ボクを呼ぶ声











外から洩れる柔らかな日差しで目が覚める。ふわあと小さく欠伸をした。

冬用の分厚いカーテンは外の光をあまり通さない。だがそれでなくとも今日の日差しは弱い気がした。

曇ってるのかな。そういえば空気がかなり冷たい。もしかして雪でも降ってるのだろうか。

寒いからこそ今いる布団の暖かさが心地よくてぼんやりしていると、隣で寝ていた人がゴソゴソと身動きしだした。

何度か呻り声を上げたあと、少しずつ開いていく金色の瞳。何度も瞬きを繰り返すから少し潤んで見える。

こんな瞬間、ボクは少しドキドキしてしまう。誰も見ることのない兄さんの姿を見ることができる。それは弟の特権。


「おはよう兄さん。今日は寒そうだよ。」

声をかけると、ちょっと寝ぼけた兄さんがアル、と呟いて嬉しそうに笑った。

いつもボクに笑いかけてくれる兄さんだけど、こういう時の兄さんの笑顔はいつもとは違う。

ニカって太陽みたいな笑顔じゃなくて、柔らかい、優しい笑顔。見ているこっちまで優しくなれるような。

ああ、大切だなぁって思う瞬間。ホコホコと心の中から温かくなる。

布団の中で大きく伸びをした兄さんが、サッとベッドから降りた。


「うお、さみいっ!アル、お前まだベッドから出るなよ。下を温めてくるから。」

「うん。あ、兄さん、ちゃんとカーディガン着てよ!」

兄さんは普段パジャマは着ない。寝る時は長袖のTシャツにジャージや綿のパンツを履く。

ボクの言葉に兄さんは、ローボードの上に放ってあった毛糸編みのカーディガンを羽織った。

振り向き様、もう一度寝とけよと念を押して兄さんは部屋から出ていく。

過保護なのは相変わらずで、それも仕方ないかなと思うので今は兄さんの好きにさせている。

何しろ取り戻したボクの体は痩せ細っていて、一時は本当に大変だったのだ。

異世界というか真理の空間は無菌状態だったのか、そこに5年間も囚われていた体は免疫機能が殆ど働いていなかった。

食物を直接摂取していなかった胃は極端に小さくなり、医者はどうしてこんな状態になったのかと不思議がる。

結局3ヶ月は無菌室で過ごす事になったし、その後も半年入院してリハビリに更に5ヶ月かかった。

ようやく落ち着いて空気の良いリゼンブールに静養という形で戻れたのは、体を取り戻してから1年と2ヶ月経ってからだ。

リゼンブールに新しい家を建て、新しい生活を送るようになってからも兄さんの過保護っぷりは変わらない。

もうちょっとしてここでの暮らしに慣れて安定したら、兄さんも落ち着くはずだ。

沢山の心配と苦労をかけた兄さんがやりたいように。安心できるように。それが今のボクの勤めだと思う。

それに…、何だかんだで兄さんが構ってくれるのは嬉しい。ボクも大概兄さんに異存してるなと我ながら呆れるけど。

もう少しの間は許して欲しい。ずっとこんな暮らしを切望してきたんだから。








「アールー!」

バタンと大きな音を立てて兄さんが部屋に入ってきた。その顔が妙に嬉しそうで、ボクはビックリしてしまう。

どうかしたの?と身を起こしながら訊ねるボクに兄さんが近寄る。途中でボクのカーディガンを拾う事も忘れない。

ボクの肩にカーディガンを羽織らせてくれる。少し冷えてるけどふわりとした感触が気持ちいい。


「雪が積もってるぞ。外は真っ白だ。」

「え、ほんと?」

兄さんの言葉にボクは慌てて窓へと急いだ。分厚いカーテンを除け窓硝子の水滴を拭うと、その向こうは真っ白だった。


「凄い!今年一番の大雪だね!」

つい先日、今年は雪があまり降らないねとウィンリィ達と話したばかりだった。

パラパラと一時的な雪ばかりで積もることはなかったのに。いきなりこれだ。

外に出たくて兄さんを見上げると、苦笑しながら頭を撫でられた。


「分かってるよ、外に行きたいんだろ?だけどその前に飯を食って、体を温めてからな。」

「うん!」

お見通しの兄に、ちょっと今のは子供っぽかったかなぁと思ったが。

でも部屋に駆け込んで来た時の兄だって嬉しそうだったのだから、きっとおあいこだ。

ボクらは兄さんが温めておいてくれている居間へと、朝食を取りに向かった。





「うわ…あ。」

もこもこに着ぶくれながら玄関を出る。ジャンパーの上にコートという重装備は、兄さんがこれでもかと着せた結果だ。

多少動きにくい感じもあったけど、今年一番の冷え込みなのは確かだったから大人しく着ることにした。

セントラルとは違い、一軒一軒が離れているリゼンブール。ウィンリィの家だって隣とはいえ100mは離れてる。

小高い丘、所々に固まって点在する木々、それらが全部真っ白に雪化粧されていた。一面の銀世界だ。

一歩踏み出してみるとサクッと音をたてて雪に足がのめり込む。一掬いして握ると、キュッと小さく固まった。


そうだ、雪ってこんな感触だったんだ。白くて冷たくて、握り締めてると掌で溶けていく。

小さい頃学校のみんなで雪合戦したっけ。中にインクを詰めた風船を仕込んで、あとで物凄く怒られた。

真っ白な雪が美味しそうに見えて兄さんと食べた。母さんにお腹を壊すわよって言われて、翌日二人して本当にお腹を壊したり。

そんな些細で懐かしい記憶から、この体はこんなに遠くなっていたんだ。


「アル、大丈夫か。貧血起こしてないよな?」

気遣うような声。見てみると心配そうにボクを覗き込む兄さんの姿。

ボクの左腕を支えるように掴む兄さんに笑ってみせる。


「大丈夫だよ。あんまり凄い景色なんで呆気にとられちゃった。」

こんな真っ白なの見たのは久しぶりだね、と言おうとしてボクは奇妙な違和感を感じる。

違う。もっと白い世界を随分長い間ボクは見ていた。真っ白で何もない空間。誰もいない。いるのはボク一人だ。

あれはー。


「アルっ!!」

その時大声でボクを呼ぶ声がして、思わずそちらを見上げた。


「アル、大丈夫か!?」
『アル!!来い!!早く!!』

必死にボクを呼ぶ声。伸ばされた手とその表情が重なり合う。

埋もれていた記憶が甦る。ボク自身が見たわけではない、だけど紛れもなくボク自身の記憶。

この脳に蓄積された、もう一人のボクが見ていた世界。ああ、そうだったんだ。この記憶はー。


「心配しないで。ちょっと思い出しただけだから。」

「…?思い出したって、何を…?」

不思議そうな兄に、少しだけくらりとする頭を押さえて笑ってみせた。


「うん…。この体が真理世界にいた間、見てきた記憶って言えば良いのかな。」

誰もいない一人きりの空間で、ただずっと扉を見ていた。果てしなく広がるのは真っ白な世界。

ボクの魂は血印によって鎧に繋がれ、5年の歳月を兄さんと共に過ごした。

見て聞いて経験した知識は、精神に寄って繋がっていた体へ流れ、そのまま脳へと蓄積された。

だけどその体の中にいた真理だって、何も見ていなかったわけじゃない。今ボクが思いだしたのはその記憶だ。


「じゃあ何か。お前の中にはこの5年間の記憶が2人分あるってことか?」

それってキツいんじゃないかと、唖然としたように兄さんが言う。それにボクは大丈夫だよと笑ってみせた。


「真理の記憶はただ真っ白な空間にいる、ただそれだけなんだけどね。ひとつだけ違う記憶があってさ。
 兄さんがボクにー、真理に必死に手を伸ばそうとしてるんだ。自分の扉に連れて行かれそうになりながら。」

あれはきっと兄さんがグラトニーに飲まれた時だ。擬似の扉に飲み込まれ、正しい扉を開いて帰還した。


「あの時もボクを呼んでくれたね。」

肩が抜けそうなくらいに腕を伸ばして。必死に掴もうとしてくれた。

兄さんが呆気にとられたような顔になる。真理が見ていた記憶だなんて考えてもみなかったし、驚いたのだろう。

だがすぐに理解した兄さんは、今度は少し困惑した顔になった。


「オレさ、あの時悔しかったんだ。」

顔をポリポリと掻きながら、兄さんが気まずそうに話す。


「『君はボクの魂じゃない』って言われて、お前を連れ戻す事が出来なかった。それが悔しくってさ。
 お前と同じ魂だったらって、そんなこと考えた。精神が混じり合ったように魂もそうなら、離れなくてすんだのにって。」

馬鹿だよな、と兄さんは自嘲したみたいに笑った。自分の言葉を恥じるように。


「でもこうしてお前が戻ってきて、リハビリとか辛かったと思うけど頑張って、普通に暮らせるようになって。
 飯を美味そうに食べたり、楽しそうに笑ってくれたり、触ると温かかったり。
 そういうのって、オレ達が別々の人間だから解る事だろ。同じ人間だったら、感動も喜びもないだろうから。」

だから今は別々で良かったと思う。そう言う兄をボクは言葉もなく見ていた。


「…ちょっと現金だけどな。これが本音だからしかたねー。」

照れくさそうに笑う兄さんに、ボクは無言で首を振る。

どうしよう目頭が熱い。泣いてしまいそうだ。

どうしてこんなに大切にしてくれるんだろう。どうしてこんなに大切だって思うんだろう。


「ボクの気持ちも同じだよ。あの時、あんなに呼んでくれたのに、兄さんの手を取れなかった。
 同じ魂だったら一緒にいられたのにって思ったよ。本当は着いて行きたかったんだ。」

その時ボクの体にいたのは真理だけど、あれはボクの中の真理だ。精神すら繋がったもう一人のボク。


「だけどこうして戻ってみると、やっぱり二人で良かったなって思う。兄さんの温もりが分かるから。」

こんな風に。言葉と共に、ボクは兄さんに抱き付いた。





何も無い空間。誰もいない世界。

そこにただ一度だけ、鮮やかな光を放ちながら貴方はやってきた。

迎えに来ると、待っていろと貴方が言ったから。待つことは少しも苦痛ではなかった。

あの時呼ばれた名前はいつまでもボクの耳に残り、ボクの心を熱くしてくれた。

もう一度あの声を聞きたくて、あの声に名前を呼んで欲しくて。

取れなかった手を取り、握り締めてみたかった。

それだけが真理ーボクの願い。それがボクを支えていた。



この耳は貴方の声を聞くために。この目は貴方の姿を見るために。この口は貴方の名前を呼ぶために。

手は抱き締めるため。足は追い掛けるため、やがて同じ速度で並んで歩いていくために。

ボクが生きるということは、貴方の存在を感じているということ。

その為にボクはこの世界に還ってきた。



胸が熱くなる。ここに、兄さんの元にこうして戻れた。その奇跡が嬉しかった。兄さんが叶えてくれた奇跡。

右腕を犠牲にボクを繋ぎ止めてくれた。ずっと諦めないでいてくれた。自分の事よりもいつだってボクを優先して。

生身の体で旅をすることは、あの時のボクが考えるより、今のボクが思うよりも大変だったはずなのに。


「ありがとう、兄さん。」

全ての気持ちを込めて言葉にした。だから今日はこんな風に、兄さんの側で甘えることを許して。

今はもう少しだけこうしていたいんだ。


何も言わずにボクの背を撫で続けるその優しい感触に、ボクは一度だけ、堪えきれなかった涙を零した。
























こんなにラブラブしてるのに、実はまだできてなかったりして。

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