それでも貴方は今日を生きる 後編
「良い天気だなぁ…。」
窓から見える澄み切った空に目を細める。
外に出たら気持ちが良いだろうな。今日は気分も良いし、午後から少し中庭を散歩してみようか。
そんな事を考えながらチラリと横を見ると、手をつけられずにそのままになっていた朝食のトレーが目に入る。
最近は食欲がどうしても湧かなくて、申し訳ないけど残してばかりだ。
そのトレーの右端に乗った物を毎朝見る度に、ここにいない人の事を思い出す。あの人が大嫌いだったミルク。
兄さんは元気にしているのだろうか。暫くはウィンリィが着いていてくれるから心配はいらないだろうけど。
まだ離れて少ししか経っていないのに、すでに会いたくて仕方なかった。
あれ程覚悟したはずなのに、本当は今すぐにかえりたい。
今の兄さんにはボクの記憶はないけれど、それでも良い、ひと目会いたい。
ボクが治ることのない病気だと判った時の兄さんの絶望は深かった。
泣きたいのを必死に耐えている兄の姿を見るのは辛かった。ボクは兄さんを苦しめてばかりだ。
だから病気が進行してきて、余命幾ばくもないと告げられた時決心出来たんだ。
兄の中からボクを消してしまおうと。
それを考えるのも実行するのも、ボクにとってとても恐ろしい事だった。
だって兄さんに忘れられてしまうなんて、2度と名前も呼んでもらえないなんて、想像するだけでも恐い。
それでもそれ以上に、ボクの為にまた禁忌を犯すかも知れない兄が恐かった。
病気になった事を誰にも知られたくないと言って、兄と共に北部の街に移り住んだ。
本当はリゼンブールやセントラルでは、ボクらを知っている人が多いから都合が悪かったからだけど。
記憶を消す兄にボクの事を尋ねられては困るから。それから少しずつ準備を進めていった。
セントラルのマスタング将軍とリザさんには事情を説明したら色々と協力してくれた。
この病院も二人からの紹介だった。色々と親切にしてもらっている。
こちらに来てからも何度か見舞いに来てくれて。無謀な事をしているボクを責めもせずに黙っていてくれる。
それがとても有り難かった。
ボクの記憶を消した後、一部の真実と偽の記憶を埋め込んで、ボクは眠る兄をウィンリィに託して北部の街を離れた。
記憶の錬成なんてハッキリ言ってその場しのぎだ。きっと時間と共に記憶は戻ってしまう。
何しろ相手はあの鋼の錬金術師、エドワード・エルリック。生半可な相手ではない。
でもその一時しのぎが必要なんだ。
魂の錬成、それはあの時持っていかれた直後だったからこそ出来た事だ。
死者は甦らないというのが兄さんの出した結論なら、死んで暫く経った人間の魂も取り戻せないだろう。
だけど下手をすると兄さんは、そんな事すらどうにかしようと手段を考えかねない。
ボクが死ぬまでの間に兄さんに人体錬成の事を考えないようにするには、ボクを忘れさせるしかなかった。
これが最良の手段とも思えないけど、それでもそれに縋るしかなかった。
こうするしか無かったんだと思うのだけど。それでも理性と心は別物で。
せっかく体を取り戻して、兄の温もりを感じられるようになったのに、それを自分から手放して。
…どうしてボクはこんな所に一人でいるんだろう。
ただ兄さんの側にいられたら、それだけで良かったのに。それ以上を望んだりはしなかったのに。
それともそれこそが身不相応の願いだったのだろうか。あの光り輝く人の側に有り続けたいなんて。
考えていると泣きそうになるから考えたくないのに。
それでもこうして一人でいると、思い出すのは兄さんの事ばかり。そんな自分に苦笑する。
自分で思っていたよりも、ボクは兄さんが好きだったんだ。離れてみるとそれがよくわかった。
そんな事を考えていたら、小さくドアをノックする音が聞こえた。
検温の時間には早いな、と思いながら返事をするとゆっくりとドアが開く。
そこに見えた人物の姿に、ボクは息を飲んだ。
大きく目を見開き黙るしか出来ないボクに、兄も無言で近づいてくる。
逃げ出したいのに、体は固まってしまったかのように指一本動かせない。
「…何か言えよ。」
そう言われても頭の中がパニック状態だ。言いたい事聞きたい事はたくさんあるのだけど。
その時兄の腕が振り上げられて、ボクは咄嗟に殴られると覚悟し目を瞑った。
だけどいつまで経っても痛みは襲ってこない。そろそろと目を開けるとボクを見つめる兄さんの顔があった。
見たこともないような切なそうな、悔しそうな苦しそうな顔。
ボクを殴る形のまま止まっていた手は、そのままボクを抱き締める腕に変わった。
息も止まりそうな程強く抱き締められて、戸惑うしかないボクの耳元で兄の声が聞こえる。
「怒ってるんだからな。」
その声は泣いているんじゃないかと思うほど、本当にあの兄の声かと思うほどに弱かった。
「俺は本当に怒ってるんだからな。…勝手な事しやがって。」
そう言いながらも抱き締める腕は、とても強いのに優しくて。
「ごめん、兄さん。ごめんなさい。」
望んでいた兄の温もりに溶かされて、ボクはようやく兄に謝る事が出来た。
「…いや、俺も悪かった。お前をそこまで追い詰めたのは俺だ。」
思い掛けない言葉に、ボクは兄の腕の中からその顔を見上げた。
「お前が望むのなら俺は二度と人体錬成はしない。それがお前の体だろうと絶対にだ。」
正直驚いた。兄からこんな事を言い出すなんて。
それでも兄の表情は真摯で。その場限りの誤魔化しではない事はハッキリと解った。
「どんなに悲しくても苦しくても、それがお前の願いなら俺は叶える。耐えてみせるから。」
少しだけ震える手が、ボクの頬を優しく撫でてくれる。伝わる温もりがとても愛しい。
「だからな、アル。俺を傍にいさせてくれ。お前を一人にしたくない。お前の最後に傍にいるのは俺でありたいんだ。」
兄の言葉に涙が一気に溢れてくるのがわかった。それはとっくに諦めていたはずの、本当はボクが望んでいた事だった。
「ボクの傍にいたら、兄さんは苦しむ事になるよ。本当にそれでイイの?」
ボクの問いかけに、兄は無言で頷いた。そのままボクの肩口に額を乗せて、抱き締める腕の力をゆったりと抜いていく。
死が免れないものなら、それを傍にいて見守り続けるというのは、きっととても辛い事だと思う。
ましてや兄さんは、近しい者に弱い人だから。
だからこそ誰よりも、失いたくないという気持ちが強いんだ。それなのに、それを耐えてボクの傍にいてくれようとしている。
辛い思いをさせるだろう、たくさん悲しませてしまうだろう。それでも。
ごめん兄さん。貴方の優しさに甘えてしまうボクを許して。
ほんの少しでもいい、兄さんがボクの傍にいる事を望んでくれるなら。
ボクからはもうその手を離せないんだ。
「…傍にいて、ずっと触れていて。それを望んでもいいなら他は何もいらない。兄さんだけを感じていたい。」
ボクの体から温もりが消えるその日まで
それから3ヶ月後、リゼンブールにて。
母の横に立てられた新しい墓標の前に、いつまでも佇むエドワードの姿があった。
彼の表情にかつての焦燥は見られない。ただその顔に浮かぶのは寂しげな、そして愛しい者を見る眼差しだけだった。
全てを受け入れ、最後まで見守った大切な弟を見ていた時と同じ眼差しを墓標に捧げるエドワードの頬を、
リゼンブールの穏やかな風が撫でていった。
サイト1周年企画その八。リクエストはサクラさん
リク内容は
兄
×弟。2人は元に戻っている。アルが死んでしまう。というシリアス系
もしくはパロディな学園物語
との事でしたので、お好きだと仰っていた死ネタの方を書かせて頂きました。
死ネタは以前兄弟では「永久の誓い」、兄妹では「輪廻」で書いているので
それ以外でどういう風に書こうか悩みました。
書いている内にどんどん長くなって分割です。話が話だけに短くはならないですね;
サクラさん、ご希望にそえていますか甚だ疑問ですがお受け取り下さい!