繋いだ手 前編





良く晴れた空にパンパンと空砲の音が響き渡る。目の前のグランドでは下級生が必死に走っていた。それを見ながら良守はこの場に相応しくない仏頂面をしている。
今日は烏森学園中等部の体育祭だった。それ自体は別に問題じゃないし面倒だけど嫌じゃない。嫌なのは…。

それは5日前の事。修史が右足を捻って捻挫した事がきっかけだった。
幸い怪我自体は大した事がなく、10日も安静にしていれば完治するだろうとの事だったが、その時の修史の落ち込みようと言ったらなかった。体育祭が5日後に控えていたからだ。
体育祭では父兄参加の競技がある。今回修史は200m走に参加する事になっていた。子供思いの修史は頑張るからねと張り切っていたのだが…さすがに捻挫した足では出られない。
来てくれるだけで充分だと良守が慰めても項垂れたままの修史に、救いの言葉を投げかけたのは利守だった。

『正兄に頼んだら?父兄ってことは正兄でもいいんじゃないの?』

その言葉を聞き、修史は満面の笑みを浮かべ『そうだね!忙しいかもしれないけど聞いてみるよ!』とすぐに電話をかけに行ってしまった。止める間もなく父の背を呆然と見送ってしまったのは良守としては不覚としか言い様がない。
かくして急な頼みにも関わらず、父の頼みを承諾した正守が体育祭へとやってくる事になったのだ。



なんでこうなるんだろ。テントの貼られた生徒席で良守は相変わらずの仏頂面を晒していた。
別に以前とは違い、兄との仲は良好なのだから来てもらいたくないというわけじゃない。ただ何となく、学校行事に参加する自分を見られるという事に気恥ずかしさがあるのだ。
ボーっと目の前で繰り広げられる競技を見ていた良守だったが、不意に頭をポンと叩かれて後ろを振り向いた。

「よお、なに不機嫌そうにしてるの?」
「兄貴っ!!」

そこに立っていたのは悩みの種の兄、正守だった。良守は慌てて立ち上がると、周囲の物珍しげな視線を無視して正守の腕を引っ張りテントから出る。

「家族席はあっちだろ!ふらふらしてるなよっ!」
「ふらふらは酷いな。俺だってここの卒業生だよ?懐かしいからちょっと見て回ってただけじゃないか。」

そう言って楽しげに周りを見回す正守に良守も何も言い返せない。そこに後ろから声をかけられた。

「お〜い、墨村〜。」

振り向くとそこにいたのは田端と市ヶ谷だった。クラスメイトの市ヶ谷はともかく、田端はクラスが違い席も遠い。近づいてきた二人は良守の隣に立つ正守に気付くとお辞儀をする。それに正守も笑顔で応えた。

「こんにちは。えーと、君は市ヶ谷君だったね。」
「こんにちは。この間はありがとうございました。」

挨拶を交わす二人に、田端が驚いたように声を上げる。

「なになに、市ヶ谷知ってるの?」
「墨村のお兄さんだよ。なあ、墨村。」
「う、うん。えーとうちの長男の正守だよ。兄貴、こっちは去年までクラスメイトだった田端。」
「良守の兄です。初めまして。よろしくね、田端君。」
「初めまして!お噂はかねがねお聞きしてます!」
「ー噂?」

不思議そうな良守に、短パンのポケットから手帳を広げながら田端が言う。

「知らないの墨村。お前のお兄さん、成績優秀だったって有名なんだぞ。なんでも県下模試どころか全国模試でもトップクラスで、運動神経抜群で凄くモテてたって。」

そういう田端の言葉に良守は正守を見上げた。確かに兄は昔から頭が良かったけど、そこまで成績が良かったなんて知らなかった。兄が中学だった頃なんて良守はまだようやく小学校に行くか行かないかの時だ。成績というもの自体が感覚的に遠かったせいもあるかもしれない。驚いたように自分を見る良守に正守は苦笑する。

「随分と大袈裟な事になってるんだね。その手の噂って、大抵尾ひれがつくものだよ。」

本気にしないように、と悪戯っぽく笑う正守に田端が答える。

「いや〜、俺はお兄さんに会って、この噂が本当だって確信しましたね。バレンタインには下駄箱がチョコで溢れてたってのも本当でしょう?」
「ハハ、そんな噂まであるの?」

笑ってかわそうとする正守を良守は胡乱げに見た。兄がモテる事は知っている。弟の目から見ても正守は格好いいと思うし、それが自慢でもあるのだけど、モテていたなどと聞くと何となく面白くない。

「おい田端。先生達のインタビューするから手伝えって言ったのお前だろ。時間は大丈夫なのか?」
「あっ、そうだった!でも墨村のお兄さんに色々聞く機会なんてもう無いだろうし…。」
「卒業した俺のあれこれなんて何にもならないよ。先生達の気が変わらない内に行った方が良いんじゃないの?」

正守の言葉にう〜んと悩んでから、田端は溜息をついた。

「仕方ない、残念だけど諦めます。どうもありがとうございました!」
「すみませんでした。失礼します。」

頭を下げ去っていく二人の後ろ姿ににこやかに手を振っていた正守だったが、隣から漂う微妙な空気にちろりと横を見る。すると妙に目の据わった良守の姿があった。

「ー良守?」

口の端が引き攣りそうになるのを押さえながら弟の名を呼ぶと、いつもよりも低い声で答えが返る。

「下駄箱一杯のチョコ、ねぇ…。」
「いや良守、それ噂だから。」
「火のない所に煙は立たないって言うよな。」
「へぇ、難しい諺知ってるね。」
「難しくねーし。誰でも知ってることわざだし。ってかはぐらかすな。」
「はぐらかしてはいないけど…。本当に下駄箱からチョコが溢れた事なんて無いよ。」
「でも多少は入ってたんだろ?それか机やロッカーの中とか。」
「入ってないって。下駄箱とロッカーには結界張って開かないようにしてたし、机はその時限定で前日からわざと教科書残して、何も入れられないようにしてたんだよ。」
「へ…?」

呆けたような声を出す良守に正守は苦笑しながら、「だって受け取ると面倒だろう」と言った。

「それだけやっても、隙間にねじ込んできた強者もいたけどね。あと机の上に堂々と置いてあったりとか。でもそれは速攻返したし。大体俺が家にチョコ持ち帰ってたのなんて、精々小学の頃までだったはずだけど?」

確かに考えてみると、兄が中学生の頃、バレンタインデーにチョコを持ち帰った事は無かったような気がする。それより前にはあったような気がするけど、小さかったから記憶も曖昧だった。

「その気も無いのに受け取ると、後で断るのが大変なんだって解ったから。それからは徹底的に受け取らない方向にしたんだ。」

なのにどうして下駄箱からチョコが溢れた、なんて真逆の噂が広がったのかな〜と兄は不思議そうにしている。それを見ながら良守は内心ホッとしていた。いくら過去とはいえ、兄が女の子からのチョコを大量に受け取っていたなんて面白くない。
ふう、と良守の肩の力が抜けた事に気付いた正守が嬉しげに微笑む。

「ー妬いた?」

少し屈み込んできた兄が良守に小声で囁く。一瞬、何を言われているのか分からなかった良守だったが、次の瞬間ボッと顔を茹で蛸のように真っ赤にした。

「違うっ!そんなんじゃねぇ!!」
「でも妬いたんだろ?」
「違うって言ってんだろクソ兄貴!」

赤くなった顔で言っても説得力は皆無だ。それ以上は言い返せず、頬を膨らませる良守に正守がニヤニヤしていると、「200m走に参加される父兄の皆様は、3番ゲートにお集まりください」という校内アナウンスが響き渡った。

「ほら、呼ばれてるだろ。さっさと行けよ!」

しっしっと追い払う仕草をする良守にクスッと微笑み、正守はその頭に手を伸ばした。

「じゃあ兄ちゃん行って来るな。」

クシャと撫でられた頭を慌てて押さえ、良守はひらひらと手を振りながら遠ざかる後ろ姿を真っ赤な顔のまま睨め付けた。

突っ立ってたって仕方ないと良守は席へと引き返し、またグラウンドを見る。1年生の障害物競走と2年生の棒倒しの後、正守が走る200m走の順番が回ってきた。入場門から登場した親たちは生徒と違い服装も年齢もバラバラだ。そんな中、今日の正守は競技に出る為洋装だった。以前買ったブラックジーンズにハーフジップのカットソーを着ている。他の父兄より背が頭一つ高い上に、スタイルの良さが際だっていて特に目立っていた。黙って立っているだけでもかなりの存在感だ。
200m走は7人ずつ走るらしい。正守は3組目で登場した。


並んだ他の父兄を見ながら正守はどうしようかな、と考えていた。年齢的に大体30歳後半から40歳そこそこという所だろうか。少なくともこの組の中では正守が一番若い。
この烏森学園は正守にとっても母校であり、その当時から学園にいた見知った教師もまだ在籍していたりする。結界師という職業柄、昔から身体的に人並外れていたから学校では適度に手を抜いていた。だがそれでも体育の成績も5だった事を考えると、年上の、普段運動をしてなさそうな父兄よりも遅いというのもかえって変だろう。一緒に走るのは7人程度だし、ここは勝っておいた方が自然かもしれない。
こうして考えながら行動しなくてはいけない事は、多少面倒だと思わないでもないが、異能者が「一般」に混じるという事はそういう事だ。たまにならそんなに苦でもない。ましてや今日は良守の父兄として参加するのだから、態と負けるのも微妙な感じだ。弟の前では格好いい兄でいたかった。そんな自分の考えにフッと自嘲するように笑う。

人からどう見えるか、そんな事は正守にとって些事であり興味も意味も無い事だ。それが良守が関わるだけで変わってしまう。良守の目にどう映るのか。自慢になるような兄であるのか。それは正守にとって唯一の見栄であり、恋人として以前に、良守の兄であるという事実は正守の最大の矜持でもあった。

そうこうしている間に競技が始まり、あっという間に正守の組の順番になる。
校庭に石灰で引かれたラインに数年振りに並びながら、大勢の人の視線の中に混じるたった一人の視線だけを意識した。








2008.8.18

Novel 後編