傍にいるから
「ぶえっくしっ!!」
ガタコトと揺れる列車の中、派手に響き渡るくしゃみの音。
ズビズビと鼻を鳴らす兄の様子に、アルフォンスは心配そうに声をかけた。
「兄さん、もしかして風邪?」
「ん?いや、ちょっと鼻がムズムズしただけだ。大したことねーよ。」
「そんな言って、鼻が垂れそうだよ。面倒がらずにちゃんとティッシュで鼻をかんでよ。」
放っておくとそのままにするか、服の袖で鼻を拭きそうな兄にトランクから紙を取り出して渡す。
「おお、サンキュ。」
大きな音をたてて鼻をかむ兄を見ながら、アルフォンスは考えた。
きのうまでいた街は割と温暖な所だったけど、今日は朝から列車に乗りかなり北に来ている。
途中で乗り込んできた人達の服装が、だいぶ分厚くなってきている事には気付いていた。
どうやらこの辺りはもうかなり寒いのかもしれない。
そして改めて兄の服装を見る。いつもの黒の上下に赤いコート。
そろそろ冬の服を揃えようと言ったのに、邪魔になるのが嫌だと兄はギリギリ必要になるまで買い足さない。
ボクが持つからと言えば逆効果だ。だからあまり強くは言わなかったのが裏目に出たかもしれない。
まだ冷え込む時期ではないからと考えていたけど、土地によっては違うのだろうし。
「着いたらまず服を買おうよ。ちょっとその格好じゃ出歩くのは無理そう。」
弟の言葉に、エドワードはそうだな、とさして気のない様子で答えた。
だが即答した時点で、やはり兄も寒いと思っているのだろうとアルフォンスは気付く。
だけどその時点ですでに手遅れだった事に兄弟が気付いたのは、目的の街に着いて宿を取った後だった。
目的地に到着する少し前から、兄は気怠そうだった。
服を買いに行くのは自分でも出来るから、とにかく宿を取って体を温めた方が良い。
そう判断したのは正しかったようだ。平気そうに装いながら、兄は次第に咳をし始めた。
人の良さそうな宿のおかみさんが、これでも飲んで体を温めなとハーブティーを持ってきてくれた。
蜂蜜も入っているというそれのおかげか咳は少し軽くなったけど、今度は熱が上がってきたみたいで。
夕方には起きあがれないほど、本格的な風邪になってしまった。
往診に来てくれた先生にお礼を言って玄関まで見送る。
部屋に戻ると赤い顔をして眠る兄の姿。吐く息は荒く浅い。
その時ふいに叩かれた扉に返事をすると、おかみさんが部屋に入ってきた。
「診察終わるの早かったね。具合はどうだい?」
「やっぱり風邪だって言われました。水分と栄養をとって休ませてやれって。
39度以上熱が上がった時の為熱冷ましはもらいましたけど、今は汗を掻いた方良いみたい。」
「まあ栄養って言っても今は食べられないだろうけどねぇ。
何時になっても良いから兄さんが起きたら呼びなよ。スープを用意しとくからね。」
「ありがとうございます。最初からご厄介になりっぱなしですみません。」
お辞儀をして謝ると、おかみさんはボクの腰辺りを軽く叩いた。
「なに子供が遠慮してるんだい。困った時にはお互い様さ。」
気にするんじゃないよと笑いながら、おかみさんは部屋を出ていった。
良い宿に当たって良かったと思う。来た時にはすでに兄さんの様態は風邪と分かる状態だった。
旅先での病人なんて泊める事を嫌がる宿だって多いのに、快く受け入れてくれるだけでも有り難い。
おまけに先生も呼んでくれて、こうして気にかけてくれるなんて。
何か後でお礼をしたいなと考えながら、眠る兄のベッド脇の椅子を腰掛けた。
『旅先で疲れも溜まってたんだろう。若いし体力もありそうだから、ゆっくり養生すればすぐ良くなるよ。』
帰り際に言っていた医者の言葉。確かにその通りなんだろう。
兄みたいに体力のある人間がこんなに急に悪くなるなんて、随分疲れてたんだと思う。
それを口や態度に出したりしない人だって知ってたから、ボクも気を付けてたつもりだったけど。
「本当に馬鹿なんだから。」
どうしてそんなに無茶をするの、だなんて。そんなの聞かなくたって分かってる。
自分の事よりもボクの事。1秒でも早くボクの体を取り戻す為。それしか考えてないんだ。
そうする事でどれほど自分の体に無茶をさせても、それを苦痛とも思ってないんだろう。
旅を続ける事、それ自体が14歳の体にどれほどの負担を強いているのか。ボクは想像する事しかできない。
どれほど無茶をされても何の苦痛も感じず着いていける、疲れる事を知らない鋼の体を持つボクには。
ー想像する事しかできないのに。
だからボクはもっとちゃんと見てなくちゃいけなかったんだ。兄さんの細かな変化を。
出るはずもない溜息をつきたい気持ちで立ち上がる。取り出したチョークで床に簡単な錬成陣。
何度か使う事になるだろうけど、必要なくなったら消すのを忘れないようにしなくちゃ。
それからバスルームへ行き洗面器に水を入れる。それを錬成陣の上に乗せて手を合わせた。
物質を液体から固体へと変える単純な錬成。洗面器に張った氷を砕いて、それにまた水を入れる。
カラカラと音を立てながら水に浮かぶ透明な氷。見るからに冷たそうなそれにタオルを浸す。
生身の手ならしもやけが出来そうだなと考えながら、軽く絞り兄の首筋にあてた。
それからちょっと考えてもう一枚タオルを冷やし、それを今度は額に乗せてみる。
熱を下げるなら頸動脈を冷やした方が良いけど、熱がある時は額を冷やす方が気持ちいいはずだ。
ある程度上がりきった所で熱が下がってくれると良いな。それ以上上がるようなら拗らせたという事になる。
アルフォンスは椅子に座り直すと、赤い顔をして眠る兄を眺めた。
ふと何かに気付いたように、アルフォンスは顔を上げた。
カーテンを照らしていた日の光はすでになく真っ暗になっている。もうかなり遅い時間になってしまったようだ。
兄は一度も目を覚まさず眠り続けている。そろそろ一度起こして水分を取らせたい。
何度か口元を湿らせたけど、それじゃ足りていないだろう。
「…ぅ…か……よ…。」
その時聞こえた小さな声。さっきひっかかったのはこれだ。
「兄さん?」
声をかけても返事はない。ただ先程までとは様子が違う。密かに歪んだ眉、苦しそうな表情。
咄嗟に熱が上がってきたのだろうかと考えたアルフォンスだったが、すぐにそうではない事に気付いた。
「…はっ、…とうと…だっ、ァ…っ!」
途切れ途切れの小さな声。きっと他の誰でも聞き取る事は出来ないだろう、微かな呻き。
だがアルフォンスにはその兄の苦しげな声が何と言っていたか、誰を呼んでいたのか分かった。
『返せよ!そいつはオレの弟なんだ!アル…っ!』
…雷に打たれたかのような衝撃。必死にボクを呼ぶ兄の声。
それはあの晩に左脚と右腕を失った時から時々あった事、兄は度々悪夢に魘されるようになった。
最初は驚きすぐに起こしていたボクだったが、その内気付かないふりをしなくてはいけなかった。
起こした後、兄は傷ついたような目をしていたから。きっとボクにはそんな姿見られたくなかったんだろう。
その時からボクは出来るだけ夜の間は外に散歩に出たり、食堂やロビーなんかの別室で本を読んだりする事も多かった。
一人きりの長い夜を過ごすには、その方が都合が良かったんだ。気を紛らわすことができたから。
だからこんな風に魘される兄を見るのは久しぶりでー。
「…ごめんね。聞かれたくないだろうけど、今夜だけは離れられないから。」
兄さん、ボクはここにいるよ。ボクの魂は兄さんが引き戻してくれたから、こうしてここにいられる。だから。
「寝てる時まで、そんなに苦しまないでよ…。」
口には出さないけど、起きてる時だっていつも自分を責めてるくせに。
温まってしまっているはずのタオルを取り、氷水で冷やす。汗で額に張り付いている髪をそっとかきあげてみた。
二度ほど髪を梳いた所で手が止まった。
この鎧は成人男性用だからひとつひとつのパーツが大きい。兄の顔はその手の中にすっぽりと収まってしまう。
まだ世間では子供として扱われる年で、国家錬金術師になって旅を続けて。ー辛くないはずがないのに。
考えに耽りそうになって慌ててタオルを絞って兄の額に乗せた。
熱はどうなんだろう。さっきよりは顔色の赤みが薄れてきた気がするんだけど。
体温計を脇に当て軽く腕を押さえて測ってみた。良かった、随分下がってきてる。
この調子なら熱冷ましは必要ないかもしれない。汗も充分出てるし。
それならやっぱり水分を取らせたいなと思ったけど、今は止めておこうと思った。
夢を見た直後に起こしたら、気まずい思いをさせるかもしれないし。もう少ししてからにしよう。
起きてくれたらまず水を飲ませて、汗に濡れた体を拭いて着替えさせて。体力の為に出来れば少しでも食事をして欲しいな。
おかみさん、スープを用意してくれるって言ってたけど、あんまり遅い時間になるのも申し訳ないし。
トランクから着替えとタオルを取り出す。振り返ると窓から星がひとつ見えて、こういう時はこの体も便利だなって思った。
だってこのまま一晩中看病してもボクは疲れない。眠くもならない。同じ部屋にいても風邪が移る事はない。
熱に苦しむ兄さんの額に乗せるタオルを、常に氷水で冷たくしてあげられる。
それくらいの事しかボクに出来ることはないけど。それでもボクはここにいるんだ。兄さんの側に、こうして一緒にいる。
悪いことばかりじゃないよ。辛いことだけじゃない。だって兄さんと一緒だもの。ボクは不幸じゃない。
だから兄さん、一人で何もかも背負おうとしないで。その重い荷物の半分はボクが背負うべきものなんだから。
危うい均衡を保ちながら旅を続けているボク達。話し合わなくてはいけない大切な事を、口にできずに飲み込んでいる。
いつかちゃんと向き合わなくちゃいけない。その事から目を逸らさずに受け止められる、そんな日がきっと来るはずだから。
兄さんとボクが前を向いて歩く為に。望みを叶える為に。その日までどうかせめて、嫌な夢なんて見ないで眠って欲しいと願う。
眠り続ける兄の呼吸が少し落ち着いたのを見て、ボクはまた髪をそっと撫でた。
この鞣し皮の手は固いけど、ほんの少しでいい。幼い頃撫でてくれた母さんの手の様に、兄さんを癒せればいいのにと思いながら。