お菓子よりも甘いもの
シャカシャカシャカ。
ガラス製のボールの中で、白いクリームがふわりと泡立っていく。
あともうちょっとかな。その甘い匂いを嗅ぎながら、アルフォンスは泡立て器を握り直した。
長い間物を食べるという事が出来なかったアルフォンスにとって、料理は作る事も食べる事も大いなる喜びだ。
取り戻した当初はろくに食べ物を受け付けなかった胃も、長く根気よく続けたリハビリの甲斐もあって、今では普通に食べる事が出来る。
それはアルフォンスにとっても、彼の兄にとっても。そして彼らを見守ってきた周囲の人々にとっても喜び以外の何物でもない。
退院はしたといってもまだ毎日リハビリに通う身。仕事も学校も行く事は出来ない。
焦っても仕方ない事は彼にも分かっていた。何しろこの体は何年も異世界に囚われていたのだから。
だからせめて、彼は家事の一切を引き受けていた。家事だって結構体力を使うのだけど、だからこそリハビリにもなる。
その中で一番気に入ったのが料理だった。毎日作るというのは大変だけど、セントラルは珍しい食材もわりと豊富にある。
仮住まいのこのアパートの近くには、定期的に出される市などもあって、行くだけでも楽しめた。
何より兄が美味しいと言って食べてくれる姿を見るのが、アルフォンスは好きだった。
以前は食事の出来ないアルフォンスを気遣ってか、とにかく食べられたら良い、程度の意識しか持っていなかった兄・エドワード。
もうそんな気遣いはしなくて良いのだから、好きな物を好きなだけ食べてもらいたい。もっと食事を楽しんでもらいたい。
そしてボクも一緒に兄と食事を楽しみたい。笑い合いながら二人で食べる食事は、毎日の喜びだった。
手元のボールから生クリームを泡立て器で掬い取ってみる。
ゆっくりと滑らかに流れ落ちるクリーム。そろそろ最後の仕上げとなる所。少し力を込めてかき混ぜる。
すると玄関がガチャガチャと開いて、「ただいまー」という兄の声が聞こえた。図書館から帰ってきたらしい。
台所からおかえり、と声をかけると、兄はそのままこちらへとやってきた。
「なに作ってんの?」
「食後のムース。苺をたくさんもらったからね。」
それよりか帰ってきたらまず手洗いうがい、と肩越しに覗き込む兄をどうにか洗面所に行かせようと試みる。
肩でその体をはね除けようとしても、上機嫌な兄は意にも介さない。
「イイ匂いだな。なんか腹減ってきたかも。」
「それならこれ作ったらお茶の用意するから、向こうで待っててよ。」
帰ってきたらお腹を減らしてるだろうと思って、マフィンを作ってあるんだから。
それなのに我が侭な兄は、弟にへばり付いて嬉しそうに離れずにいる。
「この生クリームがうまそう。食べちゃ駄目?」
「駄目、ムースの分量分しか泡立ててないんだから。」
背中からずっしりとのし掛かられて、重いから文句のひとつも言いたい所なんだけど。
…シャツ越しの温もりが愛しく感じて、離れてとも言えないなんて。我ながら重症すぎて呆れてしまう。
溶けそうな思考を無理矢理立て直して、何とか体勢を整えた。
「今日のお菓子はマフィンなんだよ。手を洗わないと不衛生だし、食べさせないからね。」
わざと嫌そうな顔を作って肘で体を離そうとしたら、カシャリと音を立てて泡立て器がクリームを跳ねた。
「うっわ…。」
顔に飛んだクリームに思わず顔を顰める。拭おうとしたボクの手は、兄の手に阻まれた。
ぺろり。
そんな擬音が聞こえたような気がする。
思考が止まったボクの目に、にっこり笑う兄の顔が映り、その時やっとやけに兄が近づいていた事に気付いた。
「うまかった。」
嬉しそうというよりにやけきった兄の言葉に、ようやっと今起きた事を把握する。
「な、なな何するんだよっ!」
「おっと。」
慌てて頬を押さえようとして落としそうになったボールを、兄が素早くキャッチする。余計な事とこんな事は本当に素早い。
「何って、クリームを取ってやっただけだろ。」
「取ってやっただけって、普通は手やタオルで拭くよ!」
平然と言う兄に怒鳴りつければ、それでも兄は平気な顔をしている。
「だってアルが手を洗ってないから不衛生って言ってたし。タオルがベタつくのも嫌じゃねぇ?」
「タオルは汚れる為にあるんだよ…。」
一気に脱力しながらボクは溜息をついた。駄目だ、確信犯の思惑に躍らされちゃ駄目だ。
そうは思うのだけど、きっと顔は勝手に赤くなっているはずだ。
頬に残る兄の舌の感触。思い出すとまた熱が上昇する気がする。
こういう反応は兄を喜ばすだけだって分かってるんだけど。ああ悔しい。コントロールなんて出来ないよ。
兄の視線から逃れたくて、その手にあったボールを奪い取るとボクは兄に背を向けた。
「さっさと洗面所に行けよ。じゃないとほんとにおやつ抜きにするからね。」
まだ火照る頬を意識しないようにして、ボクは何とか平静な声を出した。
それに兄は答えなかったから、やっと黙って手を洗いに行くのかと思ったのにー。
次の瞬間、背中から抱き締められてボクの思考が今度こそ完全に止まる。呼吸すら止まってたのかもしれない。
背中がじんわりと温まってゆく。肩口に伏せられた金色の髪がさらりと音を立てた。身動きがとれない。
そんなボクの耳に、兄の最低な台詞が届いた。
「顔に白いクリームってやらしいよな。アルフォンス君ったら昼間っから卑猥ー。」
語尾にハートマークが付きそうなくらいに嬉しそうな兄の言葉に、ボクの中で何かが切れる。
「・・・・・卑猥なのはあんたの頭だこのウルトラ馬鹿兄貴ーーーっ!!!」
気付いた時には思いっきり兄を殴り倒していたのは、仕方のない事だと思う。
まだボクはリハビリの最中だし、たいした力は出ない。打たれ強い兄の事だ、すぐに目を覚ますだろう。
アルフォンスは床に転がる兄をそのままに、顔を洗おうと洗面所に向かった。
だがアルフォンスの渾身の一撃を喰らった兄エドワードは、それから1時間経っても目を覚まさなかった。
慌てて医者に連れて行ったアルフォンスだったが、喧嘩の理由を尋ねられても答えられなくて。
さらに機嫌を悪くしたアルフォンスが、それから暫くデザートを作らなくなったのも無理のない話。