ボクは眠る事がない。魂だけの存在のボクは、眠って脳を休ませる必要がない。
だから兄さんが眠る夜の間、ボクは一人時間を持て余す。
本を読んだり一人散歩をしたり。そんな風に過ごす時間はとてつもなく長く感じて。
いつも早く朝が来れば良いのにって願っていた。
だけどいつの頃からか、その苦痛だけだった夜の時間に。
時々、不思議な事が起こるようになった。
夢を見ている
誰かが頬を撫でている。優しく包み込むような大きな手の感触。
それはボクが切望していたはずの温もり。
心地よくてもっとと思ってしまう。ずっとこうしていて欲しい。
「アル?おい、起きろよ。」
ああ呼ばれている。呼んでいるのは誰だった?心配そうな声。
その声と共に手が離れて、今度はふわりとした感触が顔や首筋に触れてくる。
そこでようやくボクは目を開けた。
その途端視界に入り込んでくる黄金の瞳。こちらを覗き込んでいる。
少し不安そうな表情を浮かべているその人に、何だかむしょうに触れたくなって。
やたらと重い腕を伸ばして頬に触れた。
「兄さ…ん?」
そうだ、この人はボクの兄。たった一人の大切な家族。
子供の時からずっと一緒で、二人で生きてきた。
「兄さんどうしたの…?」
まだカーテンから洩れてくる光はない。きっと真夜中なんだろう。
それなのにハッキリと目覚めている兄。何かあったのだろうか。
「どうしたのは俺の台詞だ。お前、具合でも悪いんじゃないか。」
全身冷や汗でビッショリだぞ、そう言われて自分の体を触ってみる。
どうやら先程のふわりとした感触は、兄がタオルで体を拭いてくれていたらしい。
首筋や顔はさらりと乾いていたが、胸元から下と額から上、髪の中まで汗を掻いていた。
「本当だ…。」
気付いてしまうとそれはとんでもなく嫌な感じだった。パジャマが汗で肌に張り付いている。
持ち上げた腕だけでなく、体全身が重いような気がする。
「凄いね。こんなに汗って出るもんなんだ。」
「お前な。感心したように言ってる場合か。」
呆れたように言って、兄がタオルをボクの頭にかぶせた。
「さっさと拭いて着替えろよ。そのままだと風邪をひく。」
確かに兄の言う通りだった。まだあまり寒い時期ではないとはいえ、こんなに濡れたままでは。
何より汗で衣服がベッタリと肌に張り付く感触は、気持ちが悪くて仕方ない。
クローゼットから着替えを出してくれた兄に礼を言ってからふと思う。
これは拭くとか着替えるというレベルじゃないや。
「それよりシャワーを浴びてくるよ。その方が早いみたい。」
「それもそうかもな。でも一人で大丈夫か?」
「大丈夫だよ。起こしてごめんね。」
まだ心配そうな兄に笑ってみせてから部屋を出た。
ぬるめのシャワーをさっと浴びて汗だけを流す。
着替えの厚めの綿生地のパジャマに袖を通すと、それだけで気持ちが良くてホッとする。
人心地ついた所で部屋に戻ると、兄が自分のベッドに腰掛けていた。
「兄さん。寝てたら良かったのに。」
ボクの言葉に兄が苦笑する。
「気になって眠れるわけないだろ。」
言いながらベッドサイドから水差しを取って注いでくれる。飲んでみると自分が喉が渇いていた事に気付いた。
あれだけ汗を掻いたのだから、当然といえば当然だけど。
「なあ、アル。お前体調でも悪いんじゃないか。」
不安げに問いかけてくる兄。あの汗じゃそう思われても仕方ないかもしれないな。
「違うよ。今少し体が重いけど、それは汗を掻いた後の脱力感だと思う。体調自体は悪くないから。」
「でもあの汗は尋常じゃなかったぞ。」
どうやら簡単には納得してくれそうにない。心配かけてしまった事は申し訳ないけど、本当に体調は良いんだ。
「…夢を見ていた気がする。」
「夢?どんな悪夢を見れば、あれだけ汗掻くんだよ。」
「それが覚えてないんだ。というより、夢を見たのかも曖昧なんだけど。何となくそんな気がするって感じで。」
それは兄に説明出来るような感覚ではなかったけど。
「でも悪夢ではなかったと思う。嫌な夢とかとは違うよ。」
「覚えてないのにそんな事分からないだろ。」
「分かるよ、ボクの中の事だもの。」
だって目覚めた時、嫌な気持ちはしなかった。悲しいとか苦しいとか、そんな感情はなかったから。
「嫌な夢ではなかったんだよ。」
ふっ…と浮上する意識。
「また…?」
顔を上げ、周りをキョロキョロと見回す。分厚いカーテンがうっすらと光を放っている。
この時期の夜明けは遅い。それでこの明るさという事は、もうすぐ朝がやってくるのだろう。
兄さんが目覚める前で良かった。ホッと胸を撫で下ろす。
いつの頃からか、夜、一人時間を持て余している内に意識が途切れている事に気付いた。
大体時間は30分〜数時間くらい。幸いというか夜の間だけの事だから、まだ兄さんには気付かれていない。
途切れている意識・記憶。これは一体何を意味するのだろう。
ただ意識が回復した時、いつもではないのだけど感情が高ぶっている時がある。
切なかったり悲しかったり、凄く嬉しいような気分だったり。
それはまるでー夢でも見た後のような。
(夢を見るはずないじゃないか。肉体を、脳を持たないくせに)
そう思うのだけど、でもそれなら何故意識が途切れるのか。まるで眠るかのように。
自問自答を繰り返しても出る事のない答え。
ただひとつ分かる事は。もし仮に夢を見ているのだとしても。
(悪い夢ではないんだろう)
兄さんと一緒にいる時のような、あの幸福感に包まれていたから。
「多分、嫌な夢ではないんだ。」
きっと夢の中のボクも、兄さんの側にいるのだろうから。