未来構想 後編
テーブルに並ぶのは、色鮮やかなケーキ達。どれも芸術品のように美しい。 暫く眺めて堪能した後、まずは焼きたてのフリュイから手をつけた。パイ生地の上にフルーツ、そしてクリームがたっぷり乗って軽くバーナーで焼き色が付けてある。クリームは色からしてカスタードかアングレーズソースだろうか。見た目にも華やかだ。 一口食べてみると、濃厚なクリームの味が口の中に広がった。さすがに美味い。 少し考えて、良守は3つのケーキを見比べた。一個全部食べてから次にいくと、最後のケーキはちゃんと味わえないかもしれないから、最初に全種類一口だけ食べる事にする。 ゆっくりと味わってから紅茶を飲む。そして今度はあまおうのケーキを一口。 最後にチョコケーキと一通り味わってから、良守は唸った。どれもこれも美味しい。 ああ、レシピが是非知りたい。あのクリームの配分とか。通い詰めたいくらいだけど、学生が食べるにはいちいち高いんだよな、どのケーキも。特にあまおうのケーキなんて630円って何だそれ。あまおうが高級品なのは分かるんだけど…。 脳内で文句をタレながら、その苺のケーキをまた一口。あまおうの程良い甘酸っぱさがたまらない。この苺はケーキも良いけどタルトにしても最高だろうなぁと思っていると、向かいから「ぷっ」と吹き出す音が聞こえた。 「…なんだよ。」 「いや…、さっきからお前、食べちゃー顔が弛み、考え込んでるかと思えばまた食べてにやけるの繰り返しで。ククッ、ま、まるで百面相…。」 笑いを堪えながら喋る兄は、苦しげに口元を押さえている。その可笑しそうな様子に良守は憮然とした。 「くそっ、馬鹿にしやがって。」 「ハハハ、馬鹿にはしてないさ。百面相はちょっと面白かったけど。」 「それが馬鹿にしてるって言うんだろ。」 「違うって。良守は本当にお菓子が好きなんだなって思ってたんだよ。俺はそういうの、良いと思うぞ?」 正守の言葉に良守は動きを止めた。驚いたように自分を見る弟に、正守はちょっと笑ってみせる。 「夢中になれるものがあるのは、悪くないと思う。…俺はそういうの持ってないからさ。」 例えば。結界術に対しては真剣になる。己の術を高めるために努力を惜しんだ事はない。だがそれは夢中になる、というのとは少し違うだろう。楽しんでやっていた訳でもなく、そうせざるを得なかったから、それしかなかったから。ただそれだけの事。 良くも悪くも、俺は母と同じ人種だ。共に墨村の長子として生まれ、継承者としては選ばれなかった。望めば結界師として以外の人生だって選べたのに、下手なプライドのせいで術師としか生きられない。術を極める事だけに目を向けそれを己に課し、趣味といえる楽しみひとつ持たない。将棋や囲碁など人並みの娯楽に手を出しても、熱中したことはなかった。 それを悪い事だと思った事はない。俺達はそういう風にしか生きられないのだろう。 だが弟は違った。俺が早々に断ち切ってしまった平凡な日常に、意識せずとも身を置ける。切り離そうとも考えていない。 そんな弟のしなやかさが、時に酷く眩しいと正守は思う。 「そう言えば、良守は将来どうするんだ?やっぱりパティシエとかになりたいの?」 正守に聞かれて、良守は目を丸めた。そんなこと考えたことがない。 良守にとっての将来とは、強くなっていつか烏森を封印する、という未来だけだ。 以前会ったパティシエの霊。見習いとはいえ、良守の知らない事をたくさん知っていた。あんな風にお菓子を作る事を仕事にして、お菓子の事ばかり考えていられるのは幸せだろうと思う。だけど俺にその道を選べるのだろうか。継承者として生まれた俺に。 「お前、烏森を封印したいって言ったな。その後はどうする気だ。俺や母さんみたいに、異能者として生きるのか?」 「それは…。でも、俺は烏森を封印するつもりだけど、それまでは守護もしないと。」 「烏森を放り出せって言ってる訳じゃないさ。だがいずれその道を目指したいなら、専門学校に行くなりの勉強は早くからした方が良いぞ。中高の学生に比べたら夜の仕事との両立はもっと大変になるだろうけど、お前次第ではやれない事もない。」 畳みかけるように言われて良守は呆然とした。 「もしお前が本当にやりたいなら、お爺さんを説得くらいは出来るはずだ。俺からも口添えしてもいいし、もし反対が酷くて家から学費が出ないようなら、俺が援助するよ。」 援助って…、正守が学費を出すって事か?冗談だろうと思ったけど、正守の表情は真剣で、冗談やその場の気紛れで言った言葉じゃない事だけは分かった。だからこそ良守は混乱する。 「なんで兄貴がそこまで…。」 俺の事を考えてくれるのか、と言う疑問を口にするのを躊躇っていると、正守が当然だろう、と言った。 「俺、お前の兄貴だから。」 正守は戸惑う良守に笑ってみせる。 「お前は兄貴面するなって言ったけどさ。どうしたって俺はお前の兄貴なんだよ?」 だから兄貴面くらいさせろよ、と正守が笑う。 ーお前の兄貴だって事、それは俺の誇りでもあるんだから。なんて、そんなことは言えないけど。 「まあ結論をすぐに出す必要はないさ。お前はまだ中2だし、進路を決めるには2〜3年の余裕がある。どうせ高校までは烏森に行かなくちゃならないんだしな。」 だからそれまでにゆっくり考えろと正守は言った。 パティシエを目指すのか、生涯結界師として生きるのか。それとも他にやりたい事を見つけたいのか。 「どの道を選んでも、最後までやり通せ。良守ならきっと出来るよ。」 いつもの嫌みな笑みではなく、落ち着きと穏やかさを感じさせる微笑み。こんな正守は見たことがなくて思わず見入ってしまう。 あの神佑地での一件以来、何となくだけど正守に嫌われてはいないのかな、と思えるようになってきた。兄の態度は相変わらずのようでいて、前とは微妙に雰囲気が違う。それは嬉しかったし、それで充分だった。嫌われていないのならそれだけで。 でもこんな風にー、こんなにも優しい事を言われてしまったら。 ずるい、と良守は思う。あの時体を張って守ってくれた。先に逃がそうとしてくれた。そのまんまでいいと、今の良守を認めてくれた。ただそれだけで満足していられたのに。こんな言葉、言ってもらえるなんて思わなかったから心がざわめく。 嫌われていないどころか、もしかしたら、だなんて。そんなありえない事を期待して。邪な心が内側から頭を擡げて囁いてくる。 目の奥が熱い。兄の前で泣くわけにはいかなかったからぐっと堪える。 誤魔化すように小さく頷くと、正守は軽く笑ってまたスイートポテトを食べだした。良守も目の前のケーキをつつく。でも胸がいっぱいになって、ケーキの味が分からなくなってしまった。それでもせっかく買って貰ったケーキだから残さず食べる。 何でもない振りを続けるのは、胸一杯の中ケーキを食べるよりもっと苦労した。 庭園で買った家族への土産を手に書店へ向かう。 兄が新書のコーナーに向かうのを見届けてから、こっそりと資格や専門学校の事を扱った本を探した。辞典並に分厚い本を手に取ってみる。だけどまだ、開けてみる気にはならなかった。 確かにお菓子作りは大好きだけど、それを職業としたいのか。 それとも趣味のままで満足出来るのか。 正守が言った通り、烏森の守護を続けながら専門学校へ行くのはかなり大変な事だと思う。爺に反対されるのは目に見えているし、その点援護は期待出来ない。 それでも目指したい道なのか、ちゃんと真面目に考えてみよう。全てはそれだけの覚悟が出来てからだ。 本屋の入り口に戻ると、正守が待っていた。やたらと早いが手に紙袋を持っている所を見ると、どうやら買いたい本は決まっていたのか。 地下まで降りて軽食用にとサンドイッチを買って、ようやく帰路に着いた頃には日が暮れていた。 こんな風に二人で出歩いたのなんて何年ぶりだろう。昔はよく、おつかいに行く正守の後を着いて行っていた事を思い出す。小さな良守にとって、7歳上の兄は随分と大人に見えたし術の腕も比べ物にならないくらいに強くて。いつも爺に比べられるのは嫌だったけど自慢の兄だった。それは本当は今も変わらない。 ー方印が無ければと思った事は一度や二度ではなかった。そうすればきっと、利守のように素直に正守を慕う事ができたのに。本当は無邪気に兄を慕いたかったのだという事に気付いたのは割と最近だ。嫌われてると思ってたから、自分が傷つかないように予防線を張って、踏み込ませないようにしていた。 そんな風に自衛していた期間が長すぎて、態度なんて急には変えられない。 それに…、これ以上距離が縮まれば、かえって辛くなるんじゃないかとも思う。 もっと自分に構って欲しいとか、もっと自分を見て欲しいとか。…傍にいて欲しいとか。言ってはいけない事を言ってしまうかもしれない。それが恐い。 色々と考えていたら、あっという間に家の近くになっていた。雪村の長い塀の向こうはもう我が家だ。 「結構遅くなっちゃったな。お前、仮眠取れそう?」 先を歩く正守がぽつりと聞いてきた。 「ああ、2時間くらいは寝られるだろ。今日は学校でも結構寝たしそれで充分。」 「相変わらずだね、良守は。」 ちょっとは勉強してるのか、と楽しそうに聞いてくる正守に見くびるなよと答えながら、内心良守は焦っていた。 どうしよう、もうすぐ家に着いてしまう。帰り着いてしまえば今日一緒に出掛けたことも終わりになり、ただの日常の一コマになってしまう。 その前にどうしても、ちゃんと感謝の気持ちを伝えたかった。 「兄貴!」 「ん?」 呼び止められて正守が振り返る。街灯を背にした良守が真っ直ぐに正守を見ていた。 その口が逡巡するかのように何度か動いた後、あのさ、と呟いた。 「今日は…、ありがとう。」 聞きようによっては素っ気なくも聞こえる言葉。だが正守には、天の邪鬼なところのある弟の、精一杯の礼だと分かっていた。それがケーキの礼と同時に、別の意味での礼を含んでいた事にも。だから数歩分後ろにいた良守に微笑みながら近づく。 また一緒に行こうな、と笑いながらくしゃりと良守の頭を撫でる正守に、嬉しさと同時に胸に小さな痛みを感じて。良守は無言で頷くしかなかった。 前編 |
2007.5.27