優しくしないで
遠くから聞こえてくる鳥の鳴き声が優しく耳に届く。
淡いブルーのカーテンは、少しだけ冷たい感じがするけど清潔感があって気に入っていた。
もう見慣れた光景。馴染んだ空気。
そうだ、ここは日に日に代わっていた宿じゃない。旅の途中でもない。
ボクらの…、兄さんとボクの家なんだ。
徐々に覚醒していく意識。ほぉっとひとつ息を吐いた。
目を擦ろうとして自分の手が視界に入る。その痩せ細った腕に苦笑した。
二ヶ月前に取り戻したボクの体は、ボクが想像した以上に痩せていた。
それも当たり前だ。いくら兄さんが頑張って食べてくれようが、二人分の成長を担うなんて無理がありすぎる。
よく兄さんの体がもったものだと思ったものだ。
それなのに兄さんは未だに、オレがもっとたくさん食べてたらとボクに謝る事がある。
何度それは違うと言っても聞いてくれない。頑固なのは相変わらずだ。
体を起こそうとして、クッと毛布が引っ張られて顔を向ける。
するとボクの腰の辺りに突っ伏して、完全に寝入ってしまっている兄の姿が見えた。
まったくもうこの人は…。
兄とボクの寝室は同じ、つまりはこの部屋だ。ついでに言うとベッドも隣同士。
それなのに兄さんは時々、こんな風に自分のベッドではない所で眠ってしまう。
ようするに寝ているボクの様子を見たりしているうちに、そのまま寝てしまっているわけだ。
どうやら兄は、ボクがあまりにぐっすりと眠りすぎて、それがかえって心配になってしまうらしい。
このまま目覚めなかったらどうしよう、と。
兄自身馬鹿な考えだと思っていても、不安は拭えない。それは今までの事があるから仕方ないのかもしれない。
また悪い事に真理に囚われていた間眠っていなかったらしいボクの体は、その反動からか眠ってばかりだった。
深い眠りの時なんて、周りが多少うるさくてもピクリとも動かないらしい。
だから恐くなるんだとぽつりと兄さんが言った事がある。
全てを取り戻してから二ヶ月経った。その当初はろくに一人では起き上がる事も出来ない程衰弱していた体。
今は何とか自分で食事を取れるくらいには回復した。その間世話をしてくれたのは兄さんだ。
ずっと傍にいてくれた。献身的と言って良い程に。
面倒をかけてごめんと謝るボクに、ちょっと怒って「謝るな。オレがやりたくてやってるんだから」と言った兄。
眠る兄の髪にそっと手を伸ばしてみる。カーテン越しの弱々しい光の中でぼんやりと輝いていた。
その絹糸のような髪に触れた瞬間、ボクの中に言葉に出来ない感情が渦巻く。
体を取り戻した時、一番最初に飛び込んできたのは心配そうに不安そうにボクを覗き込む兄さんの顔。
もつれながら必死に出した声に、一気に破顔して堪えきれず涙が溢れだした金色の瞳。
起きあがれなかったボクにコートをかけて、抱き締めてくれたその腕の力強さ。
何年も知らずに過ごしてきた人の温もり。感じたいと思っていた兄さんの温かさ。
色んな事が甦ってきて、嬉しいのに切なくて涙が出そうになる。
ねえ、どうして。
ボクはただ兄さんの弟として生まれた、本当ならただそれだけの存在で。
血が繋がっているというだけの人間なのに。
仲が悪い兄弟だってたくさんいるよ。弟を殺してしまう兄だって、神話の時代から存在する。
ボクがいたせいできっとたくさん苦しんだ。たくさん傷ついたはずだ。
それなのにどうして。そんなにもボクを大切にしてくれるの?
いつだって自分の痛みはそっちのけで、ボクを優先してくれた。
母さんよりももっと深い愛情にボクは包まれていた。
体を取り戻してから兄さんが触れてくる度、ボクは震えそうになる。
伝わってくる熱に、思いに。愛されていると感じる度に。震えそうになる体を必死に押さえる。
あまりにも兄さんが優しいから、大切にしてくれるから。
ボクはそれが恐くなるんだ。
いつかはボクらはそれぞれの道を往く。大人になる時がくる。
その時ボクは、兄さんの手を離す事が出来るのだろうか。
あまりにも兄さんが惜しみない愛情を注いでくれるから。
ボクはそれを錯覚してしまいそうになるんだ。
家族として、弟として愛されているのに。もっと別の意味で愛されているんじゃないかって。
ねえ、兄さん。あまりボクに優しくしないで。ボクを見て嬉しそうに微笑まないで。
ボクはこのままだと間違ってしまう。取り返しのつかない所まで堕ちてしまう。
何も感じない体だった時には気付かなかった想いは、生身の体に戻った途端様々な感情と共に動き出した。
痩せ細ってしまった身にはおさまりきらない兄への思慕は、今にも溢れ出さんばかりに育ち続けている。
もう、戻れない所まで来ているような。そんな予感が胸を過ぎる。
このままじゃボクはー。
きっと貴方を一生縛り付けてしまうんだろう。
それがボクは、とても恐い。