「じゃあ大佐、あいつを頼む。」

「それは構わないが…、君はこれからどうするつもりだ。」

「そうだな、あいつの体は取り戻せたけど俺の手足はまだだし。

 焦る必要もないわけだから、これまで通り旅をしながら研究を続けるさ。」

別にこのままだって構わないんだけどな、そう言って笑う少年の笑顔が痛ましいと感じるのは。

ー私の感傷なのだろうか。



「…本当にこれで良いのか?」

どうにも納得出来ない心を抑えきれない私の言葉に、少年は以前と変わらない不適な笑みを見せた。

「良いんだよ。これであいつはやっと、普通の幸せを手に入れられる。」



では、君の幸せは?

そう言ってしまいたかったけど、それはついに口にする事は出来なかった。




それから3年









偽りの幸せを幸福と呼べるなら




















「アール!アルってば!」

耳の近くで名前を呼ばれてハッと顔を上げると、そこにいたのは同期のエレーナだった。

「もう、アルったら何度呼んでもボーっとしちゃってるんだもん。目を開けたまま寝てたんじゃないでしょうね?」

遠慮のない言葉に思わず笑ってしまう。さっぱりとした彼女の性格はいつも好ましく映る。



「ごめんごめん。寝てはいないけど、確かにぼんやりしちゃってたみたいだ。何か用事だった?」

「うん、さっきの公衆衛生でちょっと引っかかった所があってさ。教えてもらおうと思って。」

「どこの部分?」





国立セントラル大学の医学部に入学して2年。ボクは充実した日々を過ごしていた。

勉強は面白かったし、学友にも恵まれ。自分でも恵まれた環境にいると思う。

いくつかの問題点を除けば、の話だったが。



アルフォンス・マスタング。それがボクの名前。

年は一応18歳という事になっている。16歳の時にスキップしてこの大学に入った。

だけどそれ以前、どこの学校で学んでいたのかそれは分からない。

学力的に問題ない事がわかったので大学へ進学したが、それまでちゃんと学校に通っていたのかすら分からないのだ。

何しろボクには3年より前の記憶が一切ないのだから。



日常に関する事、一般常識的な事は分かる。

でも家族がいるのか、どんな友人がいたのか。自分自身の事がまったく分からない。

ボクの事で分かっていたのは、アルフォンスという名前だったらしいという事だけ。



ボクが覚えている一番古い記憶は、病院のベッドの上にいた事だ。

それよりも前に何度か目覚めていたらしいのだが、どうやら酷く錯乱していたようで。

何度も目覚めては興奮して暴れるという事を繰り返し、鎮静剤のお世話になっていたらしい。

おかげでその辺りの記憶は殆ど無い。



やっと落ち着いてきたボクを尋ねてきたのが、ロイ・マスタング准将だった。

軍人で国家錬金術師。若くして准将という高い地位に就く炎の錬金術師。

意識を失い倒れていたボクを見つけてくれたのが彼だったらしい。

それから何度か見舞いに来てくれた彼は、ボクに以前の記憶が無い事が分かると身元引受人になってくれた。

ボクは倒れていた時、アルフォンスとだけ名乗ったのだそうだ。

その時のボクにはまだ記憶があったのだろうか。その事すらボクは覚えていない。

後は結局分からず仕舞い、思い出す気配すらなかった。そんなボクを養子として引き取ってくれたのも彼だ。

だからロイさんは、ボクにとってたった一人きりの家族と呼べる存在で。大切な人だった。



3ヶ月入院して、体の方には異常がない事が分かりボクは退院した。

それからはロイさんの家に同居させてもらいながら、カウンセリングを受けたりして。

学力判定試験を受けた後、このセントラル大学へと入学した。



それから2年、過去の記憶が無い事を除けば、ボクの生活は順風満帆と言えた。

それでも時々どうしようもなく不安になる時がある。

ボクは一体何者なんだろう。どんな風に生きてきたんだろう。

家族は、友人は。どこの街で暮らしてきたの。

考えても答えは絶対に返らない、誰も知るもののいない問い。

思い出せないのなら考えてはいけないんだ。だってその事を思うと足下から崩れていくような錯覚に襲われる。

3年という月日の中、やっと築き上げてきたボクという人格すら壊れてしまいそうになる。

目まぐるしく時は過ぎ、やがて失った記憶より今のボクとしての記憶の年月の方が長くなった頃には。

もしかしたら、過去の記憶なんてどうでも良くなっているのかも知れないけど。

考えたくないのに考えずにはいられない。それは今のボクにとって、重要な位置を占める事だった。












「助かったわー。やっぱり困った時のアルフォンス様よね!」

「お役に立てたようで何よりです。でも煽てたって何も出ないからね。」

にこにこと上機嫌のエレーナに苦笑する。



スキップして入学しているのはボクだけだったので、まわりのみんなは年上ばかりだ。

エレーナも例に漏れず、ボクより2つ上の20歳。ガールフレンドというよりお姉さんのような存在だった。

周りはそうとは受け取ってはいないようだけど、彼女は頓着していない。

知り合って暫くして、話のウマが合うというか気が合ったので学内で一緒にいる事が多くなった頃から噂が立ち始めたのだけど。

『気に入った人と話すのに、そんな事気にする必要ないもの。男と女が一緒にいればイコール付き合ってると思い込む方がお馬鹿だわ。』

そう言って笑っていた彼女。そんな気さくで豪快な彼女だったから、ボクにとって本当に気を抜ける数少ない知己となった。



しばらく経って、彼女からある事を提案された。

それはボクがずっと女性からの告白を断り続けている事を疑問に思った彼女に、全てを打ち明けた時の事だ。

ボクとしても、自分が何者なのかという疑問と葛藤を抱えたこの状態で、恋人を作ったりする余裕はない。

まだ、誰かを支えるほどの力はないから。



『それじゃ私達が付き合ってるっていう噂、否定しないでおきましょ。アルはモテるし、一々断るのも大変でしょ?』

付き合ってるって事にしとけば告白してくる子も減るわよ。

そう言う彼女に、最初はそんな事申し訳ないと断った。だって美人で性格も良い彼女はとてもモテるのに。

ボクと付き合っているなんて事にしておいたら、エレーナは好きな人とも付き合えない。

『今は勉強に集中したいの。アルと付き合ってる事にすれば、私も色々助かるのよ。』

それ以来、お互いに告白される回数は格段に減った。その事にホッとしていたのは事実だ。

今ではエレーナの提案にとても感謝していた。


同じ医学部に所属し、将来内科の臨床医になりたいという目標も同じボクら。

そんなボクらだったから、必然的に一緒にいる時間も増える。

遠慮のない言葉のやり取りは、端から見れば付き合っているようにしか見えないのかも知れない。





苦笑いのボクに、エレーナは煽ててなんかいないわよ。と真顔で言った。

「はっきり言って教授の講義より解り易かったわ。変に回りくどいんだもの、あのナルシストハゲ。

 もしかしたらアルは、臨床医になるより大学に残って教授になって、次世代の医者を育てた方が良いのかもしれないわ。」

「ナルシスト…はともかく、髪の事は言っちゃ駄目でしょ。教授もその辺努力してるみたいだしさ。

 大体それだと、ボクの夢はどうなるの。」

「分かってるわよ。でもアルの講義なら解りやすくて、勉強しようって気にもなりそうなのよね。」

「別にそんなに持ち上げなくても、ノートならいつでも貸すから。」

「あら嫌ね。私はそんなつもりは。」

ホホホ、と態とらしく口に手を当てて笑うエレーナに、小さく溜息だ。



「それじゃ、いつもお世話になっているアルフォンス様に、エレーナさんが取って置きのお店を紹介しましょう!」

この間見つけたのよ、すっごく美味しいパスタのお店!


嬉しそうに話す彼女の言葉に、ボクは笑いながら頷いた。
































Back Next