精一杯の自分で抱き締める 後編
昼間は散々だった…。 午前2時半。あと少しで見回りも終える時間になって、ようやく妖の気配もなくなり一段落した所で良守は屋上に寝転んだ。 あの後田端はしつこく良守の「彼女」について聞きたがった。何歳年上?どこの学校?美人?それとも可愛い系? そんな事を聞かれたって良守には答えられない。少なくとも「彼女」ではないのだから。ましてや「彼氏」なんです、とも言えない。そこまで考えて、良守は自分の思考にハッとした。何だ俺、「彼氏」って別にあいつはそんなんじゃ…! でもそういう関係なのは間違いないし、彼氏つーか、恋人、って事になるんだよな。間違っちゃいないのは分かっているのだが、改めてそうなのだと考えると恥ずかしくて仕方がない。相手は生まれた時から知っている兄だったから、「恋人」だという事実に慣れないのだ。 恋人という単語の持つ響きの気恥ずかしさに良守が屋上の床の上を悶えながら転がっていると、頭上から声が響いた。 「なにやってんの?」 静かな声は紛れもなく今考えてた人物のもので、良守はがばりと起き上がる。 空中にはった結界の上、黒い羽織をはためかせながらこちらを見下ろしているのは、間違いなく兄の正守だった。次々とはった結界を渡り屋上に降り立つと、陽気によお、と片手を上げてみせる。 「5日、いや、もう6日振りになるか。元気にしてた?」 昼からずっと考えていた相手が急に現れて、良守は呆然としながらも頷いた。確かにそこにいるのに、夢か幻のように思えてしまう。 「兄貴…、今度の仕事、時間かかりそうだって言ってなかったか?」 この前会った時、正守はそう言っていた。うまく事が運んでも10日はかかりそうだと。だから良守は少なくとも10日以上は会えないんだなと覚悟していたのだ。それなのにこうして目の前にひょっこりと現れた兄の姿に驚くしかない。 「うーん、まだかかりそうではあるんだけどさ。昼に仮眠してた時に良守の夢見ちゃったんだよね。」 そしたら会いたくなって来ちゃった、と悪びれもせずに近づきながら言われて、良守は思わず顔を赤く染めた。 「そんくらいで頭領が現場離れて良いのかよ!」 クルリと正守に背を向け怒鳴る良守。だがその耳は茹だったかのように真っ赤になっていて、正守は嬉しそうに微笑んだ。 「そんくらいって言われても、あのまま残っても仕事に集中しきれないと思うんだよ。だったら一度良守に会っちゃった方が効率アップすると思うんだ。ちょうど仕事もちょっと落ち着いてきてたし。」 だからもっと近くで顔見せてよ。良守の顔、見たい。 腕を取られ引き寄せられて、二人して屋上のコンクリートに座り込んだ。耳元で囁かれた台詞はとびっきりの甘さを含ませて良守の脳髄を溶かす。きっと誰も、こんな正守には逆らえないんじゃないだろうか。 顔が赤いままなのは分かっていたけど、会いたいと思っていたのは良守だって同じだったから、少しだけ躊躇った後顔を上げて正守を見上げる。すると自分を愛おしげに見る正守の目と目が合い、胸が締め付けられたかのような苦しさを感じた。 好きだ、だなんて唐突に思う。いつからかなんて分からないけど、気が付いたらこの胸にあった想い。実の兄なのに、そんな事は分かっているのにどうしようもなく惹かれた。通じるはずもなかったはずなのに、兄も同じ気持ちだったと知った時の喜びは今もこの胸に鮮やかに甦る。 改めて正守の顔をじっと見て良守は考えた。キリッとした切れ長の目に通った鼻梁、そして薄い唇。凛々しいというか端正な顔と言えるだろう。それだけじゃなくて、正守には独特の雰囲気と存在感があった。人目を惹くし、男の目から見てもモテそうだなと思う。その気になれば相手になんか困らないだろうに、なんで俺なんだろうと思ったのは一度や二度じゃない。 「ーそんなに見惚れるほど、お兄ちゃん格好良いか?」 穴が開くほど見つめられて、正守が苦笑しながら口にした言葉に良守はハッとした。馬鹿違う、と言いかけた口は中途半端な所で閉じてしまう。言われた事は考えていた通りの事で、否定しようにも出来なかった。 赤くなって俯いてしまった弟の髪に、正守はそっと口付けを落とす。頭を抱き込んでいた手を頬に添え顔を上向かせると、恥ずかしさで少し涙目になっている潤んだ瞳に唇を近づき軽く触れる。気配を察して閉じられた瞼にも口付けすると、腕の中の体が小さく震えた。 それからもう一度ゆっくりと唇を塞ぐ。何度か軽く触れた後薄く開いた唇から舌を差し入れると、はっきりと分かる程に良守の肩が揺れる。何度味わおうともいつでも正守を甘く魅了する弟に、夢中になってキスを繰り返す。本当ならこのまま押し倒してしまいたいところだが、良守は今夜の仕事をまだ終えていない。妖が出なくなるだろう時間までは僅かだが間があった。 名残惜しげに口付けを解き最後に額に軽く唇を押し当てると良守が大きく息を付いた。荒くなった呼吸を整えようとする弟の背を緩く撫でてやる。何度か深呼吸を繰り返して落ち着いたのか、抱き込んだ腕の中から良守が正守を見上げた。 「なあ、兄貴には理想とかってあるの?」 唐突に聞かれて正守は思わず良守に尋ね返す。 「理想?って、どういう意味の。」 「えっと、好みのタイプっていうか、理想の女性像ってヤツ?」 その言葉に、正守は少々面食らって弟の顔を見た。一瞬何かの当てこすりだろうかと思ったが、どう考えても弟はその手の当てこすりを言うような陰険なタイプじゃないし、良守の表情はただ聞いてみたいから聞いただけといった感じで他意があるようにはみえない。が、これはどういう意味なんだろう。流石に当の恋人に理想の女性像を聞かれるとは思ってもみなかった。 隠していた想いが通じ合って、夜を過ごす仲になっていくらか経ったというのに、弟は未だに純粋さが残っている。まだ14歳という年齢だからなのか、それとも良守だからなのか。…多分後者という気はするけれど。 「何でいきなりそんな事聞くんだ?」 不思議そうな正守に、良守は正直に答えた。 「今日学校で「理想の女性像」についてってアンケートがあったんだよ。それで何となく。」 「へぇ。今時の中学校ってそんなの聞いたりするんだ。」 「学校新聞に載せるんだって。田端が張り切ってた。」 良守の口から出たクラスメイトの名前に正守は納得して頷いた。そういえば情報通の友人がいるって言ってたな。それにしてもねぇ、と正守は顎をひと撫でした。そんなの考えた事も無かったので、聞かれてもピンとこない。 「理想の女性像、か。…適度に頭良くて空気読めて、俺の仕事に口出ししなくて後腐れのないタイプ?」 「は…?」 良守には、正守の言った言葉の意味が解らなかった。それはどう聞いても好意的な言葉じゃなかったし、良守の考える「理想」とはかけ離れたニュアンスだったからだ。ポカンと口を開けてしまった弟に正守は苦笑する。別に隠すつもりのない事だから本音を話したのだが、若い、というよりまだ幼い良守には体だけの関係というのは想像し難いだろう。潔癖な年頃だ。嫌悪されるかな、とも思ったが適当に誤魔化すのも嫌だったから、解りやすいように話してやる。 「そりゃあさ、それなりに女性とのお付き合いってのをした事はあるよ。でも好きだから付き合った人なんていなかったな。相手だって似たような感じだったと思うからお互い様だったと思うよ。大体、自分じゃ気付いてなかったけど、俺ってずっと昔から良守の事好きだったんだよね。だから他の人を好きになった事なんか無くて当たり前、「好みの女性」もなにもあるわけないんじゃない?」 言葉もなく自分を凝視している良守の頭を軽く撫でながら、正守は態と戯けたように言った。 「以前はさ、自分でも不思議だったんだよ。端から見たらそれなりに魅力的らしい人と付き合ってても、全然心が動かないんだ。大事にしたいとか守りたいとか、失いたくないとか、まったく思えないんだよね。それなりに情はあっても、友情とかそういうのと何処が違うのかも解らなくてさ。自分でも冷めてるなーって思ってたし、それを余所から指摘された事もあったよ。お前は付き合ってても相手に恋はしてないって。でもあの頃はそれがどうおかしいのかなんて全然解ってなかったし、別にそれで何も不都合は無いって思ってた。」 割り切った感情しか持てない時点でそれは恋ではない。ただ適当に都合がいいから付き合っていただけのこと。 「大事にしたいのも守りたいのも失いたくないのも、俺にとっては昔から一人だけだったんだ。」 それに気付くのに随分遠回りしたけど、どんなに回り道をしても辿り着けたのならもう間違えたりはしない。ましてや想い続けたその存在が手に入ったなら尚の事。今も昔も正守にとって大切なのはただ一人だった。 「そんな訳で今まで理想なんて考えた事も無かったし、理想通りだから良守を好きになったって訳じゃないしなぁ。俺は良守が良守だから好きになったんだから、結果的にお前が理想って事になるんじゃないの?つまり理想って言うなら良守だから、「理想の‘女性’像」があるはずない。」 正守の言葉を聞いて、何となくだけど自分の中の何かがすとんと嵌ったような気がした。ああそういう事なのかとようやく納得出来る。 良守も理想なんて考えた事はなかった。相手は血の繋がった実の兄で、本当なら好きになってはいけない相手だと知っていたのにどうしようもなく惹かれた。ただ、正守だから好きになった、それだけだ。そこには理想もへったくれもない。ある意味、正守が理想の固まりなのかもしれないけど。 正守の言葉を理解しながらも、良守はどこか胸が苦しくなるのを感じていた。正守が過去に付き合っていた女性達。きっと兄が言っていたように「魅力的」な人達ばかりだったんだろうと思う。そんな相手への嫉妬がまったく無いと言ったら嘘になるけど、その事に対しては自分なりに納得している。だから苦しい、と感じるのは嫉妬のせいじゃない。その苦しさの中にツキンとした痛みを知覚して、良守はようやく気付いた。 そっか、俺、哀しいって思ったんだ。 良守は少なからずショックを受けていた。それは正守が過去付き合っていた女性達に対して、愛情を持っていた訳じゃない事を知ったからだ。恋人として、本来なら安堵するようなその事実にショックを受けた理由も何となく解った。 良守は正守に、極当たり前の恋愛をしていて欲しかったのだ。 たった15歳という若さで中学を卒業と同時に知る人もいない裏会へと行った正守。異能者が集まるそこで、兄がどんな風に暮らしていたのかは良守は知らない。だが今でこそ夜行の頭領として、また裏会幹部としての地位にいる兄の歩いた道は決して平坦な物ではなかっただろう。良守ほど数は多くないが体中に残る傷の中には、致命傷になりうる物もあったし、額の傷だってそうだ。どれだけの困難を乗り越えてきたのか、良守には想像する事だって出来ない。 15歳なんて、今の良守とたった一つの差。きっと今の良守くらいの年には家を出る事を決意していたはずだと思うと、そうせざるを得なかった兄の立場を考え胸が締め付けられるようだ。 もちろん今はもう、その事で正守に恨まれていない事を知っている。良守がその事で悲しめば正守も悲しむだろう。それは分かっているのだが、だからこそ、裏会に行ってからの正守に、誰か支えになるような人がいたらと思っていたのだ。 友人とか、夜行を作ってからは部下とか。刃鳥さんだっているし、支えはたくさんいたのかもしれない。だけどそういう事だけじゃなくて、正守が疲れた時、その心を癒してくれるような誰かがいてくれたら…と。付き合ってた人がいたのなら、その人がそうであって欲しいと思っていたのだ。でも実際にはそうではなかった。それがどこか哀しい。 人を好きになる事は決して幸せな事ばかりじゃない。だけど心を寄せ合う事が出来た時の幸福感は他のどんな瞬間よりも満たされるのだという事を、良守は正守によって知った。 傍にいる、声が聞ける、触れ合える。それがどんなに心を温かくしてくれるか、どれだけ力を与えてくれるか身を持って知っている。勝手だとは思うけど、自分達が離れていた間、擦れ違っていた間、誰かが正守の心を少しでも癒してくれていたらー。きっと自分は見たことの無い正守の相手にも感謝出来たと思うのに。 正守が裏会に入ってからの6年間、どんな風に過ごして来たのかはもう知る術がない。過去の自分達を後悔したって時間は戻らないのだ。 沈んでしまった良守の様子に正守が気付いた。良守?と名を呼ばれ、良守は自分から兄を抱き寄せた。膝立ちになり、座り込んだ正守の頭を抱え込むように抱き締める。哀しいと思った気持ちを、同時に感じた切なさを、そんな想いがきっと出てしまっている自分の顔を今は見せたくなかった。じゃないと正守は気付いてしまう。そして良守にそんな想いをさせてしまった事を悲しむだろう。 時を戻せないならせめて、こうして二人でいられる時間を大切にしたい。15歳の正守を抱き締められないなら、今、正守が良守を好きだと言ってくれるその気持ちを大切にしたい。いつか、兄の横に並んでも誰もが認めてくれるような。そんな男になって少しでも支えられるようになりたい。甘えるばかりじゃなくて甘えてもらえるように。頼りにしてもらえるように。 無言で抱き締め続ける良守に、正守は何かを感じ取った。名前を呼ぶとキュッと力を込められる。まだ成長途中の細い腕が、まるで守ろうとしているかのように包み込んでいて、正守はその心地よさに目を閉じた。 こんな風に、誰かの腕の中で力を抜いて無防備になるなんてどれくらいぶりだろう。思い起こせば早熟だった子供時代、母は疎かあの優しい父にさえ甘えた記憶も殆ど無い。 変に聡い子供というのも考え物だ。いつか甘えなくなる時は来るのだから、子供の頃くらいは素直に甘えていても良かっただろうに。今でこそ言える台詞だが、当時の正守にはそう思えるはずもなく。その後は良守も生まれ、自分は兄なのだからと思うと尚更甘えるという発想自体が無くなっていた。 ああでも、と正守は思う。こんな風に自分を委ねる事は、こんなにも気持ちが安らぐ事だったのだろうか。 共寝の時、良守を腕に抱いて眠る時の幸福感ともまた少し違う。全身から力が抜けて、まるで溶けて広がっていくような錯覚を覚える。 抱き込まれた腕の中、ちょうど良守の心臓の位置に顔が来て、密着させた箇所からトクントクンと鼓動が聞こえた。一定のリズムで刻まれるその音が体中に染みわたっていく。これが良守の心臓の鼓動。愛しい者が生きているという証の音。 愛しさが込み上げてきて、自然とその場所に唇を寄せた。固い法衣越しにごく軽く触れるだけの口付け。襟の合わさった部分だから気付かないかと思ったのに、弟は一瞬ぴくりと体を震わせた。見上げてみると、困ったような顔をした弟と目があった。少し顔を赤く染め、瞳も潤んでいるのは先程まで何事かを考えていた名残なのか、それとも正守の行動に何かを感じ取ったのか。 どちらにせよそれは酷く扇情的に見えて、正守は自分を突き動かした衝動のまま体を起こし、自分を見下ろす弟の唇を奪った。 いつもとは違う下から突き上げるような口付けに、良守が戸惑ったように正守の名を呼ぼうとするのを許さず、その口を覆うようにかぶりつく。少しずつ角度を変え繰り返し柔らかな唇を味わっていると、良守も自然と応え始めた。それに気をよくして、今度は覆い被さる様に小さな体を腕の中に閉じ込める。しばらく思うまま甘い唇を味わっていたが、息の上がってきた良守の様子に、正守は名残惜しげに口付けを解く。何度キスしても飽きることのない唇をペロリと舐めると、弟は微かに肩を揺らした。その僅かな所作すら可愛らしいと思う。髪の一筋、爪の先まで愛しい。そんな存在が己の腕の中にいるという、それは信じられない程の奇跡だ。この先の自分が持っていた全ての幸運と引き替えにしたと言われても納得出来そうなくらいだった。 まだ少しだけ荒い息をつく弟の体を抱き締める。すると良守が腕を精一杯伸ばして正守の体を抱き締め返した。まるで先程、正守を守るかのように抱き締めていた時の続きのような健気な仕草に、正守の胸が熱くなる。先程何を思ったのか、何を考えていたのか。それは少し気になるけれど、無理に聞き出したいとは思わない。話せる事なら自分から話しているだろう。言葉じゃなくてもこうして触れ合う体から、良守の温かい心が流れ込んでくるからそれで充分だと思う。お前が俺を必要としてくれる。愛してくれる。今の俺にとってそれ以上に大切な事なんてない。 夜が明けるまでには戻らないといけない。それまでの少しの間このままでいたいと願う。ただ抱き締めているだけでこんなにも満たされる時間を、あと少しだけ。ずっと傍にいられるようになるまでには、まだたくさんの問題が残されているのだから、せめて今だけは。 誰とも無しに密やかに。正守は良守の額に祈るように口付けた。 前編 |
2007.10.15
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