その姿を、一分一秒でも長く、この目に焼き付けたかった
遠く離れても、貴方の姿をすぐに思い浮かべる事が出来るように
深化ー前編ー
うっすらと部屋を照らす朝明
その光さえも弾きそうに輝く金色の髪
子供の頃から僕は兄さんのこの髪が大好きだった
ちょっと癖のある硬質な僕の髪とは違う、真っ直ぐでサラサラとした兄さんの髪
一緒に眠る時、つい指に絡めては痛いと兄さんに怒られた
あの頃よりも長く伸びた髪を、少しだけ手に取ってみる
相変わらずサラリとした感触。手の中からスルリと零れていく
いつまでもこうしていたい
でも時間はもうすぐの所まで差し迫っていた
兄は深い、深い眠りについている
ちょっとの事では目を覚まさない、深い眠りに
そうなるように、薬入りのお茶を差し入れたのだから
ひとつ、僕は大きな息を吐いた
もうそろそろ向かわなくてはいけない
眠る兄の姿を目に焼き付ける
これが最後だと思うと、どうしようもなく胸に込み上げてくるものがあった
好きだよ、兄さん。本当に大好き
貴方だけがいつだって、僕の中で特別だった
こんなにも貴方を愛せた事、僕は誇りに思うよ
たとえこれから先、もう二度と会えなくても
貴方を愛した事を後悔する日だけは、絶対に無いと確信出来る
「ずっと、ずっと。兄さんだけを愛してるから。僕には貴方だけだから」
だから黙って出ていく僕を許して
勝手なのは分かってる。でも僕にはこの道しか選べないんだ
眠る兄の姿を瞼に焼き付けて
一度だけ、そっと唇に口付けた
最初で最後の口付けは、自分の涙の味がした
兄と共に体を取り戻してから過ごしたリゼンプールの僕達の家
その大切な場所を僕は出て行く
両手に荷物を抱えて玄関を後にすると、涙が零れそうになって困った
そのまま駅への道を歩いていると、僅かに聞こえる僕を呼ぶ声
誰かなんて考えなくても分かる、耳に慣れた大切な家族の呼ぶ声
「ウィンリィ…」
「アル…!」
全速力で走ってきた彼女は、僕の前に辿り着くとゼイゼイと息を切らせて辛そうに呼吸した
暫くしてやっと息が整うと、キッと僕を睨んでくる
「アル。あんたこんな時間に何やってるの」
「…ウィンリィこそ。まだ起きるには早い時間だよ」
「私は急な仕事が入ったんで徹夜だったのよ。
それでちょっと息抜きしようとベランダに出たら、荷物を抱えたアルが歩いてるんだもん。
で、アル。私の質問に答えてないわよ。こんな時間にそんな荷物抱えて何やってるの」
きっと分かっているだろうに、それでも聞いてくるウィンリィに苦笑する
「見逃してくれないかな?」
「駄目よ。何となくアルが考えてる事も、しようとしてる事も分かるけど、納得はしてないもの」
納得するまで退かないだろう頑固な性格はよく知っていた。何しろ赤ちゃんの頃からの付き合いだ
何より彼女には嘘をつきたくは無かった
「ウィンリィの考えてる通りだよ。…この村を離れようと思って」
「…こんな時間に誰にも内緒でこっそりと?あんたが離れようとしてるのは、この村じゃなくてエドでしょう」
ああ、やっぱりお見通しだったんだね。隠せてるとも思っていなかったけど
「分かってるならこのまま行かせてよ」
「駄目だったら。納得してないって言ったでしょ?」
そう言った彼女の眉が少し下がって悲しげなものになった
「やっと、やっとなのに。あんた達が元に戻ってこの村で暮らせるようになって、まだたった一年よ?」
「…たった一年、本当だね。あっという間に過ぎ去った気がするよ。でもね、ウィンリィ。もう限界なんだ」
僕は真っ直ぐにウィンリィの顔を見て言った
「このままの状態でいる事は出来ないんだよ」
その意味を正確に把握しているウィンリィは、苦しそうに顔を歪めた
「僕は、今僕自身がとても恐い」
「恐いって…?」
僕は小さな息を吐いた。苦いものが喉の奥から込み上げてくるような気がした
「兄さんも僕も分かってるんだ、お互いの気持ちとか。もう手を伸ばせばすぐ捕まえられる距離にいる事を。
それを留めているのは、辛うじて残っている理性だよ。お互いに相手に更なる禁忌を犯させたくないっていうね。
でも僕はもう、それすらどうでもよくなってきてる」
「アル…」
「禁忌を犯させる事になっても、構わないって。兄さんが欲しい、触れていたいって思うんだよ。
そんな風に考えてしまう自分自身が恐いんだ」
だから
「今、離れなきゃいけないんだ。一度でも触れ合ってしまったら、もう二度と離れられない。
そうなる事を望んでしまう前に、兄さんを僕の感情に引きずり込む前に。今ならまだ間に合うから」
「…馬鹿っ!!」
ついにウィンリィは堪えていた涙をポロポロと流しはじめた
そのまま、僕の胸にしがみついてくる
「あんたはそれでいいかも知れない。でもエドが納得すると思ってるの!?
エドはねぇ、あんたしかいないんだからね!あんたがいないと全然駄目なんだから!!」
「大丈夫だよ。兄さんにはウィンリィもばっちゃんもいる」
「冗談じゃないわ、エドの面倒なんて見ないんだからっ!あいつの面倒をみれるのはあんたくらいのもんよ!」
怒鳴りながら大泣きに泣く幼馴染みを抱き締めて、その背中をそっと撫でた
やっぱり、泣き虫なのは相変わらずだねウィンリィ。そんな所も大好きだけど
「ごめんね、ウィンリィ」
「ごめんじゃないわよ。あんた達ったら、いつもいつも心配ばっかりかけるんだから…っ」
しゃっくり上げながら泣き続けるウィンリィを、強く強く抱き締めた
「本当にごめん。…大好きだよ、ウィンリィ」
「あ…、ア…ル…?」
ごく軽い首筋への手刀で力を失って頽れる体を抱き上げる
ちょっと苦労したけど、こういう時体を鍛えていて良かったなって思う
普通の女の子じゃ、人一人抱えて歩くのは至難の技だろう。僕はそのままロックベル家へと向かった
ばっちゃんも起きているのではと思ったけど、どうやら徹夜したのはウィンリィだけのようだった
家の中は静まりかえっている
二階のウィンリィの部屋まで運びたかったけど、そうすると隣の部屋のばっちゃんに気付かれるかも知れない
仕方なく僕はウィンリィをリビングのソファに寝かせて、診察室から持ってきた毛布を被せた
「ウィンリィ、ずっとありがとう。さようなら、…兄さんをよろしくね」
涙に濡れた目元を拭って、僕は大切な幼馴染みに別れを告げた
始発の駅に人影はなかった。そしてこの時間この駅は無人駅になる
僕は考えていた通りに、誰にも見られずに懐かしい故郷を旅立った
それは二度目の故郷との別れ
そして大切な人達との別れ
この世界で誰よりも愛した兄さんとの別れだった