懸想立つ夜に 後編
「泣くなよ。」 良守の肩口に顔を寄せ、正守が呟く。 「泣くな。」 きゅっと抱き締める腕に力が込められる。 「お前に泣かれると、俺はどうして良いか分からなくなる。」 今の状況が把握出来ない良守は、その言葉を呆然と聞いていた。 どうしてこんな風に優しく抱き締める。 ずっと拒絶してきたくせに、なぜ今になってそんなに優しく抱き締めるんだ。 ー泣いてるのは俺なのに、お前の方が泣きそうだなんて。どうしてそう思うんだろう。 いつだって傲慢ともいえる態度で、嫌みったらしく人をからかってばかりのくせに。こんなお前なんて知らない。 「良守…。」 いつもとは違う響きで名を呼ばれ、良守の背をぞくりとした感覚が走った。 知らない、こんな風に呼ばれたことなんて今まで一度だってなかった。まるで熱を含ませたようなー。 「どうして…こんなことするんだ。ずっと俺の事嫌ってるみたいだったくせに、急に優しくなったり。お前、わけわかんねーよ…。」 抱き締められた腕の中は心地よく、離して欲しくないと思う。でもこのままだと、また変なことを口走ってしまいそうで恐かった。 気持ちがどんどん溢れだしてしまう。こんな態度じゃ嫌われても仕方ない、でもせめてこれ以上好きにさせないで欲しい。ただでさえ自分でもどうしようもない想いを持て余してるのに、こんな温もりを知ってしまえば、手放すのが辛くなるだけだ。 自分から離れられるほど、まだ大人じゃないのに。 切なくてまた涙が溢れそうになった。そんな良守の耳に、正守の声が届く。 「嫌いじゃないよ。」 その言葉に良守は目を見開いた。 「う…そだ。」 「嘘じゃない。俺が一度だってお前を嫌いだと言ったか?そう思われても当然だが…。」 耳に直に響く声は真剣さを滲ませていて、からかいや誤魔化しなどではない本気の言葉だと解る。 「嫌いになれてたら楽だったのかも知れないな。俺も、お前も。」 正守は自嘲気味に苦笑した。そんな単純な感情ですんでいたなら、こんなに苦しまずにすんだだろう。 「なんで…だったらどうしてあんなに…。」 途切れ途切れの良守の言葉に、正守は彼が何を言いたいのか察した。「何故自分に冷たかったのか」、それを聞きたいのだろう。 「…俺の我が侭だよ。慕われるより、嫌われた方が楽だったから。」 兄ちゃん兄ちゃんと、自分の後をついてくる弟。俺が褒めると嬉しそうに笑う。抱き上げると、きゅっとしがみついてくる小さくて温かな体。その全てが愛しかった。そう思うのは兄として当然だと思っていた。だから時を経るごとに、そうした当たり前の触れ合いにもどかしさを感じるようになった時、正守は戸惑った。 良守が嫌いな訳ではない。だけど良守を見ていると心がざわめいて落ち着かない。 大切な弟に対して自分が何を思っているのかがどうしても掴めなくて、苛立ちは募るばかりだった。 決して憎んでなどいないと、それだけは誓って言えるのに。制御出来ない感情に心は荒んでいくばかりで。 「嫌われて、ある程度の距離を取らないと、自分が何をするか分からなかったんだ。」 言われた事の意味が良守には分からなかった。わざわざ嫌われようとするなんて、そこまでする必要があったとは思えない。 「何をするか分からないって…殴りたかったとか?それってやっぱ、俺が憎かったからだろ?」 良守の疑問の声に正守は苦笑した。どうやら弟は自分が何をしたかったかは検討もつかないらしい。当たり前と言えば当たり前だ。実の兄が実の弟に、こんな邪な想いを抱いているなんて、誰が想像出来るだろう。 −ずっと触れたかったのだと、そう告げたら。お前はどんな顔をするのだろうか。 どこか頭の隅で警告音が鳴り響く。目の前にあるのは越えてはいけない最後の砦。 越えてしまえば、告げてしまえば兄弟には戻れない。もう良守は自分を兄とは認めないだろう。 少しだけ体を離す。弟の目は、まだ涙で潤んでいた。見上げてくるあどけなさを残した眼差しに、体の芯が熱くなるのを感じる。 愛しいと、そう想う心を止めることは出来ないと。どこか絶望に似た気持ちの中で悟った。 するりと手を伸ばし頬に触れる。少し驚いたように開きかけた口に、自分のそれで塞いだ。最初は掠めるように、その後ゆっくりと重ねた唇は柔らかく温かい。 初めて触れる愛しい人との口付けに、正守は陶酔しそうになる。 先走りそうになる自分を押さえ、名残惜しげに最後に良守の唇を舐めるとそっと離れた。その間、良守は呆然としたまま動かない。 初めてだろう上に、兄に口付けされてパニックになっているのだろうと、寂しさと申し訳なさが混じった気持ちになる。それでも後戻りはもう出来ないから。せめて、本当の気持ちだけは伝えようと思った。 「…お前を、愛してる。」 ずっと本心を隠してきた正守の中の、偽らざる真実。 「昔から、俺の中でお前は、弟だけど弟じゃなかった。」 「あに、き…?」 呆然と自分を呼ぶ良守に、正守は自嘲したように苦笑いする。こんな状況の中、向けられた表情ひとつひとつが愛しいだなんて、まったく自分はどうしようもない。 だがこんな風に会えるのも話せるのも今夜が最後なのだと思うと、良守の顔をもっと見たいと思う。全部を目に焼き付けて覚えていたい。 「最後まで良い兄貴じゃなくて、ごめんな。」 その言葉に、良守が目を見開いた。 「最後って、どういう意味だ。」 訝しげに顰められた眉。そこに嫌悪の色がまったくない事に正守は疑問を抱いたが、こういう面では鈍そうな弟の性格を思い出し苦笑した。恐らくまだ正守が言った事の意味がいまいち解っていないのだろう。 「さすがに、気持ちを伝えた後も平然とはしてられないからさ。今まで以上に距離を置かないと。お前だって俺に襲われたくはないだろう?」 「襲うって…。」 「平たく言えば抱きたくなるって事。意味くらいわかるよな。」 正守の直接的な言葉に、良守が僅かに身動いだ。 「心配するな。無理強いなんてしないし、距離を置くって言ってもお前と烏森へのバックアップは夜行の仕事だしちゃんとする。ただ余程の有事じゃなければ、俺は来ないようにするから。」 「なんだよそれって。もう俺とは会わないつもりって事か。」 その時良守は正守の言葉の意味に気付いてハッとした。「今まで以上に距離を置かないと」とは、もしかして。 「まさか…。家を出たのって、それが原因なのか…?」 途端眉を下げる良守。また泣きそうだな、と思い正守は苦笑する。 「それが全てじゃないけど、それも含んでるよ。」 昔はこの気持ちに気付いてなかった。憎いのは烏森であって弟ではないとは解っているのに、どうして良守に対して平常心でいられなくなる時があるのか。 焦りのような、もどかしいような。掴めない感情が渦巻いて落ち着かなくなる。それは正守を酷く苛立たせた。 その原因とも言える良守に対しても苛立つようになった頃、裏会の話が来たのは正守にとって光明に思えたのだ。 どちらにせよ、いずれ家を出るつもりだった。それが少し早くなっただけ。 正守は力を抜いたように溜息をつく。 「伝えるつもりはなかったんだが仕方ない。これからは極力近寄らないようにするから、仕事で関わる分はお前も我慢してくれ。」 「極力近寄らないとか我慢とかって、一体何なんだよ!勝手な事ばっか言って、お前はそれで気がすむかもしれないけど、俺の気持ちはどうなるんだ。ずっとお前に嫌われてるって、悩んで苦しんだ俺の気持ちは…!」 苦しげに言う良守に正守も少々戸惑う。近寄って欲しくないのは良守の方だろうに。それに良守の台詞は正守にとって不本意なものだった。 「気が済むはずないだろ。お前に会いたくないわけじゃないんだから。」 「だったら今まで通りでいいだろっ!」 「…お前ね、さっき俺が言った事、本気でわかってないの?」 俺はお前の事好きなんだよ、と言えば、良守は苛立ったように怒鳴る。 「お前こそ俺の言った事わかってないだろ!」 正守は言葉を失った。良守が言った事とは、それは…。 「嫌いだったら、こんなに苦しんでないんだよ…!」 目を瞑り絞り出すように叫ぶ。握り締めた拳が、彼の必至さを物語っていた。 それが単に兄弟として嫌ってないというだけではないのだと、訴えているように思えるのは都合が良すぎるのだろうか。 「…良守。」 俯く良守の頬にそっと伸ばされる大きな手。慈しむような温もりに切なさが湧き上がり、良守は零れそうになる涙を必至に堪える。 「お前の言葉、このままだと俺の良い様に取るぞ。訂正するなら今の内だ。」 良守の肩がピクリと動く。でも顔を上げる事は出来なかった。数秒の躊躇いの後、震えるように呟く。 「…訂正はできない。嘘に、なるから。」 嫌いじゃないことも、苦しんだことも本当の事で、それを否定するなんて出来ない。なによりもー。 「兄貴が俺を好きだって言うんなら、離れて欲しくない。」 そう言った途端、頬に添えられた手が顎にまわり強引に良守の顔を引き上げた。 驚いて上げた目線が、良守を見詰める眼差しと正面からぶつかる。その真摯な目に射すくめられたように逸らせない。 「本気で言ってるのか?」 正守の声はどこか詰問するかのようだった。その鋭さに、良守はビクリとしながらも小さく頷く。体を微かに震わせながらのその健気な仕草に、正守はフッと息を吐いた。 「お前は馬鹿だねぇ。」 言うなりククク、と笑い出す正守に、良守の頭にカッと血が上る。 「…っ!どうせ俺は馬鹿だよっ!!」 自分を掴む兄の腕から逃れようと顔を背けるのを許さず、正守は良守を無理矢理にこちらを向かせて苦笑する。 「そうじゃなくてさ。自分から堕ちてくることもないのに。」 正守の言葉の意味が分からなくて、良守は瞬間キョトンとした顔をなる。そんな幼い表情を無防備に晒す弟の額に軽く口付けた。 この気持ちを打ち明けるつもりなどなかった。兄弟だからとかは関係ない。ただ大切すぎて、手を伸ばす気にならなかっただけだ。 優しい弟が正守の気持ちを知ればきっと苦しむ。方印という負い目がある分、倫理とか嫌悪とかとは別の部分で。下手をしたら己をねじ曲げてでも、その想いを受け入れようとするかもしれない。正守はそれを一番危惧していた。 変わって欲しくないと願ったのは、誰でもない、正守自身だ。だからこそ自分の気持ちを知って良守が変わってしまう事を、正守は恐れた。だけどもう遅い。ー目を閉じて弟の体を強引に抱き締める。 いつか。お前がどんな男の手を取ったのかと、恐れて後悔したとしても。 「俺はもう、お前を離してやれないからな。」 抱き締めた腕に力を込め耳元で囁くと、怖ず怖ずと良守の手が正守の背中に回された。その諾の印に正守の顔に自然と笑みが浮かぶ。 俺は結構我が侭だし欲深い。それなりに大人だから狡猾さも持ち合わせている。 欲しくて堪らなかった存在が自ら手の中に降りてきたのなら、それが例え一時の気の迷いでも二度と手放す気は毛頭無い。 その時腕の中の弟が小さく「離れたくない」と呟いた。その言葉を聞いて、正守の感情が一気に膨れ上がる。 何も考えず覆い被さるように屈み込み弟に口付けた。先程とは違い、遠慮無しに噛み付くようなキスをする。時々口の端から戸惑ったように己の名を呼ぼうとするのも無視して、都合良く開いた口内に強引に舌を入れた。 良守の口の端からくもぐったような喘ぎが聞こえる。慣れてない弟には激しすぎる行為。だが正守は洩れ聞こえる声に煽られ夢中になった。 殆ど手加減無くその唇を蹂躙した後解放すると、良守はぐったりと正守の胸にもたれ掛かる。その様子にほんの少し、申し訳ないなぁと反省する反面、言いたいこともあった。 「お前ね、あんまり煽るような事言ってくれるなよ。」 そう言うと良守が真っ赤な顔を上げ、正守を怒鳴りつけた。 「俺は別に煽ってなんかない!」 憤然とする良守に正守は苦笑した。キスの名残か良守の目は潤み、怒りの為頬は真っ赤に染まっている。そんな風に上目遣いに睨まれたって、迫力がない所か逆効果だ。 「ほら、そういう所が煽ってるって言うんだよ。自覚がないってのも厄介だな。」 あ〜あ、と態とらしく呟くと、良守が怒って正守の腕の中から逃れようとする。 それを許さずに、正守はもう一度良守にキスをした。今度は軽く触れるだけのキスを顔中に降らせる。 「ちょっ、おい正守、ちょっとやめろって…っ!」 優しい口付けの嵐が何だか凄く恥ずかしくて、良守は必至に体を捻って正守を避けようとした。もちろん無駄な努力だったが。 「やめないよ。今すっごく良守にキスしたい気分だからさ。」 思い掛けず良守の気持ちを知る事が出来て、有頂天になってるんだ。と言えば、良守が嘘だろ、と呟きながら目を見開く。そのこめかみに口付けしながら、正守は良守に微笑んだ。 「両想いになれて浮かれるなんて、いや、俺もまだまだガキだね。」 ハハハと正守が笑う。そのやや軽い調子に、良守が憮然とした。 「てめー、ふざけてるのかよ…。」 「それはちょっと違う。こういう態度取らないと、今の俺、何するか分からないからさ。シリアスになるのを避けてるわけ。」 気持ちに気付いたのはちょっと前のこと。でも想いは思い出せないくらい昔からのもの。 もしかしたら多分、良守が生まれた時から、俺はこいつに囚われていた。 「こっちは年期が違うんだからな。だからあんまり可愛い態度とってたら襲っちゃうよ。」 「〜〜〜!!」 正守の言葉に、良守の顔が真っ赤に染まる。口をパクパクと開いて、でも何も言えないようだった。 その様子が可愛らしくて、正守は苦笑しながらチュッと音を立てて良守に軽いキスをした。 お前のこと、本当に大事にしたいと思ってるんだ。だからこそ、自らこの手の中に降りてきてくれたお前を傷つけるような真似はしたくない。 その身も心も大切に大切に。全てから守るなんて出来ないし、お前もそんなことは望まないだろうけど、それでもと願う。 少なくとも俺がお前を傷つけてしまったら、俺は俺自身を許せないだろう。 「心配しなくても、ゆっくりやっていこう?俺も焦る事だけはしないから。」 ずっと嫌われていると思っていたのがそうではなかった。それを知ることができただけで、今は充分。 「これからもよろしくな。」 少し屈んで抱き締めた弟の髪に口付けながら言うと、良守がビックリしたように一瞬固まって、次の瞬間ハッとしたようにコクコクと頷く。 その可愛らしさにゆっくりやろうと言ったのは自分だけど、大丈夫かな俺の理性、と早くも不安になる正守だった。 前編 |
2007.6.28