それがボクに出来ること

















微かに聞こえてくる苦しげな声。ボクは読んでいた本から目線を上げた。

時間は真夜中。草木だって眠りにつくこんな時間、聞こえてくるのは兄さんの寝息だけだった。

それが乱れてきたかと思うと、僅かに呻き声になっている。もしかして…。



ボクは物音をたてないように、細心の注意を払ってベッドに眠る兄の傍に近づいた。

何しろボクは鋼鉄製の鎧だ。気を付けていても動こうとすると音がしてしまう。

兄さんはこの音に慣れているので、ちょっとくらいは大丈夫だと思うけど。

でもこの状態の兄さんが普段と同じとも思えない。



兄さんは時々こんな風に魘される。多分夢を見ているんだと思う。

それもきっと見たくもないような悪夢を。


「う…っ。ぁ…。」

(兄さん!)

思わず大声を出して兄を呼んでしまいそうになって慌てた。そんな事をしたら起こしてしまう。

夢を見ているという事はレム睡眠の最中。浅い眠りという事だ。


兄は苦しそうに眉を顰めて。右手でパジャマ代わりのタンクトップを握り締めている。

口元が引き結ばれているのは奥歯を噛み締めているからかもしれない。

こんな兄を見ていると、揺さぶり起こしたくなるけど。ボクはそうしない。

その代わり眠る兄の横に跪いて、じっと傍にいることにしている。

何も出来ない。兄を苦しみから解放することも。その重荷を取り去ることも。



悪夢の内容は途切れ途切れの魘され声を聞いていて分かった。

兄さんはあの錬成の時の事を夢に見ているんだ。

母さんに謝っていた事があった。

ボクに謝り続けた夜もあった。鎧の体にしてしまったという罪悪感からなのだろう。

…そして必死に伸ばされる手。ボクの名を何度も呼びながら。

それを聞く度、ボクは堪らない気持ちになる。


どうして兄さんばかりこうして苦しむんだろう。人体錬成をしたという罪はボクだって同罪だ。

それなのに兄さんはこうして悪夢を見続けて、ボクはそれを見守る事しか出来ない。

生身の体ならボクもきっと同じ夢を見て、苦しむ兄さんの辛さや痛みを一緒に感じ取る事だって出来たのに。

今のボクには夢を見るという行為、それ自体が酷く遠い。


ボクに出来るのはこうして夜の間も研究を続けて、少しでも目的に近づく努力をする事と。

夢の中でまで自分を責め続ける兄の傍にいる事だけだ。


(兄さん、ボクはここにいるから。ずっと傍にいるから。)

この体は確かに不便な事、不自由な事がたくさんあって。辛いと思うこともあるけど。

それでもボクは、兄さんの側にいられる事を嬉しいと思うんだ。

だからそんなに自分を責めないで。辛いことばかりじゃないから。

こうして兄さんと一緒にいられる事は、ボクにとって幸せな事なんだ。


兄さんが悪夢を見続けている事、それにボクが気付いている事を知られるわけにはいかないから。

目が覚めた兄さんには言えないけれど。どうか届いて、この気持ちだけでも。

この体でも、貴方の傍に居続けたいと。そう思う気持ちは本当だから。


誰か、誰でもいい。神様なんて信じてないけど、この願いを叶えてくれるなら。神でも悪魔でもいい。

それが駄目ならー。母さん、どうか貴方の愛し子を守ってください。

ボク達のした事は確かに間違いで、どんな罰を受けても仕方なかったけど。

でも兄さんは充分に罰を受けたはずでしょう?これ以上苦しむ事なんてないはずなんだ。

それでもまだ足りないというなら、それは全てボクが受けるから。

せめて悪夢に魘される事のない、静かな眠りを兄に許して下さい。



望みは高く険しく、いつになったら辿り着けるのか分からない。

状況は複雑になっていて、ボクらが一歩踏み出す度に誰かが傷ついているのではないかと恐くなる。

それでも歩みを止める訳にはいかないんだ。


誰も傷つけずにすませようなんて、体を取り戻したいという願い以上に困難な事かもしれなくて。

それが出来ると信じる事は、この上ない程傲慢な事かもしれない。

それでもボクらは願いを捨てるわけにはいかないから。


終わりの見えない旅。いつまで続くか先の見えない道。

だけどボクにとってそれは、苦しいだけのものではない。

兄さんがいてくれるなら。どんな事だって頑張れる。きっと乗り越えていける。


だから今度はボクが兄さんの支えになれるようになりたい。抱えるものを少しでも引き受けられたらと。

心からそう願うよ。



毛布から出ていた兄の左手をそっと握る。

こうしていても伝わらない温もり。鞣し皮の手に体温はなく、兄の手の熱さもわからない。

でもボクが傍にいる事だけでも伝わって欲しい。



そう思っていたからなのか、単にボクの願望が見せた幻だったのか。


眠り続ける兄の表情が、ほんの少しだけど優しくなった気がした。

























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