懸想立つ夜に 前編
夜の烏森に、まだ年若い少年の声が響く。 「結、滅!」 小鳥サイズの妖相手にしては大きめな結界。上空でそれを見守っていた男は、相変わらずだな、と苦笑した。 どうやら今夜は比較的静かな夜らしい。手がかかりそうな妖が出る気配はない。 時間的にもそろそろ終わるだろうと思っていると、墨村家の妖犬がフラリと帰ってきた。校舎の影から白装束の少女と、彼女に連れ添う雪村家の妖犬の姿も見える。 2人と2匹はいくつかの言葉を交わし校門へと向かって歩き出す。それを見届けて男は空中に張った結界を移動した。弟を家で出迎えるために。 小さな欠伸をしながら良守は家の門をくぐる。深夜なのでご近所迷惑にならないように、彼にしては丁寧な仕草で木扉を閉じた。斑尾が犬小屋に消えていくのを見届ける。 「お疲れさん。」 「うおっ!?」 振り向いた途端に声をかけられ、思わず変な声を上げてしまう。玄関に立っていたのはとっくの昔にこの家を出ていたはずの長男、正守だった。 「兄貴!?てめえ、いつからいやがった!」 「さっきからだけど。お前、久々に会う兄に向かってあんまりじゃない?」 「うるせぇ。こんな夜中に気配を殺して立ってんのが悪い。誰だってビックリするだろ。」 兄正守の登場により、良守の機嫌は急降下した。この兄のことだ、烏森でも気配を絶って見張ってやがったんだろう。 ブスッと膨れながら、良守は胡乱な目で正守を見た。 「兄貴が帰ってくるなんて、父さん言ってなかったぞ。」 「そりゃ当然だ、知らせてないし。今日は近くで仕事してな。早く終わったんでちょっと寄ってみただけなんだ。」 だからすぐに帰るよ、という正守に、良守はホッとしたようなそうではないような複雑な気分になった。 「あっそ、どうせ烏森でも見てたんだろ。さっさと戻れば?」 素っ気ない態度で兄の横を擦り抜け家へと入る。すると正守も玄関の鍵をかけ、弟の後に続いた。 「何だよ、戻んねーのか。」 自室の前まで来た所で、後ろの兄に声をかける。その不機嫌そうな弟の表情に正守は苦笑した。 「寄ったのは烏森を見たかったからじゃなくて、たまにはみんなに会いたかったからなんだけど?」 そう言いながら背を押され、良守は正守と共に部屋へと入った。背後の兄を胡乱に見上げる。 「だったら朝までいれば良いだろ。父さんきっと大喜びで朝食作ってくれるぞ。」 「そうしたいのは山々なんだけど、朝一で仕事が待ってるんだよ。だから少しの間くらい、良守がお兄ちゃんの相手してくれてもいいだろー。」 「誰が「お兄ちゃん」だよっ!って、」 「お前ね、時間を考えろ。」 良守が怒鳴った声の大きさに思わず自分の口を塞いだのと、正守が室内を覆うくらいの結界を張ったのはほぼ同時の事だった。 「…そっちが変な事言うからだろ。」 「何も説教しようってわけじゃないんだから、そんなに構えなくたって良いだろうに。」 「俺は眠いんだよ。別に話することなんてねーし。」 気まずさからそう言うと、正守がふう、と態とらしく溜息をつく。そして仕方ないな、とばかりに口の端を上げて何気なく言った。 「ほんと、お前は俺を嫌いだねぇ。」 平然と、面白がっているかのようないつもの口調で。だけどまるでそれが真実だと言わんばかりの台詞。聞いた瞬間、良守の心臓がどくりと音を立てた。 今迄の態度が態度だったから、兄にそう誤解されていても当然だ。だけど、直接兄の口にされることが、こんなにも堪えるとは思わなかった。 嫌いだなんて、そんなんじゃない。目の前の兄を嫌いだったことなんて一度もないのに。 我知らず体が震えだした事に彼は気付かない。 どんどん青ざめていく弟に、正守は眉を寄せた。 「良守…?」 具合でも悪くなったのかと思わず手を伸ばす。 ゆっくりと近づく正守の手に、良守はカッと頭に血が上るのを感じた。 差し伸べられた手を思いっきり逆手に弾く。 嫌ってるのは、憎んでいるのは兄の方だと、ずっとそう思ってた。 昔から、彼はいつだって微笑みながら自分を拒絶していたから。 当たり障りのない顔で、兄貴面をしながら。決して越える事の出来ない境界線を張り、自分を受け入れてはくれなかった。 必死に追い掛けても追い掛けても、その背中は遠くて。 絶望と共に諦める事を知ったのは兄が家を出た時だった。 それでもあの神佑地の一件以来、少しずつ何かが変わってきたとは感じてた。 嫌われてると感じてたのが全て思い込みだったとは思えない。嫌悪ではなかったのかも知れないけど、正守の中に良守を拒絶する心は少なからずあったはずだ。 それが変わってきたのだとしても、距離を一気に縮めてしまうのも恐くて、結局以前と変わらない態度しかとれない自分は子供だと思う。 でも、こうして会ってしまえば心は騒いだ。 声を聞けば。名を呼ばれれば。どこか深い部分が揺さぶられる。 その姿を自然と目が追い、見ているだけで胸が苦しくて涙が出そうになって。そんな自分は情けないと思うから会いたくないのに、長く会えないとやっぱり苦しくて辛い。 どうしても惹かれてやまない存在から、無理矢理目を逸らす事がどんなに辛いかなんて、きっとこいつには一生分からない。 いっそ本当に嫌えたら良かった。そしたらこんな風に、兄の一挙一動に振り回される事もなかったのに。 もう駄目だ。目頭が熱くなるのに気付いてはいたが止められない。感情が爆発するままに想いが口をついて出る。 「本当に嫌いだったら、こんなに苦しんでねぇ…っ!」 良守の頬を一滴、涙が伝う。それを正守は呆然と見た。 見られたくなくて良守は兄に背を向ける。言うつもりじゃなかった台詞を言ってしまった。しかも泣いてしまうだなんて。 正守がどう思ったのか知るのが恐い。この場にいたくない。 そのままその場から逃げようとした良守だったが、その途端腕を掴まれて思わず振り返ってしまった。 瞬間。 良守が見たのは恐いくらいに自分を見詰める真摯な目。 そんな表情は見たことがなくて、呆気にとられながらも見惚てしまう。 だが次の瞬間、自分が泣いていたことを思い出し、見られないように俯いた。 「今の、どういう意味?」 正守の問いかけに、良守の肩がピクリと揺れる。 「…どう、って。本気で嫌っちゃいないってだけだよ。お前いっつも意地悪でやなやつだけど、俺達一応兄弟なんだし。」 声は、何とか震えずにすんだ。これで誤魔化されてくれないかと祈るような気持ちになる。 「じゃあ、なんで泣いてるんだ。」 「泣いてなんか…っ!!」 頭を振ると顎を掴まれた。無理矢理顔を上げさせられると、嫌でも泣き顔を晒してしまう。止めたくても勝手に涙は溢れてくる。 「…ほら、泣いてるだろ。」 「違う!これはお前が人の話も聞かないくせに、勝手に俺のこと決めつけて!…それが悔しいだけだっ!」 良守は気持ちに気付かれたくなくて必死だった。自分が何を言っているのかも分かっていない。そんな良守を見て、正守の表情が歪んでいく。苦しげに顰められた眉に葛藤が浮かぶ。 正守は良守の顎を掴んでいた手を、涙に濡れる頬に添えた。 流れる涙を親指で拭うと、その仕草に良守の動きが止まる。 指の腹で優しく撫でられて、正守を見ないように横に反らしていた良守の視線が戸惑うように上がると、自分を見詰める正守と目が合った。その瞬間、良守は何故か胸を締め付けられたような気になる。 切ない、と感じたのは自分だったのか。それとも兄だったのか。 深く考える間もなく、体が温かいものに包み込まれる。 それが兄に抱き締められたからだと気付いたのは、暫く経ってからで。一体どれほどの間、言葉もなく抱き締められていたのか、良守には分からなかった。 後編 |
2007.6.23