「ふっざけるな!!」
怒鳴りながらテーブルに両手を打ち付ける。ミシリと嫌な音がした
その右手に握り締められているのは、たったひとつ残されたアルフォンスの手紙
それだけを残して姿を消したアルフォンス
「こんな、こんな手紙ひとつ残して姿を消しちまいやがって…!」
テーブルを打ち付けたままの両手が震えていた
それは怒りの為だったのか、それとも悲しみの為だったのか
「確かにこのままいられるとは思ってなかったさ。でもこんな結幕望んじゃいねぇ!」
ギリッと響く歯軋りの音。もう一度テーブルを激情のまま叩き付けると、エドワードは顔を上げた
「許さねえぞアルフォンス。納得なんかしてやらない。…絶対にお前を捜し出してみせる…!!」
深化ー後編ー
リゼンブールに別れを告げて一年が過ぎた
僕はいくつかの街を旅した後、北部の地方都市に身を寄せた
田舎に余所者が住み着くのは結構目立つ。だがこういうある程度都会の街なら雑多に人が溢れている
僕はすんなりとこの街に馴染み、表面上は穏やかな暮らしを続けていた
本名は使う訳にもいかないし、女性の体で男性名も無理がある
だから僕は響きを残してアルフォンシアという偽名を使っていた
一人で暮らす事にも慣れた。半年前から紹介されて働いている所でもよくしてもらっている
今、僕の暮らしには何の問題もない。…何も問題はないのだ
それでも心にぽっかりと開いてしまった穴だけは、どうしようも出来なくて
それなりに忙しい日々の中、気がつくと兄さんの事を考えている
会えないのだと思うと、ますます会いたくなるのに
愛しいと思うと、ますます想いは募るのに
それは覚悟をしていた事とはいえ、身を嘖む程に辛い事だった
「アルフォンシアさん!」
一日の仕事を終えて会社を出た僕を、一人の人物が呼び止めた
フレッド・アンダーソンさん。彼はこの会社の社長の息子で、今は貿易部門を任されていた
以前からとてもよくしてもらっている。でもそれがどういう意味を持つのかも分かっていた
向けられる好意に気付かない程、僕も鈍感じゃない
彼は穏やかに微笑みながら、一枚のチケット差しだした
「観劇のチケットがあるんだ。よかったら一緒に行かないかい?」
「…ごめんなさい。折角のお誘いですけど…」
少し戸惑い気味に断ると、彼は慌てたように手を胸の前で振って見せた
「そんなに申し訳なさそうな顔をされるのは辛いよ。…僕の気持ちは君にとって迷惑なだけなのかな?」
彼が苦笑いしながらそう言うので、僕は更に困ってしまった
良い人なのだ、それはよく分かっている。いつも僕を気遣って助けてくれた
それでも、そういう事ではないのだ。感情というものは
これ以上、この優しい人を僕に関わらせてはいけない。そろそろちゃんとしなくては
「僕には、ずっと好きな人がいるんです」
そう言うと彼は一瞬顔を強張らせたけど、すぐにちょっと辛そうな苦笑いを浮かべた
「そんな気はしていたよ。それは僕の知っている人?」
その言葉に、僕は頭を振ってから答えた
「貴方もこの街の誰も知らない人です。遠くにいて…、僕も二度と会っちゃいけない人ですから。
僕の心はその人の所に置いてきてしまったので、もう誰にも心動かされる事は無いんです」
「…二度と会えない人なのに?」
「二度と会えなくても、です」
その人の言葉に、僕は苦笑して答えた
「無理矢理にそう決めてる訳じゃないんです。ただそうとしか思えない。ただそれだけなんですよ」
そう言う彼女の顔は、辛そうに見えるのにとても綺麗で
この人にそんな顔をさせられる相手というのはどんな人物だろうと彼は思った
「君にそんな顔をさせる人ってのに会ってみたいものだよ」
「…俺もぜひ会ってみたいな」
その時急に二人の背後に現れた人影。その声にアルフォンシア、いやアルフォンスはハッとした
嘘、嘘だ。そんなはずは…!
きっと聞き違いだ。だって今の今まで何の気配も無かったのに
何より、この人がこんな所にいるはずが無いのに…!!
それでもそれまで何の気配も無かった背後に漂う、圧倒的なまでの存在感は間違えようもなくて
耳に届いた懐かしくも愛しい声を、自分が聞き違う事もありえないとわかっていた
コクリと唾を飲み込み、震えそうになる体を叱咤して、少しずつ後ろを振り返る
そうしてそこにいたのは、あれ程会いたくて会えなくて焦がれた存在
たったひとりの兄でたったひとりの愛しい人、エドワード・エルリックその人だった
「ど…うして、ここに…」
呆然と立ち尽くすアルフォンスに、エドワードは鋭い眼差しを向けた
「探したさ。あれからずっと、いきなり消えちまったお前を捜してたんだ」
「あれからずっと…?じゃあ一年も…!?」
驚きに目を見開くアルフォンスに苦笑する
「お前、こんな手紙ひとつで俺が納得すると思ったのか?あんまり甘く見るんじゃねえ」
エドワードは懐からボロボロになった封筒を取り出した。それはアルフォンスが残したあの手紙だった
それをじっと見詰めたまま、押し殺したような声で話すエドワード
「お前の言いたい事とか気持ちとか、分かってるつもりだよ。それでも納得はしてやれなかった。
だってな、あんな別れの為に俺達は旅をしてきたわけじゃないはずだ…!」
苦しげな声だった。苦しげな表情だった
聞いているだけで胸が押しつぶされそうになるくらいに
兄さんにこんな辛い顔をさせたのは…、僕なんだ
「確かにあの時の俺には躊躇いがあった。お前を同じ罪に引きずり込む事への躊躇がな。
だけど離れるくらいなら…、お前のいない世界で生きていく苦痛に比べたら、罪の意識なんて何ともねえ」
ああ、本当だね。僕も貴方のいない場所で生きてきたこの一年、とても苦しかった
呼吸をする事さえ辛い日もあったよ
そして僕は兄さんにそれ以上の苦痛を与えてしまったんだ
たった一人で僕を捜してー、それはどれ程の苦難の旅だったんだろう
でも、それを厭わない程に、こうして探し出してくれる程に
今でも僕を望んでくれているの?
あの時結局は逃げた僕に、こんな事を思う資格はないのかも知れないのにー
「もう俺は躊躇わないし迷わない。だからお前も俺を巻き込むなんて恐れるな」
そうして、目の前に兄の手が差し出された
「俺を選べ!俺の手を取るんだ、アルフォンス!!」
ーもう、駄目だ。自分にその資格がないとしても
嬉しいと思ってしまう気持ちを抑えられない…!!
ゆっくりと兄の手を掴んだ。その途端引き寄せられ、強くその逞しい胸の中に抱き寄せられる
欲しかった兄の温もりだと感じた瞬間に涙が溢れてきた
体が震えていたのは兄に禁忌を犯させる為ではない。そんな考えはもうすでに頭から消え去っていた
嬉しくて嬉しくて、歓喜に震えていた。それと同時に湧き上がる後悔の念
「ごめん、ごめん兄さん。黙って出ていったりして、ごめんなさい…っ!」
あの時はあの道しか選べなかったけど。今考えても同じ道しか選べなかったと思うけど
その為に兄さんをこんな辛い目に合わせてしまった事が申し訳なくて
ただ泣きながら謝る事しか出来ない僕を、兄さんは強く抱き締めてくれた
「良いんだ、アル。お前も苦しんだんだから。だけどもう俺から離れたりしないでくれ」
兄のその言葉に、僕は顔を上げた。そこには優しく僕を見詰める兄さんの眼差しがあった
僕は小さく頭を振り、涙を零しながら兄さんを見て懸命に答えた
「離れない、もう絶対に離れないからっ。ずっと兄さんの傍にいさせて…!」
「ああ、もう絶対に離さないからな。…愛してるよ、アルフォンス」
もう一度強く抱き締められて、耳元で囁かれたのは初めての愛してるの言葉
家族として以外の意味では初めて口にされた言葉
だから僕も今までの想いを全て込めて、その言葉を口にした
伝えてはいけないと、ずっと胸の奥に留めていたその言葉を
「僕も兄さんを、貴方だけを愛してる」
そう言うと兄の顔が少しずつ近づいてきて、そっと優しく口付けをされた
そのまま未だ涙を零す目元に、頬に、口付けが繰り返される
やっと涙が止まった時、兄が僕を促した
「アル、行こう」
「うん」
その時、少し離れた所で呆然と成り行きを見ていたフレッドの姿が見えた
アルフォンスは彼に微笑んで別れを告げる
「今までお世話になりました。…さようなら」
ーその微笑みを彼は忘れる事はなかった
それまでの憂いを帯びた笑みとはまったく違う、見ているだけで幸せになりそうな微笑み
それは初めて見た本当に幸せそうな彼女の姿だった
「ねえ、兄さん。どこに行こうか」
「そうだな。…誰も俺達の事を知らない所に行こう」
全ての過去を捨てて、新しく二人で生きていく為に
こうして彼らを知る者の前から、兄妹は完全に姿を消した
リゼンプールの空は澄み渡り、白い雲が滑らかに流れていた
作業の合間の息抜きに庭に出ていたウィンリィに、声をかけてきたのはいつもの郵便配達人
「ロックベルさん、郵便です」
「あ、はーい。お疲れさまー」
手渡された郵便物を見ていたウィンリィだったが、一通の封筒に気付いた彼女の表情が変わった
差出人の名前は無い。ただ端に小さく『E&A』とだけ書かれている。彼女は慌てて封筒を開けた
シンプルな便せんに書かれていたのは簡潔な一言
『僕達は今幸せです。心配しないで下さい』
それを見たウィンリィの瞳から涙が零れた
「…馬鹿ね。もう私はあんた達の心配なんかしないんだから。だから二人で勝手に幸せになんなさい」
そうして彼女は空を見上げた
この同じ空の下のどこかで、きっと誰よりも幸せになったはずの二人の姿を思い浮かべながら