底なしの沼 前編
強い風が吹く。見上げるほど高い窓から、薄暗い曇天の空が見える。
雪を抱えたような厚い雲。今夜辺り降るのだろうか。
居間などの部屋は暖めているけど、玄関辺りはかなり冷え込んでいる。
厚めの木製の扉。そのドアノブに幾重にも巻かれた鈍く光もの。。
外の寒さを伝えるように冷え切った鉄製のそれに、そっと触れていた時だった。
「出ていきたいのか。」
後ろからかけられた声。振り返ると刺すような目で自分を見る兄がいた。
違うと否定する間もなく腕を取られる。引きずられ倒されたのはすぐ横の居間の床の上。
「兄さ…っ!!」
覆い被さる影の視線の冷ややかさに、これから起こる事を正確に予想する。
せめて違うのだと、出ていこうとしていた訳ではないのだと伝えたいと思ったが無理だった。
噛み付くようなキス。何度こういうキスをされただろう。それは初めての時からずっとで。
「…二度と出ていくなんて、そんな気が起こらないようにしてやる。」
冷酷に告げられた言葉は、アルフォンスのささやかな抵抗を留めた。
最後に。
最後に兄さんとまともな会話が出来たのは、いったいいつの事だったのか。
最後にボクが兄さん以外の人と会ったのは、どれくらい前の事なんだろう。
体を取り戻してから住み始めた家。普通の民家だったこの家を、兄さんは造り替えてしまった。
家の周りを高い塀が囲み、窓は天井近く、人の背よりも高い場所から日の光を通している。
外に出入り出来る扉はひとつだけで、そこには鎖が何十にも巻かれて鍵がかけられていた。
最初の頃は普通に暮らしていた。ボクの体は衰弱していたから、兄さんがずっと介護してくれていた。
長年の願いを叶え、顔を合わせると二人共自然と笑みが零れて笑い合う。そんな穏やかな日々。
それがいつからか変わり初めて。兄さんがボクを見る目が暗くなっていって。
ボクが人と会ったり話す事を嫌うようになり、外出する事も嫌がるようになって。
ある日、買い物に行こうと出掛ける準備をしていたボクを兄さんがー。
突然の事のように思えたその行為。だけど本当は予想出来た事だったのかもしれない。
あるいは心のどこかで予想しながら、気付かない振りをしていただけだったのか。
「ーーーーーーー…っ!」
ほとんど前戯なしで押し入ってくる熱塊に、声にならないない悲鳴が上がる。
出来るだけ力を抜こうとするのだけど、痛みに竦んだ体は緊張の為余計な力が入り強張るだけだ。
…息を殺しちゃ駄目だ。痛みを耐えようとすればする程、体に力が入ってしまう。
それは身を裂くような痛みだったけど、経験の無い痛みでもなかった。
いつまで続くのか、どれほどの痛みなのか、予想がつく分耐えるのもやり過ごすのも容易い。
それくらい考えなくても分かるくらいに、この体はこの行為に慣れてしまっていた。
本当は分かってるんでしょう。
ボクは自由を奪われてる訳じゃない。錬金術だって使える。
どれほど鍵をかけたって閉じ込めたって、それはボクらにとって意味をなさない。
それなのにボクがこうしてここに留まる理由を、あなたは知っているはずなんだ。
ただそれを認めようとしないだけ。
こうしてここにいるのがボクの意志なのだと。
どんな形であれ、あなたがボクを望むなら。それを拒みはしないのだと。
認めようとしないだけなんだ。
「あ…っ、ぁあ!」
痛みを堪えることは容易い。ましてや兄が与えるものだと思えば、その後に快楽があると知っていれば尚更。
最初の衝撃が少しずつ薄れ、変わりにやってくる感覚にボクはいつも翻弄される。
痛みなら耐えられるのに。自分を制御出来なくなるほどの極上の快感。
「アル、アル…っ!」
いつもボクを呼ぶ時とは違う、苦しげにも聞こえる兄の声。
ああ兄さん。兄さん。もっと呼んで、ボクの名前を。
あなたがボクの名前を呼んでくれるなら、必要としてくれるなら。ボクはどんな事があっても傍にいる。
苦しいくらいに兄さんが欲しい。どんな形でもいい、この熱が欲しい。
憎しみに近いくらいの愛でも、愛に近い憎しみでも。縛り付けて雁字搦めにして、離さないでいて。
背後から流れてくる金色の髪。背筋に伝い落ちてゆく汗。腰を掴む機械鎧の右手と、前をあやす生身の左手。
全てが快楽の源だった。肌が触れるだけでこの身は震える。
この時間が永遠に続けばいいと、遠くなる意識の中で願っていた。