いつだって君に夢中U 前編




良守の体に異変が起きてから3日が経った。
翡葉からの報告では治せる目処はまだついていない。長期戦を覚悟し、正守は一度夜行へ戻ると滞っていた仕事を片付ける。良くできた副官は、また早めに実家に戻れるようにと手筈を整えてくれていた。目下、この部屋にある書類を片付ければまた烏森へ行く事も出来るだろう。正守は殆ど休息も取らずに仕事に没頭した。

一旦夜行に戻ると言った時の良守の不安げな顔が脳裏に浮かぶ。正守が忙しい事が分かっている良守は引き留める事はしなかった。だがそれが本心ではない事くらい、あの顔を見れば解る。元々出来るだけ早く仕事の都合をつけてまた帰ろうと考えていた正守に、出来るだけではなく早急に帰ろうと決意させるに充分な顔だった。



それから丸2日かけて山のように積まれた書類と、夜の内に部下達では手間取りそうな仕事を3件片付け正守はまた烏森への帰路についた。3日間の休暇をもぎ取って来たが、その間に解決しないようなら本当に長期戦だ。奥久尼に連絡をする事も考えなくてはいけない。奥久尼が現時点では手を組んでいる相手であるのは幸いと言えるが、と言っていつ敵対するようになるか分からない以上、易々と弱みを握られたくない相手でもある。本音を言えば最後のギリギリまで頼りたくはない相手だが、他に道が無いならば先延ばしするのは無意味だ。

蜈蚣に送らせて墨村の家に到着する。時間は午前4時。まだ空も暗く誰もが寝静まっている時間帯。良守も仕事から帰り、ぐっすり眠っている頃だ。正守は最近持つようになった合い鍵で玄関を開け、そっとその身を滑らせた。古いが手入れの行き届いているおかげで、がたついていない玄関扉がありがたい。それからすぐ玄関横の部屋の襖を少しだけ開ける。
部屋の主は布団の中で丸まっていた。残念ながら頭だけしか見えないが別段問題は無さそうだ。まあ本来の性別が入れ替わっているという点を除けばの話だが。

眠る良守を起こすつもりはない。正守はまた静かに襖を閉めると、隣の自分の部屋へと入った。数日中に帰ってくると言っていたからか、布団は押入には仕舞われず部屋の隅に置かれていた。それを広げて寝床を整えると浴衣に着替えて横になる。
2〜3時間は眠れるかな、と考えながら正守は携帯を枕元に置き目を瞑った。





トントンと聞こえる規則正しい音と、漂ってくる味噌汁の香り。いつも通りの和やかな光景が広がる台所に立つ修史の後ろ姿に正守は声をかけた。

「父さん、おはよう。」

その声に驚いたように振り向いた修史郎は、次の瞬間顔を綻ばせる。

「正守!帰ってたんだね。」
「うん、夜明け前に。3日間休みもらってきたからよろしく。」
「3日も?よく休めたね。でも仕事忙しいんじゃないのかい?」

一瞬嬉しそうにした後心配げな顔になる修史に、正守は安心してと言って笑った。

「その分の仕事は片付けてきたから大丈夫だよ。緊急時には戻る事もあるかもしれないけどね。最近休んでなかったから、もうちょっとゆっくりしてこいって言われて追い出されてきた。」

楽しげに言う正守に修史はホッとしたように、じゃあすぐ朝食にするからと微笑んだ。それに頷いてから居間へと顔を出すと、祖父が新聞を読みながら茶を飲んでいる。

「おじいさん、おはようございます。」
「おお正守か。よく帰ってこれたな。」

手にしていた新聞を畳み顔を上げた繁守に、軽く目礼をすると隣に座り向き合った。

「して、どうじゃった。何か手立てはありそうか。」

問われた事に無言で小さく首を振る。それに繁守も力が抜けたように頷いた。

「わしの方ももう一度蔵書全てを読み返してみたが、参考になりそうな記述は無かった。やはり簡単には治りそうにないのう。ほんにあの阿呆は面倒をかけおって。」
「まあ起こってしまった事は仕方がないですよ。良守も反省はしているようですしね。」
「こんな自体を引き起こしておいて、反省も出来んようなら救いようがないわい。」

ふん、と鼻息を荒くする繁守に正守も苦笑するしかない。心配しているだろうに、それを気取らせまいと強気に出る態度は弟と一緒だ。

「とにかく、医療班も頑張ってくれているようなので、あと数日様子を見てみようと思っています。その間に治療の目処が立てば良し、立たないようなら次の手段に移ろうかと思いますがいかがですか。」
「次の手段と言うと裏会か?」
「ええ。それ以上先延ばしにも出来ませんから。」

正守の言葉に繁守は考え込んだが、結局それしかないと悟り頷いた。

「任せる。面倒をかけてすまんな、正守。」
「気にしないでください、俺は面倒とは思っていません。弟の尻ぬぐいくらい兄として当然ですよ。」

わざと茶化した風に言った言葉は本心からのものだ。良守に関する事で面倒と思った事はない。むしろ他の誰でもなく自分が関わりたいと、そう思っているのだから。



それから取り留めなく話をしている内に修史が仕度を終え、起きてきた利守を交えて朝食になった。今日は土曜で休日だから、夜中に仕事をしている良守が朝食の時間になって起きてこなくてもうるさくは言われない。特殊な家業を持つ墨村の家では、その辺りは多少緩くなっていた。

食事を終えると繁守は自室に戻り、修史は台所で片付けを始める。良守はまだ寝ているし、今の内に携帯に届いているはずの報告メールに目を通しておくかと懐の携帯に手を伸ばそうとしたところで、隣でお茶を飲んでいた利守に「正兄」と声をかけられた。なに?と横を向くと大きな目が見上げてくる。

「正兄、今回はどれくらいいられるの?」
「そうだな、一応3日は休みをもらってきたよ。」

その言葉に利守がホッとしたような顔になった。

「良かった。正兄忙しいから、すぐ戻っちゃうんじゃないかって思ってたんだ。」
「この間はバタバタしてて、利守とも全然話せなかったもんな。今度はちょっとゆっくり出来るよ。」

暗に遊べるのだと匂わせれば、利守は一瞬きょとんとしてから小さく首を振った。

「違うよ。ボクも正兄に遊んで欲しいけど、今回は良兄についてあげててよ。そもそも正兄が家に帰って来てるのだって、良兄を治すためなんだし。」
「まあそりゃそうだが、今日明日は完全に様子見だから、別に俺がする事は何も無いんだぞ?」
「そうかもしれないけどさ。…この2日間、良兄ちょっと元気無かったんだよ。落ち着かないっていうか。やっぱりああいう事になって、さすがの良兄も心細かったんじゃないかな?だから正兄がそばにいれば元気になると思うんだ。」

利守の言葉に、正守は目をぱちくりさせて驚いた。それから微笑すると利守の頭をそっと撫でる。
まだ幼いのに利守は人一倍洞察力に優れているし賢い。そして兄思い、家族思いだ。その利守がこういうからには、それなりに良守も不安定になっていたのだろう。当然といえば当然だ。只でさえ多感な年頃だというのに、いきなり性別が変わってしまったのだから。

「ありがとう。良守のそばにお前がいてくれると思うと、俺も安心できるよ。」
「本当?本当にそう思ってくれてる?」
「ああ。頼りにしてるよ。」

本心から正守が言うと、利守は擽ったそうにはにかみながら首を竦めた。その姿に自然とかわいいな、という気持ちが沸き起こる。物心つく頃には家からいなくなった長兄だというのに、変わらず慕ってくれる利守は良守とは別の次元でかわいい存在だ。その姿が幼い頃、無邪気に後をついてきていた良守の姿と重なるせいもあるだろうが、やはり弟とはかわいいものだとつくづく思う。

「…じゃあ良守が起きるまでの間だけ、将棋でもしようか。」

せっかくの休日だから良守はもう少しゆっくり眠らせてやりたいし、起こすまで多少時間もある。正守の言葉に利守はにっこりと嬉しそうに笑った。



2008.10.21



利守と一勝負すんだ頃には10時を過ぎていた。そろそろ良守を起こすかと部屋へと向かう。そっと襖を開けると部屋の主は布団にくるまって眠っていた。枕元に座り寝顔を覗き込んでみる。その寝顔が焦燥しているように見えるのは、末弟の言葉を聞いていたからだろうか。微かな寝息をたてながら眠る姿は、弟だろうが妹だろうが関係なく正守の庇護欲を掻き立てる。
以前よりも柔らかくなった髪を梳いていると良守が目を覚ました。ぼんやりとした目で正守を見上げ、「兄貴…?」と呼ぶ良守に微笑む。

「ただいま良守。もう10時だぞ。そろそろ起きろ。」

寝ている良守の手を取って起こしてやる。その間も良守はぼんやりして正守の手に包まれた自分の手や、目の前の正守の顔を交互に見たりしていた。いつもよりも緩慢なその動作に、まだそんなに眠いのならもう少し眠らそうかと思った正守だったが、急に良守に抱き付かれて目を見開いた。

「よ、良守…?」

ギュッと強く抱き付いてくる小さくて温かな体。思わず抱き締めた正守だったが、いつにない良守の態度に戸惑うしかない。真っ昼間、それも家族も揃っている家の中で、こんな風に良守に甘えられた事など今まで無かった。

「…寂しかった?」

耳元に顔を寄せ囁くように問うと、良守がピクリと肩を揺らす。そのまま無言で背にまわした手に力を込められて、それが図星だった事を悟った。どうやら利守の感は当たっていたようだ。
それにしても、と正守は思う。多少心細かったにせよ、良守がこういう甘え方をするのは珍しい。まるでまるっきり女性の態度だ。もしかしたら体が女性になった事で行動も影響を受けているのだろうか。

あやすように背を撫でると肩口に頭を擦り寄せてくる。その仕草に可愛いなぁと暢気に考えていた正守だったが、鳩尾近くに感じる柔らかい感触にふと我に返った。ふにふにと押しつけられるそれは紛れもなく…。

しまった。正守は内心で天を仰いだ。正守にとって良守が男だろうと女だろうと変わりはなかったから深く考えていなかったけど、今、弟は紛れもなく女性の体になっているのだ。服装がいつものスウェット姿なので気付かなかったが、下着だっていつもの物だろう。中はTシャツかタンクトップでブラジャーもしていないに違いない。というかこの家にそんな物は無い。

可愛い仕草を堪能している場合じゃなかった。このままだと簡単に理性は崩壊してしまうだろう。ただでさえ良守相手では平常心を保つのも一苦労だというのに。
数秒思案した後、正守は良守の手を引いて立ち上がった。

「兄貴?」
「良守、出かけるぞ。着替えろ。」

へ?と不思議そうな顔で見上げてくる良守に、正守はにっこり笑う。

「デートしよう。」





デートという言葉に真っ赤になって慌てる良守に着替えて準備しとけと告げ、正守は修史の元へと向かった。事情を話し出かけてくると言うと、修史は何度も頷いてから溜息をつく。

「そういう事、全然気付かなかったよ。やっぱり男親って駄目だね。」
「そんな事ないよ。いきなり息子が娘になったんだ。気付かないのが当たり前だよ。」

男親どうこうの話じゃない。そもそも気付かなくてはいけない女親がこの家には不在だ。正守がそう言うと修史は気を取り直したように微笑んだ。

「正守が気付いてくれて良かったよ。今から出かけるの?」
「うん。良守も出かけた方が気張らしになると思う。夕ご飯までには戻るから。」
「そう、じゃあお願いしようかな。ちょっと待ってね。今お金持ってくるよ。」
「あ、父さん。今回は俺に出させてくれない?」
「え?でも…。」
「いいんだ。たまには兄貴らしい事してやりたいしね。」

微笑みながら、でも有無を言わさぬ口調できっぱり言うと、修史も正守が引かないだろう事はわかったのだろう。わかった、と苦笑して了承した。

「じゃあ良守に朝ご飯食べさせないと。」
「昼飯を早めに食べるから、取り敢えず腹ごしらえできる程度ので良いよ。」
「そっか、それじゃあ軽くおにぎりくらいで良いかな。」

言いながら早速準備を始めた父によろしくと告げて、正守も着替えの為に部屋へと戻った。



2008.10.27



「用意はできたか。」

食事もすんだはずだしそろそろ良いかと正守が声をかけると、良守がパーカーを羽織ったところだった。良守は元々細いので服もそれほど大きくは見えない。ジーンズに厚手のパーカーだと中性的で、男でも女でもどちらにも見えそうだ。

ちょっとだけ強引にベルトで止めたジーンズを少し気にしながら歩く良守と共に、正守は以前一緒に買い物をした事のあるM駅へと向かう。目的が目的なのでご近所の商店街よりは、こういった人の多い所の方がかえって良いだろうとの判断だった。人が多いという事は、良くも悪くも個々の印象は残りにくい。大体男としての良守を知っている人の多い商店街で、女になった良守の物を買う訳にもいかない。
良守は久しぶりにきたM駅をキョロキョロと見回している。その手を引き、正守は駅直結のデパートへと入った。案内板で目的のフロアを確認するとエスカレーターに乗り込む。到着したのは3階の婦人服の売り場だった。

「兄貴?なんでここで降りるんだ?」

不思議そうな良守に正守は「お前の着替えを買うんだ」と告げた。その言葉に良守は一瞬呆けたような顔をして、それから「えええっ!」と驚きの声を上げる。

「ちょ、ちょっと待てよ!ここって女物しか売ってないだろ!?」
「それで良いんだよ。今日買うのは女になってるお前の下着なんだから。」

平然と答える正守を信じられない、と言いたげに良守は見る。それに正守は苦笑した。

「お前は嫌だろうけどさ、まだ元に戻る目処が立ってない以上、しばらくはそのまま過ごさないといけないだろ?その間ずっと男物着てるってのも無理があると思うんだよね。」
「なんでだよ。男物でもそんなに変じゃねぇだろ。」

憮然とする良守に正守は宥めるように言い聞かせる。

「まあ服はボーイッシュな格好って感じでそれでも良いけど、下着はねぇ。ブラジャーなんかはちゃんとしないと、かえって動きにくいと思うぞ。」

その言葉に良守はバッと手で胸元を隠した。それから胡乱げな目線で正守を見上げる。

「…変態。どこ見てるんだ。」
「見たんじゃなくて、さっき気付いたの。家でお前に抱き付かれた時。」

しれっと言う正守に良守の頬が真っ赤に染まる。抱き付いていったのは自分だから責めるにも責められない。それに正守の言う事にも心当たりがあった。確かに歩く時や走る時に、さらに夜仕事をする時なんかは特に胸に違和感があって走り難いのだ。
涙目で苦悩する良守に、正守は追い打ちをかける。

「俺と一緒に行くのが嫌なら、時音ちゃんに頼むけど?」

その言葉に良守は勢いよく首を振って嫌がった。そうだろうなぁ、と正守も内心思う。恋ではなかったにせよ、時音が良守にとって大事な憧れのお姉さん的幼馴染みである事は変わりない。そんな女性に下着の相談に乗ってもらうなんて男のプライドは粉々だ。自分が良守の立場だったとしたら絶対に御免被る。

「ちょっとの辛抱だから我慢しろよ。お前の為だぞ。」

諭すような正守の言葉に、良守はガックリと項垂れながら小さく「分かった」と零す。
そんな良守に少々同情しながら、正守はフロアの奥へと進んでいった。





「う゛…っ。」

レディースカジュアルの店の奥、女性用の下着とパジャマが揃った一角に辿り着いた二人だったが、やたらと明るいキラキラフリフリの世界を目前にした良守が後退った。その腕を正守が掴んでいなければ今にも脱兎の如く逃げ出しそうだ。
気持ちは分かる、と思いながらもそれは口にしない。結局正守に分かるのは男としてこういう売り場に来る気恥ずかしさ後ろめたさくらいで、実際それを身につけなくてはいけない良守の気持ちを心底分かってやる事は出来ないからだ。

さっさと用事をすませた方がお互いの為だと、正守は半ば強引に良守の腕を引っ張り店員に声をかけた。比較的年配の店員にしたのは、若い女性よりも良守の気が楽だろうと思ったからだ。

「すみません、この子の下着を一式揃えたいんですが、相談にのってもらえますか?」

正守がそう言うと、店員は愛想良くはいと振り向いた。

「お嬢様は中学生ですか?その年代の方でしたら、こちらのコーナーになります。」

案内されたのはティーンズインナーのコーナーだった。大人用とはまたちょっと違う可愛らしい下着が揃っている。正守に引っ張られてきた良守は、売り場を直視する事も出来ずに俯いていた。どうせどれが良いだなんて意見を言う事もできないだろうと、正守は話を進める。

「妹は今までタンクトップやTシャツばかりだったんです。こういう下着に慣れてないし、格闘技をやってるんで最初はスポーティなヤツなら抵抗ないかなって思うんですが。」
「それでしたらこちらなどはいかがですか?ワイヤーも入ってないので締め付け感もなくて楽ですよ。」
「そうそう、こういうヤツだ。この手のを4〜5枚欲しいんですけど、上下セットになったのとかありますか?」
「ございますよ。無難なのは白ですけど、慣れてらっしゃらないならグレー系のお色も入れた方が、カジュアルっぽくて抵抗が少ないかもしれませんね。」

そう言って店員が用意したのは、ゴムの部分が黒く全体がグレーのスポーツブラとショーツのセットだった。しかもショーツは一分丈のボクサーパンツタイプ。これなら良守も着やすいかもしれない。なかなか良く解っている店員だと正守は感心した。

「後はー、数枚買われるなら1枚くらいは普通のブラもお持ちになっていても良いかもしれませんけど…。宜しければサイズをお測り致しましょうか?」
「サ、サイズ!?」
「ああそうですね。じゃあよろしくお願いします。ついでにちゃんとした下着の付け方も教えてやってもらえます?俺はあっちで待ってますから。」
「ちょっと、兄貴!?」
「畏まりました。ではこちらへどうぞ。」

試着室へと促された良守が狼狽えながら正守を振り返る。

「頑張ってこいよー。」
「〜〜〜〜っっ!!」

目をうるうるさせながら睨み付ける弟、もとい妹に正守は声援を送りながら手を振って見送った。



2008.11.4



良守が入った試着室が見える範囲で移動しながら、正守は女性物の服を眺めていた。さすがに女性用の下着コーナーに坊主頭の男が一人突っ立っていては不審者丸出しだし、何より他の客が近寄れないだろう。ついでとばかりに良守に似合いそうな服はないか探してみる。あまり女の子女の子した服は嫌がるだろうけど、シンプルなものなら着てくれないだろうか。良守には悪いが、せっかく、というのも変な話だけど女の子になっているなら可愛い格好も見てみたいというのが、兄として、恋人としての正直な気持ちだ。

良守は小柄だし細い。女性化してさらに細くなっている。
大人用でもSサイズならいけるかなぁ。それとも子供服売り場のティーンズコーナーの方が良いだろうかと考えていた正守の目に、一枚のワンピースが目に入った。グレー地のチェックで綿素材のシャツワンピ。ローウエストで切り返しがあって、上から下まで釦が着いている。羽織物ともして使えそうなそのシャツワンピなら、今良守が履いているスニーカーとも合いそうだった。
まじまじと見ていると、後ろから「お客さま」と声をかけられる。振り返ると先程の店員が正守を見て目礼をした。

「お待たせ致しました。商品が決まりましたが、こちらで宜しいでしょうか?」

レジカウンターに並べられた商品を見るまでもなく、正守は財布を取り出し頷く。

「構いません。会計お願いできますか。」

正守の言葉に店員が準備を始める。すると試着室から良守が少々ぐったりした様子で出てきた。

「お疲れさま。」

労いの言葉にも良守はガクリと頭を垂れるだけだ。そんな良守の頭を正守はぽんぽんと撫でてやる。そうこうしている内に準備が調い会計をすませようとする正守に良守が慌てた。

「え、もしかしてこれって兄貴が払うの?」

漠然と家から(というか父から)払われるものだと思っていたが、正守は自分のカードで支払おうとしていた。下着とはいえ何枚も買えばそれなりの金額になる。驚く良守に正守は苦笑した。

「細かい事気にするなよ。」
「いや普通に気になるだろ。」
「俺が買いたいの。こういう時くらいしか兄貴らしい事できないからね。」
「でも…。」

申し訳なさそうな良守の口元に、正守はストップ、と手を当てた。

「良いんだ。今から俺、お前の嫌がりそうな事するし。」
「へ?」

正守は商品を受け取ると、きょとんと不思議そうな顔をする良守の手をひいて先程の店へと向かった。え?え?と戸惑う良守に構わず店にいた店員に声をかけ、先程見たあのワンピースのサイズを確認する。一番小さいサイズは36のSサイズ。店員から受け取ったワンピースを隣の良守の体にあててみる。長さ的にはちょうど良さそうだ。

「なぁ良守、これ着てみてくれない?」
「は・・・・・・?って、何言ってんだよ兄貴!!」

言われた事の意味が分からず数秒思いっきり呆けた良守だったが、我に返ってそのあまりの内容に兄を怒鳴りつける。だが正守は平然としていた。そういう反応をされるのは当然というか想像通りだったからだ。

「だってさぁ、お兄ちゃんとしては妹にちょっとくらい可愛い格好もしてもらいたいわけだよ。これならあんまりふりふりしてないし、長めのシャツだと思えば着られない事もないだろう?」
「誰が妹だ、なにが長めのシャツだ!ワンピースはどう言いつくろってもワンピースだろ!俺はそんなの着ないぞっ!」
「そう言わずに。何事も物は試しって言うじゃない。」
「試す必要なんてねー!」
「あ〜、やっぱり?」

そっかぁ、やっぱり駄目かとちょっとションボリしている正守を見て、良守は何だか気まずくなった。何でこんなのを着せたがるんだとは思うが、兄が落胆する様子を見るのは何というか胸が痛む。そんな時、先程下着売り場の店員との会話を思い出した。
広めの試着室でサイズを測られたり、いくつかの下着を試着させられながら、その店員が楽しげに微笑みながら良守に言ったのだ。

『妹さんの下着を一緒に買いに来るなんて、なかなかできないですよ。お兄さま、あなたのこと凄く可愛がっていらっしゃるんですね』

言われてからハッと気付いた。確かに女性下着の売り場に来るなんて、いくら兄弟の為でも良守にはできない。例えば利守が今の良守みたいに女の子になったとして、その下着を買いに行くなんて絶対無理だ。きっと父に任せてしまうに違いない。
こんな売り場だから良守も恥ずかしかったけど、本来恥ずかしいのは兄の方だったはずだ。何故ならここでより目立つのは、見た目は女の子になっている良守より男である正守の方だからだ。それなのにこうして連れてきてくれた。良守の為だからと言って。

大事にされていると思う。お互いの気持ちが通じて以来、正守は前とは違い自分の感情をちゃんと良守にも分かり易いように態度で示してくれるようになった。愛されてると思えるし、その愛情を疑うなんて考えたこともない。いつだって大切にしてくれていると感じている。
心配してくれるからこその説教や、他愛もないからかいはあっても、良守が本当に嫌がりそうな事はしなかった正守。なのにワンピースを着てくれだなんて、そんなに「可愛い格好」とやらをさせたかったのだろうか。

むむむ、と良守は唇を引き結んで考えた。正守が勧めたワンピースは、同じ店内にある他のワンピースとは違いシンプルでフリルやリボンもついていなくて、確かに単なるロングシャツと言えなくもない…かもしれない。シャツとして考えたら、色も良いし悪くない…ような気がしないでもない。

少しの間葛藤していた良守だったが、正守が諦めたように「ごめんな、変な事言って」と苦笑して、店員に服を返そうとするのを見て思わずその腕を掴んだ。

「良守?」
「…それ、着るくらいなら着てみても良いぞ。」

そう言いながら良守は正守の手からワンピースをむしり取ると、店員に声をかけて奥にある試着室へと向かう。後に残された正守は、呆然とその場で見送るしかなかった。



勢いこんで試着室に入った良守だったが、鏡を前に自分の姿を確認すると溜息をついた。やっぱりこんなの着たら変だ。どう見ても女装にしか見えないだろう。なんで体は一応女になってるのに顔はそのままなんだか、とがっくりと頭を垂れた。多少ほっそりとなったくらいにしか変化しなかった顔をムニッと摘んでみる。
だがここまできてやっぱり止めたというのも正守に悪い。きっとどんなに変でも兄は笑ったりはしないだろうし、見られるのは兄と店員だけだ。この店にはもう二度と来る事もないだろうし恥はかき捨てていけばいい。

躊躇いはあった。が、良守は覚悟を決めると服を脱いでワンピースに手を伸ばした。



2008.11.10





試着室のドアがそっと開く。躊躇いがちに出てきた良守の姿を見て、正守は目を瞠った。自分を凝視したまま動かない正守に良守は不安になる。あまりに変だから固まってしまったのだろうかと兄を見上げると、呆然と良守を見ていた正守が、次の瞬間右手で顔を覆った。何故か焦ったような兄の態度に驚いた良守だったが、大きな手からはみ出した兄の顔と耳が赤い事に気付く。

「あの、兄貴…?」

心配そうに大きな瞳が正守を見上げてくる。少し首を傾げたその仕草があどけない、初めて着るワンピースを見事に着こなした良守がそこにいた。
何か言わなくては。正守の為に嫌なはずのワンピースを着てくれた良守に、なにか一言。正守は声が震えないようにと願った。

「その…、凄く似合ってる。可愛いよ。」
「え…。」

正守に言われた言葉の意味が掴めなくて呆けた良守だったが、一瞬遅れて理解すると顔を真っ赤に染めると俯いてしまう。
可愛いと正守に言われたのは初めてじゃない。男としては言われて嬉しい言葉じゃないけど、正守に言われるとちょっと嬉しかった。今日はいつもよりもっと嬉しいと思ってしまうのは体が女になっているせいなのだろうか。凄く恥ずかしいのに凄く嬉しい。真っ赤になっている顔を見られたくなくて俯いたままの良守の耳に、正守の嬉しそうな声が届いた。

「良守。やっぱり今日はそれ着てくれない?出かけてる間だけで良いからさ。」

驚いて良守が思わず顔を上げると、にこにこと嬉しそうな正守と目が合う。そんなに嬉しそうにされると嫌だとも言えない。何だかんだいって正守に弱い自覚のある良守はたじろいだ。

「だ、だけどこのワンピースちょっと短いし。俺、足が…。」

スカートの裾を押さえる良守の言いたい事に正守は気付く。

「そっか。傷は殆ど目立たないけど、慣れてないから短さは気になるよな。タイツかレギンスがあれば良いんだけど…。」

レギンスって何だろう?と良守が考えていると、店員が助け船を出した。

「お客様。少しお時間を頂けましたら、レギンスをご用意出来ますが。」
「え、本当ですか。」
「はい。ここと同じ系列の店が近くにありまして、そちらではバッグや靴下などの服飾雑貨も扱っていて、レギンスのお取り扱いもしておりますので。少々お待ち頂けますか?こちらのワンピースに合いそうな物をお持ち致します。」

そう言うと店員は店を出ていった。取りに行ってくれるなんて親切だな、と言う正守の裾を引っ張って良守は尋ねた。

「兄貴。レギンスってなに?」
「ああ、レギンスは…改めて説明って難しいな。スパッツは分かる?あれと似たような感じなんだけど。」
「スパッツって、ズボンみたいな足にピッタリくっついたヤツ?」
「そうそう。あんな感じで丈が短めだったり裾にフリルが付いてたりするんだ。タイツよりレギンスの方が着やすいと思うよ。」

へーと良守が感心したような声を上げた。

「そんなのよく知ってるな、兄貴。」
「知ってるっていうか、今凄く流行ってるだろ。良守も見ればアレかって思うよきっと。」

そうこうしている間に店員が戻ってくる。持ってきたレギンスは3本、足首までと7部丈で裾にフリルがついているもの、そして7部丈で裾がクシュクシュとリボンで絞れるタイプの物だった。確かにこういうのを履いている女の子を最近よく見かける。へ〜あれレギンスって言うのかと密かに納得した。それらを良守にあてながら正守はう〜んと悩む。

「丈は7部の方が良さそうだな。良守はどっちが良い?」

両手にフリルとリボンのレギンスを持った正守に聞かれても、良守にはどちらも同じに見える。

「できるだけシンプルな方。…こっちかな。」

良守が指差したのは裾に少しだけフリルのついたレギンスだった。クシュクシュとした方はかなり可愛らしい作りになっていたから、フリルがついているとはいえこちらの方がシンプルと言えばシンプルと言える。

「じゃあこっちで。すみません、これとワンピースはこのまま着て帰ります。」
「かしこまりました。それでは失礼して、タグを切らせていただきますね。」

店員が商品タグを切り落とす。そこで良守はそういえばまた正守に買わせる事になったと気付いたが、それを望んでいるのが正守自身な上にタグも切ってしまってはもういらないとも言い辛い。良守は諦めの境地でまた試着室へと戻っていった。



2008.11.15





良守が着てきたジーンズとパーカーを入れた袋と、その前に買った下着を入れた袋を手に歩きながら正守はご機嫌だった。

「なにがそんなに嬉しいんだよ。」

やや呆れ気味に言う良守に、正守はにこにこしたまま言う。

「そりゃ可愛い恋人が可愛い格好してくれたら嬉しいでしょ。男として当然だね。」

当たり前の事のように言い切る正守に、良守は赤くなって一瞬言葉を失った。なんで、なんでこいつはこう言う事を平気で言えるんだ!
さっきは珍しく赤くなっていたというのに、もう調子を取り戻してしまった正守に良守は力が抜ける。まあそれでも、滅多に見れない赤面した兄を見れただけ、こんな格好をした甲斐があったとも思う。

「可愛い格好ったって、俺、中身は男なんだぞ。それってよく考えたら気持ち悪いじゃん。」

ぶっきらぼうに言うのは半ば照れ隠しだろう。男の時だって十分可愛いんだけどなぁ、結構普段からそう言ってるのになぁと正守は思うが、それを言ったらもっと照れるか怒るかどっちかだろうと言わずにおく。

「そういうのは別として、可愛い格好って見たいものなんだよ。逆にさ、お前、兄ちゃんが格好良くしてたら自慢じゃない?嬉しくないか?」

ちょっと屈み込んで良守の顔を覗き込んだ正守の言葉に、良守は目をパチクリさせてから首を傾げ、考えるような素振りを見せてから答えた。

「お前が良い格好してると、ただでさえ変に目立つのに、もっと余計な視線を集めそうでやだ。」

良守の言葉に今度は正守が目をパチクリさせた。それからその言葉の意味を理解して目元を弛ませる。

「そうか。そういえば良守は兄ちゃんがモテると妬いちゃうんだったな〜。」
「なっ!別にそんな意味で言ったんじゃねぇ!」
「照れない照れない。ちなみに兄ちゃんはお前に近づく男は滅したくなるから、そういう可愛い格好は俺といる時だけにしといてくれ。」

にこやかに物騒な台詞を言う兄に、良守は一瞬照れからくる怒りも忘れて正守を見た。顔は笑っているが目がマジだ。

「滅したくなるって、冗談だろ?」

唖然とする良守に正守は即答する。

「いや本気だよ。俺、お前に関しては独占欲強いって自覚あるから。」

さらりと言われた台詞に、良守はまた顔を赤らめてそっぽを向いた。兄が自分を独占したいと思ってくれる。それがとても嬉しいと感じる自分は、どこかおかしいし間違っているんだろうと思う。だがそれも今さらだ。

「…別に、普段からこんなスカートなんて着るわけないだろ。」
「そうだと思うけど、何かの弾みって事もあるからね。」

心配で、と苦笑いする正守に良守はそんな心配必要ねーよ、と言い切った。

「お前がいない所でこんな格好する意味ないし。」

良守の口からぽろりと出た言葉に、正守は衝撃を受けた。それこそ頭をガツンと殴られたくらいの衝撃だ。その破壊力は計り知れない。
可愛い格好を正守がいない所ではする意味がない。それは正守が見ていなければ意味がない、という事であり、正守が喜ぶからこそ着るという意味でもあって…。

確かに良守が喜んでこういう格好をしてくれたとは思ってはいない。正守が頼んだからこそだ。
だがこんな事まで言ってくれるとは思っていなかった。しかも本人は何も考えずに言ったのだろうが、それがどんな意味を持つ言葉なのか気づいていない。

「うわっ!?って何するんだよ!?」

いきなり正守に抱き締められて良守が慌てる。何と言ってもここはデパートの中で普通に周りに人がいるのだ。引き離そうとするがすっぽりと覆うように抱き締められていては無理だった。ただでさえ体格差もある。
暴れる良守に正守は仕方なく腕の力を緩めた。だが放す事はなく下を見ると、良守が睨み付けてくる。とは言っても真っ赤な顔で睨まれたって全然恐くはないというより可愛いだけだったけど。

「放せって、注目集めるだろ!いきなり変な事すんなよ。」
「煽ったのはお前なんだけどね。」
「何わけわかんねーこと言ってんだ。ほら行くぞ!」

まったく分かってない良守に溜息をつくしかない正守だった。自覚のない天然って厄介すぎるが、それも良守らしくて可愛いと思えるから不思議だ。正守は照れ隠しに一人でどんどん進んでいく良守の後を追った。



2008.11.19


後編 Novel