繋いだ手 後編





パァン!!

空砲の音が鳴り響くと同時に7人が走り出す。だが日頃の運動不足が祟るのか、綺麗にスタートを切れたのは3人だった。その中の一人が7人の先頭に立つ。アスリートという体つきではないのだが、長身で引き締まった体が軽やかに校庭を駆け抜ける姿に歓声が上がった。それほど必死に走っている様子は見られないのに、あっという間に200mを走りきった男は、息を切らせながらようやく後からゴールしトラック内に入った他の父兄達に声をかけられている。

その様子をじっと見ていた良守の耳に、同じクラスの女子達の色めいた声が届いた。あの人凄い速い、背が高いだの格好いいだの、年はいくつかな?だの、興味津々な少女達の声を聞きながら良守は手にしていたタオルで口元を隠した。
なんであいつはどこでも目立つんだと内心詰りながら、それでも自然と視線は正守の姿を追ってしまう。

別にあれくらいの速さでなんて良守も走れる。それ以前に正守が思いっきり手を抜いていた事も分かっている。でもなんだろう。同じスピードで走っていたとしても、兄の走る姿は良守とはまったく違うのだ。無駄な動きが無いというか、様になっているというか。
不覚にも、格好いいなんて思ってしまう。

(あー、もうっ)

弛みっぱなしの口元をタオルで押さえた。多分今、自分の顔は赤いはずだ。タオルで覆ってて本当に良かった。
ばーか、ハゲのくせに格好いいとかってなんだそれ、と心中で八つ当たり気味に呟いていると、競技が終わり父兄たちが整列し直している所だった。拍手と共に退場門へと向かう列の中、不意に正守がこちらを向いて思いっきり微笑み手を振る。その笑顔に慌ててしまい、体が椅子から落ちそうになるのを辛うじて堪えた。そんな良守を見て楽しげに笑うと、正守は門へと消えていく。からかわれたのだと思った良守は唇を尖らせてタオルを顔に押しつけた。

(くっそー、馬鹿兄貴!)

何だか凄く悔しい。だけどそれ以上に、正守が自分だけに微笑んでくれた事を喜んでいる自分は。

(惚れた方が負けってほんとだな…)

悔しいけれど、きっと一生兄貴には勝てないんだろうなぁ、と良守は心の中で呟いた。そう思っている事はお互い様だなんて気付きもせずに。





それからすぐに今度は良守が競技に参加する為に移動する事になった。種目は借り物競走だ。これが終われば午前の部で良守が参加するものはない上にすぐに昼食になる。
今日の弁当はなんだろう、と考えながら良守は列を乱さないように行進した。父がえらく張り切って弁当を作っていた事は知っている。何しろ昨夜の下拵えから大量の材料が台所を埋め尽くしていた。子供を溺愛する修史は元々こういう行事物には張り切るタイプだが、今回は正守も帰っているという事で久しぶりに家族全員揃ったのも張り切っていた原因の一つだろう。正守は15歳で家を出たので、こうした行事に一緒に参加するのは6年振りになる。その時は今とは逆で、正守の体育祭を家族で見に来た。良守は正守に反抗し始めていた頃で、正守の活躍をわざと見ないように、でも実際には気になってチラチラ横目で見ていた覚えがある。

そう言えばそれから半年もしない内に正守は中学を卒業し、家を出ていったのだ。それを考えると、この時期にはもう裏会に行く事を決意していたのだろうか?

あの頃の兄の年に近づくにつれ良守の心は軋む。あの頃、良守の目には兄は充分大人に映っていた。だが実際自分が同じ年になってみると中学生なんてまだまだ子供だ。兄はあの年頃にしては落ち着いていて大人だったかもしれないけど、それでも誰も知る者のいない裏会に行き、誰に頼る事も出来ない中生きていく事は並大抵の事ではなかったはずだ。

目は向けないようにしながら右手の包帯を意識する。この手の平にある四角い痣ひとつで別れてしまった兄との道。選ばれたかったわけじゃないと言ってしまうのは簡単だ。だがそんな事を言った所で方印は消えるわけじゃない。
烏森を封印したいという気持ちになったのは、そこで誰も傷ついてほしくなかったからだ。時音も、時音の父も、そして志々雄も。烏森が無ければ傷つかなくてもいい人が傷つき死んでいった。もうこれ以上この土地で誰も苦しまなくてもいいように。そう思っていた。
だけど傷つくというのは何も体だけの話じゃないのだ。

(お前はバカだよ。俺なんかじゃなくて兄貴を選べば良かったんだ。兄貴ならお前を守る事に誇りを持って、生涯お前を守り続けただろうに。それだけの力だってあったのにさ)

一人っ子なのに方印の出なかった母や時音の父。長男なのに方印の出なかった兄。兄弟の中で一人だけ方印が出た自分。正統継承者が絶対のものである以上、本人達の意思に関係なく選ばれる以上、どうしてもそこには確執が生まれる。自分達のような思いをした先祖もたくさんいたはずだ。

(もうこんなのは終わりにするんだ)

そうすればここはごく普通の土地になる。学園の生徒が危険な目に合う事だってなくなる。そうなった方が良い。


ギュッと拳を握り前を向く。するとちょうど良守の前の組みがスタートラインに立った所だった。一歩前に進みながら自分のクラスの選手に目を向ける。今日良守が参加する個人種目はこの借り物競走と400m走、それにクラス対抗のリレーだ。運動部には所属してないけれど比較的足の速さが要求されるような競技にばかり登録されてしまった。一応足はそれなりに速いという事になっていたから仕方ない。
考え事をしていたらあっという間に自分の番になってしまう。借り物競走なんて初めてだ。あまり難しいのに当たらないと良いけどな、と思いながらスタートラインに立ち、号砲と共に駆けだした。
50mくらい走ると長テーブルが置いてあって、そこに封筒が並べられている。良守は一番手前のあった封筒を手にして中から白いメモ紙を取り出した。そこに書かれていた言葉に一瞬頭が真っ白になる。

(・・・・・へ?)

いやいやいやいやちょっと待て。これは何かの間違いだろ。
そう思ってもう一度メモを見直してみても、書かれている言葉は替わらないし消えもしない。良守は思わずメモを握り締めた。

(誰だよこんなの考えたのは!)

手にした紙に書かれた内容に、良守の手がブルブルと震えた。その横で青のハチマキをした生徒が『三つ編みの人〜!』と叫びながら駆けだしていく。借り物競走は組ごとにテーマが決められていた。どうやら今回のテーマは髪型だったらしい。なるほど、この紙に書かれていた事とも一致する。
だけど髪型なんてたくさんあるのに、どうしてよりによってこれを引いちまうんだと良守は泣きそうになった。

【坊主】

白い紙に書かれているその単語に全身の力が抜けそうになる。
烏森学園は私立校で、元々服装に関してそれほど厳しくない。大体今時運動部だって坊主にしている所は少ないだろう。なのに何故こんなのを借り物に入れるんだ。難易度が高すぎる。
だが幸か不幸か、良守には坊主に心当たりがあった。

(くっそー!!)

迷ったのは一瞬だった。良守は振り返り家族席へと目を向ける。そこにいたのはカメラを抱えた父と、ロープを掴んで応援してくれていたらしい利守、その後ろで腕組みしている祖父、そして目指す坊主頭。

「兄貴っ!」

良守が大声で呼ぶと、正守は一瞬きょとんとした顔になって、それから「俺?」とでも言いたげに自らを指差した。それに頷きながら良守は急いで兄に駆け寄る。状況を理解した兄が立ち上がり、ロープを越えて良守に近づくと良守は手を伸ばした。その手を正守がしっかりと握る。そのまま有無を言わせず走り出した。
借り物の内容の衝撃に固まったおかげで少々出遅れている。コースに戻るとすでに1組、生徒とショートカットの女性がゴールに向かっていた。だがまだそれほど離されているわけじゃないから、不自然じゃない速さで抜く事は出来るだろう。

「急ぐぞ!」

後ろも見ずに言うと、良守のペースに合わせて正守もスピードを上げる。グングンと加速した二人はゴールから50mほど手前で前の二人に追いつき、あっという間にゴールした。空砲の音が響き周囲から歓声が上がる。
ほんの少しだけ乱れた息を整えていると、次にゴールした二人が息を切らして座り込んでいるのが見えた。女性に悪いなと思っていると、係員がメモの確認にやってくる。良守が手の中の紙を見せると係員は正守を見て、それからOKですと言って二人を1着の旗が立つポールまで案内した。
その様子を黙って見ていた正守だったが、ふと気になって良守に声をかける。

「なあ良守。借り物の内容って何だったんだ?」

そう言うと正守は良守が握り締めていた紙をひょいっと奪う。そしてそこに書かれていた言葉に成る程と納得した。

「こんなん、お前くらいしかいないだろ。」

今時坊主頭なんて、と口を尖らせる良守に苦笑しながら正守が頷く。

「確かにね。そうなるとこれ考えた人には感謝しなくちゃな〜。」
「感謝?なんで?」

不思議そうな良守に正守はにっこり笑って答えた。

「だってこういう事でもなくちゃ、公衆の面前で堂々と手を繋ぐ機会も滅多にないし。」

にこにこと嬉しそうに言われた言葉の意味が一瞬分からなかった良守だが、ふと視線を落とした途端兄の左手としっかり繋がれた自分の右手が目に入った。

「うわぁっ!!」

バッと手を離した良守の顔は真っ赤になっている。その様子に笑いながら正守は目の前の小さな頭に手を置いた。

「別に恥ずかしがるような事じゃないだろ?競技だったんだし、そもそも兄弟なんだから手を繋いだって変じゃないさ。」
「そ、それはそうなんだけど…っ!」

わたわたと慌てる良守を、あ〜もうこいつ可愛いなぁと思いながら見ていた正守だったが、落ち着かせようとその頭を撫でる。

「ほら、そんなに慌ててたらかえって可笑しいって。」

な、と言いながら頭を撫でるその優しい感触に良守も少しずつ力を抜いた。ちらりと上目遣いに正守を見上げる弟に、正守はにこりと微笑む。

「まあ、なかなか面白かったな。」

楽しげにそう言う正守に、まだ少し赤い顔のまま良守も小さく頷いた。



借り物競走に正守を引っ張り出した事で、後日良守は質問責めにあう。
それからしばらく烏森学園中等部で坊主頭の男性の事がよく話題になり、その度に良守は気まずいような気恥ずかしいような気分を味わう事になるのだった。

















サイト4周年御礼企画その6。リクエストは露芽さんで

「体育祭で借り物競争の話」でした。

本当は借り物の内容は「着物を着た人」との事でしたが、
着物は指定し辛かったので変更させていただきました。
この手の借り物って、あまり難しいのは指定されないと思うんですよ。
着物着て運動会に来る人って少なそうなので。
そういう意味では坊主もちょっと厳しいんですけどね…。

他にも指定された内容が入れ替わってたり削ってたりで申し訳ありません。
リク通りにはならなかったですが、よろしければお受け取りください!

Novel 前編