もう戻れないんだよ、と。頭の中でどこか悲しげな声が響く。
それはボクの声だった。だけど違うという事も同時に分かっていた。
ボクであってボクではない、かつて持っていかれたボクの体にいたボク。
ボクの精神と繋がっていた、魂と繋がっていた。ーボクの中の真理。
悠久の流れ 永遠の孤独V
問い質されて何も言えないまま、二人の間に長い沈黙が落ちる。それを破ったのは兄だった。
「アル。」
少し固い声で名を呼ばれて、ボクは唇を噛み締めた。
「言っただろう。最近お前の様子が変なのは気付いてたって。大学の事だけじゃない。お前、何を隠してるんだ。」
静かに聞かれて、返ってボクは何も言えなくなってしまった。どうして兄さんには解ってしまうんだろう。昔からそうだ。
鎧の姿だったときだって、表情なんてないボクなのに。いつも兄さんはボクの気持ちや気分を察してくれていた。
本当は最初から、兄に隠し事をしようなんて無理な事だったのかもしれない。
それでも全てを打ち明けてしまうには、その事実は重すぎた。
もうこの人は今まで充分に苦しんできた。ボクらが犯した罪は罪として、償い以上に辛い目に遭ってきた。
その上どうして、また苦しめるとわかっていて。新たな重圧を課す事ができるだろう。
そんな思いはボク一人で充分なんだから。
何も言えないままの俯いてしまったボクの耳に、兄の溜息のような吐息が聞こえた。
「そんな顔、してんじゃねーよ。」
「…そんな顔って、どんな。」
「泣きそうな顔してる。」
兄の言葉にボクは咄嗟に両手で顔を塞いだ。そんな情けない顔をしてるのだろうか。
泣きたい気分だったのは本当だから、涙が滲んではいないかと不安になる。
もう頭が混乱していて、どうしたら良いのかさっぱり分からない。色んな事を覚悟していたはずなのに。
こんなにもあっさりと崩れてしまうなんて。
為す術もなく立ち尽くすボクの体を、ふいに温かいなにかが包み込む。
それが兄の腕で、その胸の中に抱き込まれたのだと気付いたのは、一瞬の間を置いてからだった。
どうしよう、苦しい。苦しくて苦しくて息が止まる。
優しい温もりが心地よくて、意識すら飲み込まれそうで、それが苦しくて仕方ない。
この温もりを手放したくない、諦めたくない。
例えこの身が人ではなくなってしまったとしても。どんな姿になろうとも。
鎧の体を持っていた頃から、それは変わりなく。兄さんと一緒にいられたらそれだけで良かったのに。
だけどもう、そう願う事すら駄目だと思った。だからこそ離れる決意をした。
その決意も、この腕の中では雪のように溶けてしまいそう。
兄の腕の中で顔を伏せたままのボクの耳に、信じられない言葉が届いた。
「お前が隠そうとしていること、多分オレは知ってる。」
一瞬、思考が止まる。今兄は何を言った?
ゆっくりと顔を上げると、兄は今まで見た事もないような顔をしてボクを見ていた。
「な…にを、知ってるって…。」
嘘だと思いたかった。この身に起こったこと、もうすでに兄さんに知られているなんて。
でもボクを見る兄の表情を見た瞬間、それが本当なのだと気付かされた。
兄は知っている。気付いている。この体が、人ではなくなったことを。
「知ってるんだ、お前の体の変化。いや、変わらなくなった体のこと、って言った方がいいか。」
その言葉に、全身の血が足下へと降りていったような気がした。
兄の腕が支えていなかったら、その場に倒れていたかも知れない。
抱き締められた腕に力を込められる。ぼくにはもう、その胸に縋り付いて今にも震えそうな体を預けるしかなかった。
最初に気付いた異変は小さなキズからだった。
新しく届いたばかりの本。ページを捲ろうとして指を切った。
紙で切ったにしては深かったのだろう、流れ出した赤い筋。それが見る間に止まっていく。
でもそれだけじゃなくて。
血が止まると同時にキズが塞がっていくのに気付いた時、きっとボクの顔は衝撃の為青くなっていただろう。
少しずつ消えていく傷跡。微かに震えながらそれを見ている事しか出来なかった。
時が止まったかのように長く感じられた時間は、実際には数分だったはずだ。
ついさっき切ったとは思えないほど、痕跡も残さず塞がった指を見ながら。ボクの全身は嫌な汗で濡れていた。
最初は自分でも信じられなくて。思ったよりも浅い傷だったんだろうと、無理矢理自分を納得させた。
それでキズが無くなった事を説明出来るはずはないと分かっていたけど、あえて考えないようにして。
でも「考えないようにして」いたということは、逆に常にその事が頭にあったという事だ。
ある日自分の中の疑問や猜疑を無視できなくなったボクは、意を決してナイフを取り出した。
鋭い痛みに顔を顰めながら、自分の左腕に斬りつける。
細く長く出来た赤い筋。そこから流れた鮮血が床を汚したけど、あっという間にそれは止まって。
傷つけたはずの場所を布で拭うと、そこには何もなくて。
確かにこの身を傷つけたという名残は、微かに汚れたナイフと血の流れた床だけに残った。
その時、ボクは自分の身に起こった変化を自覚した。その瞬間。
頭の奥深くで声が聞こえた気がした。
もう戻れないんだよ、と。頭の中にどこか悲しげな声が響く。
もう君はすでに人ではないのだからー。
それはボクの声だった。だけど違うという事も同時に分かっていた。
ボクであってボクではない、かつて持っていかれたボクの体にいたボク。
ボクの精神と繋がっていた、魂と繋がっていた。ーボクの中の真理。
そうだったのか、と呆然とするしかなかった。だけど妙に納得もしていた。
この体は一度完全に真理と融合したのだから。その細胞のひとつひとつに真理が溶け込んでいる。
当たり前の人でいられるわけもない。
だからこそ、悩み苦しんだけど兄から離れようと思った。
こんな事知ったら悲しませる。あんなに辛い思いをして取り戻してくれたのに。
悲しませたくなかった。苦しめたくなかった。何より知られたくなかった。ただそれだけだったのに。
だけど兄さんはいつ気付いたのだろう。ボクだって気付いてまだそんなに時間は経っていない事を。
ボクの疑問に兄は少しだけ悲しげとも取れる表情をした。
「本当は、もしかしたらその可能性もあるんじゃないかって、ずっと前から考えてた。」
兄の言葉にボクは唖然とした。
「どういうことなの兄さん。ずっと前って、体を取り戻す前ってこと!?」
「ああ。アル、お前の体に起こった変化は、真理に持っていかれていたせいだけじゃない。
オレ達はいつそうなってもおかしくはなかったんだよ。」
「オレ達…?」
その不可解な台詞を聞き、ボクは瞬時に兄の言わんとする事を理解した。
「あいつ…、親父が何百年も同じ姿だった事、忘れたわけじゃないだろ?
恐らくオレ達は母さんから受け継いだ血によって、ある程度まで当たり前に成長出来てたんだろう。
だがオレ達にはあいつから受け継いだ血も半分流れている。…人ではありえない血がな。」
「じゃあ、この体の変化は真理に溶けたせいだけじゃなくて、元々半分は人じゃなかったから。そういうこと?」
さっき兄が「オレ達」って言うから、もしや兄もボクと同じことになっているのかと一瞬焦った。
だけど同じ素地を持っているにしても、ボクのように全身を持っていかれるというきっかけが兄にはなかったのだから。
たとえ人とは違う血が流れていようとも、まだ兄は人のままだという事になる。
ホッとしたボクの言葉に、兄さんは苦笑いをして言った。「今はまだな」と。
それはどういう意味なのかとボクが問い質す前に、兄は抱き締めていた腕を解き、ボクから少し離れた所に立つ。
一連の無駄のない動きに魅入られてボクは身動きひとつ出来ずにいた。
頭の中に警鐘が鳴り響いていたのに。
「オレが何回真理に近づいたと思う?人体の全て、人としての理の全てをオレは知っている。」
な、にを。兄は何を言っている。何かをしようとしている?
「オレならお前と同じものになれる。お前と同じ血が流れ、人体の全てを知ったオレなら。」
「な…っ!!」
あまりの衝撃にそれ以上の言葉が出ない。今兄はなんと言った?
そんなボクを、兄はうっすらと微笑すら浮かべて見ている。
「意味がないんだ、お前がいないなら。オレはお前と一緒に生きていきたい。
アルがもうすでに人ではないのなら。人には戻れないんだったら。オレが選ぶ道はひとつだ。」
オレがお前と同じものになるよ。そう言って兄はポケットから何かを取り出す。見覚えのある赤い石。
「お前は気を失ってたから気付かなかっただろうが、本当はこれだけ残ったんだ。
この先お前の身に何か起こった時の為にと思って取って置いた。…役に立つ時が来たな。」
兄の言葉、その目はそれが本気なのだと物語っていて。全身から血の気がひいた気がした。
「駄目だ兄さんっ!!」
苦しかった。兄の言葉が嬉しくて、だからこそ苦しかった。
今まさに、兄はボクの為に人である事を捨てようとしている。引き返す事の出来ない道に踏み込もうとしている。
そんなことさせるわけにはいかない。この人だけでも人として生きて欲しい。
そう思うのに。心の奥底で、本当は歓喜している自分がいる。
何者にも邪魔される事もなく。いつか兄に訪れるだろう死にすら怯える事もなく、愛する者と同じ命を生きられる。
それこそ永遠に共にいられる術がそこにあり、兄もそれを望んでくれているのに。
どうしてその甘い誘惑を断ち切ってしまえるだろう。
初めて知った自分自身の欲深さ。こんなにも浅ましい想いがボクの中にあったなんて。
「許してくれアルフォンス。お前を手放せないオレを。失えないオレを、…許して。」
「ーーーーーーっ!!」
もう彼にその人を止める言葉はなかった。
パンッ!!