底なしの沼 後編












だだっ広い空間の中をカツーンと響く靴の音。規則正しく鳴るその音が、ひとつの部屋の前でピタリと止まった。


「…少しは正気を取り戻したか。」

鉄格子越しに声をかける。俯き固まっていた男は、聞き覚えのある声に顔を上げた。

落ちくぼんだ目。生気の無い顔。これがあの鋼のなのかと、戸惑うほどに別人のような姿。

澱んだ目で男ーエドワード・エルリックは、嘗ての上司の顔を見てそれから自嘲するように微かに笑った。


「…正気?オレは最初から正気だよ。だからこそあんな事をした。」

「あれが本心からだと、お前の真の望みだというのか。」

ロイ・マスタングが僅かに顔を顰める。エドワードは笑みを消した。


「オレはずっとあいつが欲しかった。その本心が隠せなくなっただけだ。」

カシャリと音が響く。錬金術が使えないようにと手枷をつけられたエドワードの両腕。


「あんたには感謝してるよ。オレを止めてくれたからな。」





元鋼の錬金術師であるエドワードと連絡が取れなくなった時、ロイはそれほど深く考えなかった。

体を取り戻す準備に入るという事は、国家錬金術師を辞退する時に聞いていた。

さらに術が秘すべき類の物である以上、我々は知らぬ振りをしなければならない。

成功したのかは気になったが、あの二人のことだから大丈夫だろうと、それくらいの信頼はしていた。

だからいつか、ほとぼりが冷めた頃にでも元気な姿を見せれば良いのに。そんな事を考えていた。

事態が怪しい方向へと傾き始めたのは4ヶ月前。ある少女が司令部を訊ねて来てからだ。

ウィンリィ・ロックベル。兄弟の幼馴染みの少女。二人からの連絡が途絶えたのだと彼女は言った。

悲願は達成していたらしい。2ヶ月前までは電話を頻繁にくれたのだと。

アルフォンスの体は衰弱しているからまだ暫くは戻れないけど、人前に出れるくらいになったら帰るからと。

そう確かに言っていた兄弟からの連絡が、ぷっつりとなくなった。

連絡はいつも電話で、どこにいるのかも教えてもらってなかったから探しようがない。

こちらには何か連絡はありませんかと、泣きそうな顔で少女は言った。

きっと探し出すからと約束して、その通りに探し出した。


数ヶ月前から住みだした錬金術師が、家を怪しく改造して籠もっている。

2人の兄弟で住んでいたはずなのに、最近顔を見るのは時々食料を買っていく兄の姿しか見ない。


それだけの情報が入れば充分だった。

閉ざされた玄関を焼き、強行突破した家の中。思い掛けずエドワードは抵抗らしい抵抗を見せず。

ベッドの中で眠るー気絶していた弟の体には、痛々しい程の暴行の跡と情事の痕跡があった。






「あいつを救ってくれ。オレみたいな狂人から引き離して、二度と会わせないようにして欲しい。」

「ーそれは、一生この牢屋からお前を出すなという事か?」

「それくらいしないと駄目だ。ここを出たらオレはまたあいつを探しちまう。」

頼む、と頭を下げ、それからエドワードは俯いた。ボソリと呟かれた言葉に、ロイは哀れむような視線を向ける。

それほどの想いだったのに、大切にしていたのだろうに。どこから歯車は狂ってしまったのだろうか。

「考慮しておこう」それだけ言って、ロイはその場を後にした。








アルフォンスの意識が回復したと聞き、ロイはその病室を訊ねた。

ノックに返されたアルフォンスの声はしっかりとしていて、少しだけ安堵する。

部屋に入ると起こしたベッドに寄りかかりながら、こちらを真っ直ぐに見るアルフォンスがいた。


「大佐。兄さんはどこですか。」

挨拶の声をかける前に訊ねられて、ロイはそのまま入り口で足を止めた。


「…そんなになってもまず兄の心配か?」

出そうになる溜息を堪えて言うと、アルフォンスが小さく頭を振る。


「兄さんは捕まったんでしょう?もう心配はいらないからと、ボクの主治医だっていう人に言われたよ。
 でも兄さんが捕まる必要なんてどこにもないのに。兄さんがいったい何をしたって言うんですか。」

「それはー、君の体を見れば一目瞭然だろう。」

「ボクへの暴行?それと監禁?それって相手が合意してても罪になるものなの?」

「…何を言ってるんだアルフォンス。それで兄を庇っているつもりなのか?」

「庇ってなんてないよ。本当の事を言ってるんだ。今度の事は酷い誤解です、早く兄さんを釈放して下さい。」

淡々と話すアルフォンスからは、庇っているという必死さがない。

まるで本当の事を当たり前に話しているとしか思えない姿に、ロイは訝しんだ。


「それで我々が納得すると思うか?君の体に残る痕跡は合意の上とは言い難い。鋼のも認めている。」

「兄さんは認めていないだけだから、ボクが納得してるって。それに被害者が被害を認めなくても立件出来るの?」

アルフォンスの言葉にロイは言葉を詰まらせた。暴行罪は親告罪だ。基本的に告訴がなければ起訴は出来ない。

この場合傷害罪も適応されるが、被害者がこれでは書類送検も難しい。何よりロイも無理矢理立件したいわけではない。


「しかし、監禁の事実はあるだろう。」

「監禁じゃなくて同居。ボクが体が弱かったから閉じこもってただけだよ。」

ボク達兄弟なんだから、同居を咎められる理由は無いと思うけど。アルフォンスは平然と言った。


「それで済ませるつもりか。」

「つもりも何も、これが真実だから。」

言葉を無くすロイに、アルフォンスは微笑みかけた。


「…みんなは兄さんが狂ったのだと思っているだろうけど。でも違う。狂ってるのはボクなんだ。」

その時アルフォンスが見せた笑みは、これまでの少し幼げな表情とは違っていた。

妖艶、と言ったらいいのだろうか。ロイの背筋に悪寒が走る。


「本当は大佐だって分かってるんじゃないの?ボクは閉じ込められていた訳じゃない。ほら、ボクの両腕。」

拘束されていた跡がある?と目の前に差し出された腕には掴んだような跡はあったが、それらしい痣はなかった。


「ボクらは錬成陣無しの錬成が出来るんだよ。両手を戒められてたならともかく、鍵なんて何の意味もない。」

「では君は自ら望んで、囚われていたのだと。あくまでそう言うんだな。」

険しい表情のロイに、アルフォンスはにっこりと笑ってみせた。先程と違い、無邪気に見える笑みで。

その奥に潜むものを思うと、とても無邪気とは言えなかったが。


「最初はね、ボクも驚いたし恐いとも思ったんだ。でも兄さんがボクだけを望んでくれる、それが嬉しかった。
 その時気付いたんだよ。こうなる事を望んでいたのはボクの方だったんだって。兄さんは認めようとはしなかったけど。」

エドワードは狂ったのは自分だけで、弟は巻き込まれたのだと思っている。そう思おうとしている。

もしかしたらこうなるように仕向けたのはボクなのかもしれないのに。

兄さんを煽るように他の人と楽しそうに話したり、態とそれを見せつけたり。それを無意識の内にやっていたとすれば。

この事態を引き起こしたのは、エドワードではなくー。


「…もし、貴方がボクから兄さんを引き離した方が良いと思うなら今しかないよ。
 今なら兄さんも罪悪感でいっぱいだから、ボクから離れようと思っているはずだもの。」

その時初めて、アルフォンスがロイから視線を反らした。無表情に言う言葉は、彼なりの最後の理性なのかもしれない。

ロイはあの牢屋でエドワードが呟いた言葉を思い出していた。



「これ以上あいつをオレの狂気に引きずり込みたくないんだ」確かにそう彼は呟いた。

だがそれはすでに遅かったのだろうか。元々アルフォンスにも狂気があったという事か。

それともー、アルフォンスの狂気がエドワードを引きずり込んだのか。

それはもう誰にも、本人達にも分からない。


その日、マスタング大佐はエドワード・エルリックの釈放を決めた。










「これで良かったのですか。」

ホークアイの言葉に、ロイは頭を振る。


「それがどんなに狂気じみたものでも、あの二人には必要なのだとしたら。それを止める権利は誰にもないよ。」

誰にも理解されない愛なのかもしれない。だが元より理解されたいとも思っていないのだろう。

狭窄的で閉鎖的な感情でも、二人が心からお互いを望むのなら。


「望むようにさせてやろう。それくらいしか我々に出来ることはない。」

本当はそれは間違ってると言うべきだったのかもしれない。

だけど自分が正しいのだと、お前達は間違っているのだとそう断言出来るだろうか。

大切な人はいる。愛を知らないわけじゃない。ただあの二人のような愛し方を知らないだけだ。

それなのにそれを否定する権利が自分にあるのかどうか、私には解らない。


「…幸せになってほしいと思っているよ、君達には。それだけは確かだ。」

小さな声で、もう会う事もないだろう兄弟へ伝えた事のない言葉を呟く。

その言葉はホークアイに聞こえたのかどうか。彼女は一瞬目を伏せた後、お茶にでもしましょうかと部屋を出ていった。










「どうしてだ、アル。これが最後のチャンスだったんだぞ。」

悲しそうに言う兄に、アルフォンスは苦笑した。


「諦めが悪いね兄さん。ボクはもうとっくに決めてたのに。」

座り込む兄に手を伸ばす。


「今度こそ認めてほしいな。ボクは望んであの家にいた。今もあの家に帰る事を望んでいる。」

見上げてくる金色の目に優しく微笑み、ゆっくりと抱き締めた。


「傍にいろって言ってよ。離れるなって。ボクにはその言葉だけでいいから。」

「アル…。」

ゆっくりとエドワードの手がアルフォンスの背に回される。ギュッと力が込められその体を抱き締めた。


「オレもお前も、離れられないんだな…。」

ぼんやりと、途方に暮れたように呟かれたその言葉に、アルフォンスは嬉しそうに笑う。


「最初から離れる必要なんてなかったんだ。もうそんな事考えないでね。」

その言葉に、子供のように頷く兄の頭を撫でながら、アルフォンスは微笑んだ。



「…最後のチャンスだったのは、ボクじゃなくて兄さんだったんだよ。ボクから離れる最後の、ね。」




















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