の体では深く潜る事もできやしない。たった2週間しか経っていないのに、海で生まれて過ごした十数年の日々が酷く遠く感じられて何だか悲しくなる。

時音もみんなもこの海のどこかにいる。会えないけど元気に暮らしている。そして自分は望んだ通り正守の傍にいる事ができている。
それなのに悲しいなんて感じるのは身勝手な気がして、良守は拳をギュッと握り締めた。

そろそろ城に戻ろう。そう思って立ち上がった時、良守、と呼ぶ声が聞こえた気がして振り返る。そろそろ日が落ちてきそうな夕暮れに差し掛かった時間、海には小舟すら浮かんでいない。だが呼んだ声が時音の声だったように思えて、良守が海へと一歩足を踏み出そうとしたその時だった。

「良守っ!!」

言葉と共に急に腕を引かれ良守の体が傾ぐ。それを難なく受け止められて逞しい腕の中に閉じ込められた。驚いて見上げると、そこには何故か切羽詰まったような表情をした正守の姿。

「…正守?どうしたんだよ、急に。」

不思議そうに見上げてくる良守はいつもと変わらないように見えた。だが正守は先程感じた不安が拭えず、表情を弛めない。

「お前、今海に入ろうとしてなかったか?」

正守の言葉に一瞬ギクリとした良守だったが、すぐにそれを否定した。

「手が汚れたから海で洗おうとしただけだよ。服濡らしたくないし、海に入ったりしねーよ。」

心配性だな正守は、と笑いながら言う良守にようやく正守も小さく微笑む。

「そう言えば良守。お前利守と何か約束してたんじゃないの?探してたみたいだけど。」
「…あっ!一緒に絵を描こうって言ってたんだった!やばい!!」
「ははは、そら走れ走れ。」

慌てて城へと駆け出す良守の後ろ姿に笑いながら野次を飛ばしていた正守だったが、やがて良守の姿が小さくなると海を振り返った。
夕日が落ち始めた海はオレンジ色に染まり、何とも言えない美しい光景だった。だが正守は険しい目で遠くを睨むような表情になる。

ーあの子が消えてしまうのではないかと、一瞬思った。

「…悪いけど、返すつもりはないから。」

海に向かってそう小さな声で呟くと、正守は良守の後を追うように城へと歩き出した。





2008.1.31







あと一月もすれば新年を迎えるという季節になった頃、新年に着る服の為と言われて体中を採寸され、良守は辟易していた。

「なあ、俺はいつものヤツで充分なんだけど。」

何しろ良守は居候の身だ。ただでさえこの城に来た当時にたくさん服を作ってもらっていたので何だか申し訳なくてそう言うと、侍女頭である初老の女性がとんでもない!と憤慨した。

「良守様は王様ご一家がご家族同然に迎えられた方。その方が新年に普段着をお召しになるなど、他に示しがつきません!」
「あ…、そ、そうなんだ…。」

握り拳で力説されては反論もできない。それに確かに立場上、きちんとしておかなければかえって正守達に迷惑をかけるのかもしれないなと、ここは好意に甘える事にした。大人しくなった良守に満足したかのように頷きながら、侍女頭が言葉を続ける。

「それに新年には夜未様もご挨拶がてらいらっしゃるそうですし。良守様も将来義姉君になられる方にお会いするのに、普段着という訳にも参りませんでしょう?」

侍女頭の言葉に良守の動きが止まった。義姉って…、どういう意味だろう。

「夜未様って誰?」

不思議そうに尋ねる良守に、侍女頭は驚いたように言った。

「まあ、ご存じではなかったのですね。夜未様は昨年正守様の婚約者になられた方ですわ。」

嬉しそうに話すその言葉が良守の頭に入るのには少々時間がかかった。意味を理解したくなくて良守の思考が止まる。採寸が終わりやっと解放された頃には、頭が麻痺したみたいになっていた。

婚約者だなんて、よく考えたら当たり前だった。正守はこの国の皇太子で、しかもすでに成人している。むしろまだ結婚していなかった事の方が不思議なくらいで。それを考えたら、もういつ結婚したっておかしくはない。

体から力が抜けてしまったみたいにベッドに寝そべった。あんなに格好良くて頭も良くて、しかも王子様。なのに決まった人がいるという可能性をまったく考えてなかった。ここに来てから正守の周囲にそんな気配がなかったというのもあるけど、無意識に考えないようにしていたのかもしれない。だって今、良守は男の姿で身元不明の不審者だ。彼に釣り合うはずもなかった。

最初は一目会えればと思って、会えたら傍にいたいと願って。それで充分だと自分に言い聞かせながらその奥底ではそうじゃなかった。本当はやっぱり好きになって欲しかった。そんな自分の欲深さに吐き気がする。

悲しくて寂しくて、良守の足は無意識にフラフラと浜辺へと向かう。日が落ち真っ暗海は寄せて返す波の音だけが静かに響いていた。満月の白い光が遠くの水面に映って歪んでいる。その光に時音にもらった月光石を思い出し、そっと胸元から取り出した。乳白色の石は、月の光をうけ蜻蛉のような光を放っている。

近い将来、正守は后を迎える。それならばその前に良守は城を出ていかなくては。正守の傍にはいたいけど、その横には知らない女性が並び立つ。そんな2人を見るのはきっと今以上に辛いだろうし、祝福出来るはずもない。そうなる前に消えるべきだ。
でもその後は?正守に会いたくて恋しくて、会える事ばかりを夢見ていたから、その後の事なんて考えもしなかった。
人になった良守には帰る場所はない。家族も仲間もいない。ならばこれからはたった1人で生きていかなくては。
それも仕方ないと良守は思った。この数ヶ月、正守からたくさんの思い出をもらった。見ず知らずの自分を受け入れて家族のように大切にしてくれて、どれほど嬉しかったか。この幸せな思い出があれば、この先1人になってもきっと生きていける。

だけど、と不安が過ぎる。本当に自分にそれができるのだろうか。正守の傍を離れて二度と会えないし声を聞くこともない。あの低く落ち着いた声で「良守」と呼んでもらう事もなくなる。ーそんな孤独に耐えられる?

急に寒くなった気がして良守は自分の体を抱き締めた。嫌だと、抑えきれようもなく心が叫ぶ。離れたくなんかない。傍にいたい。でも傍にいられない。今でさえ正守の妻になるという見たこともない女性に、どうしようもない程嫉妬している。これで実際にその人に会ったら何を言ってしまうか分からない。正守の幸せに影を刺すような事だけはしたくなかった。

どうしたら良いんだろう。月光石を握り締め、良守は涙を流した。こんな時、時音がいてくれたら話を聞いてくれたのに。1人で抱え悩むには辛すぎる。自分から覚悟して手放したのに、今とても会いたかった。そんな時、波の音の中に「良守」と自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして良守は顔を上げた。真っ黒の闇のような海に目をこらす。すると少し沖にある岩陰によく見知った姿が見えた。

「時音っ!!」

まさかと思いながら海に入り必死に近づく。腰の辺りまで海水に浸かりながら良守はようやく時音の手を取る事ができた。

「時音…、もう会えないと思った…!」
「私もよ、良守!」

だけど辛かったでしょう。そう言われ、お互いを抱き締めながら喜んだのも束の間、時音の言葉に良守は驚きその体を離して彼女を見た。時音の顔は悲しげに歪んでいる。それを見た瞬間、彼女が全てを知っている事に気付いた。

「時音?どうして…。」

唖然とする良守を引っぱり砂浜まで来て座り込むと、時音は良守の胸元にある月光石を手に取って話した。

「今夜は満月だから月に力が満ちている。あなたの嘆きが月光石と海を通して、私達の元に届いたの。」
「そうだったんだ。…じゃあ、全部知ってるのか。」

良守の言葉に時音は静かに頷く。それを見て良守が自嘲するように笑った。

「ごめんな。あんなに色々心配かけた上にこんな事になって。でも俺は大丈夫だから。」

無理に笑ってみせる良守に、時音が溜息をつく。

「馬鹿ね。話を聞いて欲しがってたのは誰よ。大丈夫だなんて言われて、はいそうですかって私が納得すると思ってるの?」

尤もな言葉に良守がグッと言葉を詰まらせる。だがもうどうしようもないという事も分かっているから、事情を知ってしまっている時音に言うべき言葉もなかった。
項垂れてしまった良守を時音はじっと見ていた。そして一瞬だけ躊躇うような表情になったが、意を決したように胸に下げていた袋からある物を取り出した。

「良守、これを。」

時音が手渡したのは銀色に光るナイフだった。塚の部分も銀細工で出来ていて、一目で力を宿していると分かるような見事な物だ。

「これ、どうしたんだ?」

良守が知る限り、時音はこんなナイフは持っていなかったはずだ。不思議に思いながら尋ねると、時音はキュッと唇を噛み締めて辛そうな顔で良守を見た。

「良守。あんた、これであの王子を殺しなさい。」

言われた瞬間、良守の時が止まった。何を言われているのか理解出来ない。何か言おうとしたのだけど、唇が微かに震えただけだった。
何度か唾を飲み込み、ようやく良守の言葉が声になる。

「…と、きね。いま…なんて…。」

みっともない程に掠れた声に、時音は良守の目を真っ直ぐ見て告げた。

「あの王子を殺しなさいって言ったの。そうすればあんた、元に戻れるかもしれない。」
「そんなっ!時音、お前何言ってるか分かってるのか!?」
「分かってるわ!じゃなきゃこんな事言えないでしょう!?」

キツく良守を睨んでいた時音の目に、みるみる内に涙が溜まっていくのを良守は見た。冗談なんかじゃなく本気で言っているのだ。
立ち尽くす良守に、時音は諭すように言う。

「これは最後の手段なのよ。禁断の術は呪いの術でもある。良守の場合、王子様に会いたかったから術を使ったわけでしょう?なら、元凶である王子がいなくなれば、呪いも解けて良守も人魚に戻れるだろうってお婆ちゃんが言ってたの。」
「…だから正守を殺せって言うのか?そんな事出来るわけないだろ!」
「良守、酷い事を言ってるのは分かってる。でも私達は良守に還ってきて欲しいの。良守が人として幸せになれるなら、寂しくても我慢しようって思ってた。でもそうじゃないのなら、お願い、還って来て。」

時音に目に涙をためて懇願されて良守は途方に暮れた。どれだけ仲間達が、そして時音が自分の事を大切に思ってくれているかを考えると胸が張り裂けそうになる。

「この銀のナイフで王子の胸を刺せば、良守の飲んだ薬による呪いの術は解けるわ。」

渡されたナイフを握る事が出来ずにいる良守の膝にナイフをそっと置くと、時音は身を翻して海に戻る。

「良守が還ってくるのをずっと待ってるから。」


一度だけ振り返りそう言って海に姿を消した時音の残した言葉と、膝の上に残された銀色のナイフを良守はただ呆然と見るしかなかった。




2008.2.3


6



時音が消えた後、どうやって城まで戻ってきたのか。フラフラとした足取りのまま自室に戻ろうとした良守だったが、部屋に戻っても眠れないだろうと庭に寄る事にした。お抱え庭師が丹念に手入れした庭園は城に訪れた人が絶賛する美しさで、それは煌々と輝く月光に照らされて青白い幻想的な風景になっていた。途中に置かれたベンチに座り、時音に渡されたナイフを手に乗せてみる。

言われた言葉の意味は、理解できたようでいて頭の中を擦り抜けているような気もする。だけど時音や仲間達の心だけは良守の胸に刺さっていて、思い出すと涙が滲んできた。
時音にあれほど懇願されたのは初めての事で、還ってきてと涙ぐみながら言っていた彼女の声が遠くから何度も響いてくる。
それでも、正守を殺すなんて出来ない。そう思いナイフを懐にしまう。

「ーあれ、良守?」

立ち上がろうとした瞬間、名を呼ばれて良守はギクリと身を固めた。その声は間違えようもなく正守の声だった。

「正守…。」

驚いたように自分を見上げてくる良守に、正守が近づいていく。

「こんな時間にどうしたんだ。もしかして眠れないの?」
「正守こそどうしたんだよ。」
「俺は仕事が一段落したんで息抜きしてたとこ。」

そう言いながら正守は良守の座っていたベンチまでやってきて隣に座った。立ち去る訳にもいかなくなって、良守も座り直す。

「あんまり遅くまで無理すんなよ。正守が頑張ってくれるから助かるけど体が心配だって、この間王様が言ってたぞ。」
「無理はしてないよ。俺は俺のやるべき事をやってるだけ。」

飄々とした態度で笑ってみせる正守。良守は正守がどれほどこの国と領民を大切に思っているか気付いていた。豊かな領土と資源に恵まれたこの国は、それほど大国ではないが栄えている。そこに目をつけ何かと干渉したがる国は多い。それらの国と対等に渡り合う為、正守は自ら外交に乗り出し平和的に友好条約を結んでいた。あの嵐に遭ったのもその帰りの船旅での事だ。

王よりも皇太子の方が身動きしやすいからと進んで買って出た大役をこなすために、彼がどれほど努力をしているか。この数ヶ月間見てきてよく分かった。正守は大きな人だ。誰よりもこの国の皇太子、そして王に相応しい。
…その正守の婚約者だという夜未姫とは、一体どんな人なのだろう。正守が選ぶくらいだ。きっと美しくて気品ある人に違いない。

耐えたはずの涙がまた零れそうになって良守が下を向くと、それに気付いた正守が心配そうに「良守」と名を呼ぶ。

「具合でも悪いのか。随分顔色が悪いみたいだけど。」

顔を覗き込んでくる正守に、泣きそうになっていた事を気付かれたくなくて視線を反らす。

「月光りのせいだよ。あとちょっと寝不足だから。」

何でもないと正守から伸ばされた手を払う仕草をする良守に正守はほんの少し悲しげな顔をして、それから何も言わず小さな体を抱き寄せた。良守が驚き顔を上げようとするのを遮るように、その頭を抱え込む。

「良守。悩みがあるなら、何でも俺に話してくれ。」

真摯に告げられたその言葉に良守の胸が熱くなった。心から気遣ってくれるのが分かって切なくなる。


どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。こんな事言われると、正守に特別に思ってもらえてるんじゃないかと期待してしまう。そんなはずはないのに。彼にとって自分はただ倒れている所を助けただけで。弟みたいには思ってもらえてるかもしれない、ただそれだけの人間なのに。
一度だけその背中にしがみついて、それから良守は力を抜いた。抱き締めてくれる腕から身を離す。

「ありがとう、正守。でも何もないよ。俺は大丈夫だから。」
「…そうか。」

良守の言葉に正守は少しだけ寂しそうな顔になった。だけどすぐに表情を戻し、良守の頭を軽く叩いて促す。

「眠れなくても横になった方がいい。そろそろ部屋に戻ろうか。」

微笑む正守に無言で頷き、歩き出した正守の後を着いて行きながら、良守は先程抱き締めてくれた正守の温かさを噛み締めていた。

優しく包んでくれたあの腕が、近い将来確実に他の誰かのものになる。
心が荒れ狂ったように嫌だと叫んでいた。初めて会ったあの日からどうしようもなく惹かれたたった一人の人。正守は自分のものじゃない。そんなことはわかっているのに、誰にも渡したくなかった。
人魚に戻れるとかそんな事よりも、ただひたすら渡したくなかったのだ。

無意識の内に仕舞っていたナイフに手を伸ばす。懐に手を差し込むと冷たい銀の柄の感触に触れる。目の前を歩く大きな背中を見ているだけで泣きたくなって、本当に大好きだと思った。

大好き。愛してる。だから…、誰のものにもならないで。

柄を握り締め、懐から出す。月光の光を反射して輝くナイフを震える手で胸元まで掲げー。だがそこで良守は力を無くして手を降ろした。
やはり自分にはできない。好きだとか渡したくないという気持ちより、自分の中で一番大きな気持ちに気付いてしまった。
生きていて欲しい。例えその横にいるのが自分じゃなくても、正守には生きていて欲しいと思った。

正守を殺せなくて傍にもいられない。みんなの元へもかえれない。ならばこんなに辛い気持ちを抱えたまま、自分の生きている意味はあるのだろうか。
いっそ、このナイフで。そんな考えに駆られた良守の耳に、正守の信じられない言葉が聞こえた。

「…刺さなくて良いの?」

前を向いたままの正守が言った言葉に良守が息を飲む。目を見開いたまま固まる良守を、正守は静かに振り返った。

「それがお前の望みなら、好きにすると良い。」

そう言う正守の顔はとても穏やかに、少し微笑んですらいた。信じられない思いで良守は小さく首を振る。

「何でっ、何でそんな事平気な顔して言うんだ!俺はお前を殺そうとしてたんだぞ!?」
「良守になら殺されても俺は文句なんて言わないよ。…元々お前が救った命なんだから。」

正守の台詞に何を言われたのか一瞬分からず、良守は呆然とするしかなかった。体中から力が抜けて手からナイフが滑り落ちその場に座り込む。呆けたように自分を見上げてくる良守に正守はそっと近づくとその場に跪いた。地面についている良守の手を取るとビクリと震えるのを構わず、その手に付いた土を払ってやる。その動きを言葉無く見つめていた良守が弱々しく呟いた。

「…いつから…。」

その先の言葉が言えないでいる良守の手を自分の手で包み込み、正守が答える。

「気付いてたのかって事?」

正守の言葉に良守が無言のままコクリと頷いた。それを見て正守は僅かに首を捻る。

「う〜ん。いつからってのはハッキリ言えないかな。ある意味最初からかも。」
「最初って、俺が浜辺で倒れてた時から?」

驚いたように顔を上げる良守に、正守は頷いてみせた。

「あの嵐の時お前が助けてくれた事、忘れた日は無かった。だからあの日以来、どうすればまた会えるのかって考えながら海に行くようになったんだ。浜辺が散歩コースになったのもそれからだよ。おかげで良守に会えたんだけど。」

言いながら正守は良守の手を引いて立ち上がらせると、屈み込んで服についた汚れを軽く叩き落とす。そのまま手を握り元来た道を歩き出した。

「一目見た瞬間、あの時の子だって思ったんだけど男の子だったからさ。あの時は朦朧としてたから勘違いしてたのかなとか思ったんだけど、どっちにしてもよく似てたから無関係じゃないだろうって思って。弟とか血縁って線もありかなって考えたんだよね。」

歩きながら話す正守の言葉が耳に入っているのか、良守はまだぼんやりしている。それに苦笑しながら正守は話を続けた。

「連れ帰ったは良いけど、一緒に過ごす内にどんどん良守に惹かれていくし。同じ顔だからって好きになるくらい単純じゃない自覚はあるんで、あ、これは同一人物なのかなと思ったんだよ。助けてもらった時の状況からいって良守が人じゃない事は気付いてたから、多少の不思議は納得出来るしね。」

そこでようやく良守は正守を見た。パチパチと瞬きを繰り返す良守に正守は微笑み返し先程のベンチへと座らせる。

「あ、の、正守…。好きって…。」

戸惑うように尋ねる良守の手をもう一度握り返し、正守は「うん。」と答える。

「視界はぼやけてたし意識も朦朧としてたけど、俺を見て「良かった」って微笑んでくれたお前の顔だけは覚えてたよ。あの時からずっと、俺はお前が好きなんだ。」

はっきりと言われて良守が息を飲んだ。目尻に涙が浮かぶのを正守がそっと拭う。

「だから、お前に事情があって俺を殺さないといけないなら、俺は構わないよ。それだって多分、俺を助けた事絡みでなんだろ?」

正体見られたからとかかなぁ、と暢気に言う正守に良守は首をブンブンと振って否定した。

「違うんだっ。俺は正守に婚約者がいるって聞いて、傍にいられないって思って!そしたら時音が王子を殺したら人魚に戻れるからって言うし、正守の事渡すくらいならいっそって…!」

混乱しているせいか良守の言葉は省略されすぎていて、正守には分からない部分があった。時音というのは良守の仲間だろうか。いやそれよりも、婚約者がいるから傍にいられなくて渡したくなかったとは。

「…何で俺に婚約者がいたら、傍にいられないの?」

答えは分かる気もしたが、本人からちゃんと聞きたくて正守は敢えて問う。一瞬、何を聞かれているのか分からなかったのだろう。良守は不思議そうな顔で正守を見上げて、次の瞬間自分の言った事に気付いたのか顔が真っ赤になった。

「俺のこと、婚約者に渡したくなかった?それってどうして?」

重ねて問われて慌て戸惑う良守だったが、先程正守が言ってくれた言葉を思い出す。「俺はお前が好きなんだ」と、正守はちゃんと言ってくれた。ならば自分もちゃんと答えなくてはいけない。嬉しかったのだから尚更、それを伝えなくては。数度躊躇った後、良守は意を決して告げた。

「俺も…初めて正守に会った日から、ずっと好きだったから。だから正守が結婚するなら傍にはいられないって思ったんだ。」

良守の言葉に正守は驚き、目を細めて良守を見た。今までにないくらい優しく見つめられて良守は恥ずかしさに俯いた。これ以上ないくらいに真っ赤にした良守の頬に手を添えると、正守がそっとその額に口付ける。

「…確認しときたいんだけど、良守は人魚に戻りたいんじゃないんだよね?」

正守の問いに良守が「戻りたくない。正守の傍にいたい。」と正直に告げると、正守が嬉しそうに笑みを浮かべる。

「傍にいてよ。俺もずっと、良守だけが好きだから。」

言葉と共に抱き締められて良守が頷いた。温かい腕の中にいると、これが夢じゃないって実感出来て幸せだった。さっきまで絶望していたのが嘘みたいだ。嬉しくて幸せだけど…、一点だけ気になった事を口にする。

「でも、正守は婚約者がいるんだろ?」

心配そうに腕の中から見上げてくる良守。正守は安心させるかのように、髪を撫でながら言った。

「婚約者っていうか…、夜未姫も俺も年頃になっても見合い話を断ってばかりいてね。お互いの両親が痺れを切らせて、とにかく相手を決めようって強引に進めた事だから、俺も姫も承知してないんだ。二人してそんなだから正式な婚約もしてない。姫にはいつも、いつ話をぶち壊すつもりなんだって急かされてるぐらいだよ。」

夜未姫は俺の事嫌いだからなぁ、と笑いながら話す正守を良守は呆然と見た。頭が良くて紳士でこんなに素敵なのに、これほど完璧な正守を嫌う姫もいるという事に驚くしかない。その姫は余程変わっているのか、それとも相性が悪いのだろうか。
ただ婚約の件が正守の意思ではなく、お互いぶち壊すつもりだったという事に安堵した。だが問題はまだ残っている。

「だけど俺、男になっちゃってるんだけど。」
「ん〜、俺は良守が傍にいてくれるなら別に気にしないけど。良守はそういうの気になる?」

正守の言葉に良守は慌てて首を振って否定した。傍にいたいと望んだのは他ならぬ良守だったのだから。だが正守は皇太子だ。それが婚約者の姫とも結婚せずに男を傍に置いていても良いのだろうか。

「でも跡継ぎの事とかあるだろ?正守は王様になるんだし、その為にずっと頑張ってたじゃないか。」

心配そうな良守の台詞で彼が何を言いたいのかようやく分かった正守は、笑いながら「大丈夫」と答えた。

「別に俺は王になりたくて頑張ってたわけじゃなくて、この国が好きだから守りたかっただけだから。跡継ぎが必要なら利守が継げば良い。王にならなくても国を守る事は出来るさ。利守が一人前になるまでは、俺が宰相として補佐しても良い訳だし。」

それは正守が皇太子の座を降りるという事だ。そんな事はさせたくないと良守が小さく首を振るのに、正守がにっこりと微笑みかける。

「王位と良守なら俺は良守を取るよ。そもそも秤にかけるまでもない。」

何でもない事のように正守は言った。だけどその言葉がどれほど重く、深い意味を持つのか良守にだって分かる。

能力もあり、周囲から期待されている正守。本人だってその期待に応えるべくずっと努力してきたはずだ。それを自分を選ぶ事で無にしてしまうかもしれない。それで本当に良いのだろうかと良守は思った。それを見抜いたかのように正守が腕に力を込める。

「良守は俺に会う為に、人になって仲間も捨ててきてくれたんだろう?俺も同じ気持ちだよ。お前が残るなら、他には何もいらない。」

だからもう何も考えるな。そう言われて良守は目頭が熱くなるのを感じていた。同じ気持ちだと言ってくれた事が嬉しい。気持ちが高ぶり何も言えないまま、良守は正守を見上げ大きく頷いた。静かに閉じた良守の瞼から、幾筋もの涙が流れるのを正守は唇で掬うと、良守の体を強く抱き締める。涙で潤み輝く瞳に見つめられ正守はそっと屈み込むと、その小さな唇にキスをした。




2008.2.9


エピローグ
弟編 姫編


2008.2.10













266666打、みくろさんからのリク

リク内容は
「正良で人魚姫のパロディ」
でした。

童話物は前ジャンルでは書いた事があったのですが、正良では初めて。
どうなるか最初は不安でしたが、「王子様なまっさんを書けるチャンス!」
と張り切った結果、最後までノリノリで書くことが出来ました(笑)。
よっしを男の子のままにするか姫に戻すかで最後まで迷って
(正良的には弟のままが良いけど、童話的には姫エンドかと思いまして)
結局両方載っけてみることに。ラストはどちらも同じになっています。
お好みの方を脳内でラスト扱いしてくださいませ。
あと、よっしの前の人魚姫までハッピーエンドにしたのは私の趣味と
よっしと兄王子に血の繋がりをもたせる為です。

童話パロは好き嫌いが別れるかと思いますが、好意的なご意見が多く嬉しかったです。
前後編物をのぞくと初の連載になりましたが、その辺も新鮮な気持ちで書けました。

みくろさん、思い掛けず連載になった事もあり本〜当にお待たせ致しました。
少しでも気に入って頂けると嬉しいです!






Novel