その瞬間、体中の血液が凍った気がした
世界が真っ黒に塗り潰されたような気がした

それは恐怖と言う名の絶望






交差














兄がセントラルを離れのは2日前の事だった

今は大総統となったロイ・マスタングと共に、北部に視察に出掛けたのだ。それ自体はよくある事だった

エドワードがアルフォンスと離れるのを嫌がって、視察に行くのを渋るのもよくある事だ

そんな風にいつものように、兄を送り出したのに

いつもと違ったのは、突然鳴り響いた一本の電話



「視察先で爆弾テロがあったようだ。大総統と、…エルリック大佐が巻き込まれたらしい」



電話をかけてきたのはハボック大尉だった。今は詳しい状況がまだ解らないのだという

取り合えず何人かで北に向かおうと思う。お前さんも行くなら準備しといてくれ。迎えに行くから

そう言った彼の声はいつもよりもゆっくりと優しかった



恐ろしい程のスピードの出る軍用車に乗り込んだ面々。皆一様に押し黙ったまま、緊迫した空気が流れる

それを解きほぐしたのは、もう少しで目的の街に着くという所で入った無線連絡だった


ー負傷者はいるものの、死亡者、重体者は無し。大総統の無事を確認ー


ホッとした空気が流れる中、固い表情で両手を口元で組んだまま、微動だにしないアルフォンス

その様子に気付いたハボック大尉が、その背中を軽く叩いた

まあ、あの二人が簡単にくたばるとは思ってなかったけどな。無事なようで良かった

戯けたように言う言葉の奥に潜む、隠しきれない安堵

それに心から同意しつつ、言い様の無い思いを伝える術もなくて

僕はただ、ともすれば震えそうになる手を握り締めている事しか出来なかった








大総統とエドワードが運ばれたのは、街で一番大きな公立病院だった

それぞれ別の部屋で休んでいるというので教えられた部屋へと向かう

まず目に入ったのは、部屋の前に佇む衛兵の姿。ハボック大尉が声をかける

若い兵士は、大佐は今薬でお休みになられてます、と緊張した面もちで答えた

小さくノックをして部屋の中を覗きこむと、ベッドに眠る見知った金髪の姿

それを確認して、ハボックはアルフォンスを部屋に押し込みながら、衛兵を促した



「ここはもういいから、お前はこっちを手伝え」

「え?しかし…」

戸惑う兵士に、アルフォンスが請け負った



「大丈夫です、兄には僕がついてますから。こんな事態になって人手も足りてないでしょう?」

「という事だ。心配するな、アルフォンスはお前達よりよっぽど腕も立つ」

じゃあ兄貴は任せた。そう言うとハボックは衛兵を連れてさらに奥の大総統の病室へと向かっていった

部屋に入りドアを締めると、静かにベッドへと近づいた



ベッドでピクリとも動かずに眠る兄の姿

…本当にただ眠っているだけなのだろうか。そんな不安が脳裏を過ぎる

恐々と眠る兄の頬に手をあてる。…温かかった

耳の下の頸動脈に手をあてると、トクトクと脈打つ鼓動が伝わる

その時ノックの音がして、部屋に一人の医師が入ってきた



「初めまして。君が彼の弟さんかな?」

「そうです。アルフォンス・エルリックと言います。この度は兄がお世話になりました」

「いや、それは構わんのだけどね。何というか君が来てくれて良かったよ」

「…どういう事でしょうか?」

言われた言葉の意味が分からなくて聞き返す



「君のお兄さんの怪我は、命には別状はない。ただ、肋骨の数本にヒビが入っていてね。
 ヒビというのは骨折よりも厄介な時があるんだ。だから安静にしなければいけないんだが…」

初老の優しげなその医師は、苦笑しながら言葉を続けた

「暫く入院しろと言った途端、『冗談じゃねー、俺は家に帰るぞ!アルが心配するだろ!』と言って聞かなかったんだよ」

あんまり暴れるものだから鎮静剤を打って眠らせたんだ、と事もなげに言う



…何だか猛獣扱いだなぁ。ぼんやりとそんな事を考える

先生にお詫びと、もう一度お礼を言う。君が付き添っていれば安静にしてくれるだろう。暫くゆっくりしなさい

そう言うと先生は部屋を出ていった



二人っきり残されると、ジリジリと不安が足元から全身を覆ってゆく

こんなに真横で会話をしていたのに、兄は身動きひとつしない

さっき鼓動を確かめたのに、言い知れない不安が胸に広がってくる

本当に、生きてる…?



眠り続ける兄をじっと見る。真っ白なシーツの被った柔らかな布団が微かに上下する

規則正しい呼吸音。生きている、証

布団からはみ出した兄の手に、そっと自分の手を乗せてみた。温もりが伝わってホッとする

大丈夫、兄さんは生きている

それは自分でも分かったはずなのに、それでも甦った焦燥感が消える事はなくて

兄の手に乗せた自分の手に額を押しつけて、アルフォンスはただ静かに温もりを確かめ続けた

早く起きてよ兄さん。僕の名前を呼んで

こんなにも兄に目覚めて欲しいと、その声を聞きたいと願った事はなかった










目が覚めた瞬間、視界に入ったのは見知らぬ天井とアイボリーの優しい色合いの壁

清潔なシーツは真っ白で、普段自分が使っているものとは違っていた

見覚えのない部屋で寝ていた事実に、ぼんやりとしていた頭がハッキリとしてくる

その途端気付いたのは、左手に感じる温もり



「アル…?」

名前を呼ぶと、伏せられた体が微かに揺れた

眠ってはいないようなのに、顔を上げないアルフォンスに、エドワードは問いかけた



「アル、ここは何処だ?俺は…」

言いながら身を起こそうとする。その胸を包む固い感触と違和感と小さな痛み、それにアルフォンスの声が同時に重なる

「起き上がらない方が良いよ、兄さん。肋骨にヒビが入ってるんだから」

言葉はしっかりしているのに、相変わらず顔を上げずに話す弟の言葉でエドワードは自分の状況を理解した

そうだった、爆破にあって怪我したんだっけな…

必要ないと言ったのに無理矢理連れて来られた病院で、入院しろと言われて暴れて何やら打たれた事も思い出した

ここまで正体不明で眠っていた所をみると、あの時打たれたのは鎮静剤か麻酔か

ったく人を何だと思ってやがるんだ

いや、そんな事よりも今はアルフォンスだ。どう見ても様子がおかしいし



「どうしたんだアル。顔を上げろよ」

そう声をかけても、顔を伏せたまま小さく首を振るばかり

訳も分からないまま、何とか俺は起き上がって話をしようと身動いだ

左手はアルの手が重なっていて離せなかったから、右腕だけを支えに起き上がる

アルに止められる前に素早く起きようと考えたせいだったのか、ズキリと胸に痛みが走った

痛みを堪えて思わず洩れた声に、アルフォンスがハッとしたように顔を上げる

その顔は泣いていたのがハッキリと分かる程、痛々しいくらいに涙の跡が残っていた



「泣いていたのか…?」

呆然とする中、自然と手はアルフォンスの頬に伸びる

幾筋も残った涙の跡を拭うようになぞると、ふいにその手をアルフォンスが掴んだ

俺の手を両手で握り締めて、額にあてる。思い詰めている様な表情

その時アルフォンスが小さな声で何かを呟いた。小さすぎて聞き取れない



「アル、今何て言ったんだ?」

するとアルフォンスはギュッと俺の手を握る力を強くした



「恐かった・・・!!」

体中の息を吐き出すようかのように零れた言葉



「兄さんを永遠に失ってしまったのかと思って。頭が真っ白になって。ただ恐くて仕方なかったんだ…!」

「アル…」



体が凍り付くような、全ての時が止まったような

こんな恐怖には覚えがあった

あれは僕が鎧の体だった頃。スカーに襲われ、目の前で兄の命を奪われそうになった時

動けない僕は、ただ叫ぶ事しか出来なかった

弟には手を出すなと言って、命を差し出そうとする兄を、僕は止める事が出来なかった


あの時の恐ろしさ、絶望感はそれまで感じた事のない物だった



忘れていた訳ではない

ただ恐くて。あの時の事はただ恐くて、思い出さないようにしていただけだ


それを、今度の事で、また

深淵に閉じこめて、触れないように蓋をしていたあの恐怖を

まざまざと掘り起こされるように思い知らされた


兄を失う。永遠に

それが自分にとって、どれ程の恐怖なのか、絶望なのか





「いなくならないで。僕の前から消えてしまわないで!ずっと傍にいてよ…!」

それは願いで、望みで、そして祈りのような想い

エドワードの体に縋り付く指は、血の気を失い白くなっている

その震える指を、ヒヤリと冷たくなった手を、エドワードはそっと握り締めた



「いなくなったりしない。俺はずっとアルの傍にいるよ」

「うそ、うそだ。だって僕の知らない所でこんな怪我をして。こんな…!」

止まることなく大きな瞳から涙が零れる。アルフォンスは首を振りながらギュッと目を閉じる



「アル…!」

その姿が愛しくて。エドワードは子供のように泣きじゃくる弟を強く、強く抱き締めた



「いやだ、兄さんがいなくなるなんて。そんなの嫌だよ」

腕の中でアルフォンスは虚ろに呟いている。零れる涙をそのままに

過去の記憶が甦って今日の恐怖と重なって、彼は今混乱していた

そんなアルフォンスを抱き締めて背を優しく撫でながら、エドワードは必死にその名を呼びかける

どんな言葉なら、今のアルフォンスに届くのか

こんなアルフォンスを見るのは初めてだったから、戸惑いもあった

だけど、此程強く求められて望まれた事に、言い様のない喜びも感じていた



ずっと兄の想いを拒んできた。家族としてしか愛せないと

兄が誰か他の人を好きになれば、なんて思っていた

どうしてそう思えたのだろう。離れたら生きていけないと、本当はわかっていたのに

こんなにも離れられないと心が叫んでいるのに



でももう気付いてしまった、自分の気持ち

必死に誤魔化して気付かない振りをしていた奥底の本音


本当はとっくに、ううん、きっと最初から僕も兄さんの事がー





「すき、だよ」

肩口に顔を埋めていた弟から出た言葉。掠れて小さな、でもどこか甘い声

言われた言葉の意味が、うまく頭に入ってこない

混乱する中、エドワードは少しだけアルフォンスから体を離して、その顔を覗き込んだ

少しだけ止まった涙はまだその長い睫に留まって、瞬きの度にパタパタと零れていく

アルフォンスは戸惑った顔をした兄を見て、少し悲しそうに顔を歪ませた



「今更ごめんね。ずっと兄さんの気持ちを拒んできたくせに」

でも伝えたかったんだ。そう言ったアルフォンスの表情は酷く透明で

やっとエドワードはアルフォンスの言った言葉を理解する事が出来た



すきだと、そう言ってくれたんだ。アルが、俺を

思わず口元を手で覆う。その手も細かく震えていた



昔から大切な存在だった。他とは比べようがないくらいに

それが家族としての愛情だった頃も、そうではなくなった時も

想いを口にする事で嫌われるかも知れないとは思わなかった

アルはそんな事で人を嫌ったりしない。真剣な想いを軽蔑したりはしないから

そして俺も諦めるわけにはいかないから、想いを伝え続けて

アルは決して受け入れてはくれなかったけど、それも当然だと思っていたから

いずれいつか、と思うだけで充分だった。今は傍にいてくれれば、それで


それなのに、アルフォンスが俺をすきだとー



嬉しくて嬉しくて、信じられない程嬉しくて。情けない事に手は震えたままだ

すると、そっと震える手にアルフォンスが自分の両手を添えた

柔らかく包んでくる手の温かさに、少しずつ震えが治まってきて

伝わる温もりが、これが夢ではない事を教えてくれる



「ずっとアルが好きだったんだ」

「うん」

「最初この想いに気付いた時は、駄目だって思った。兄弟なのにって」

「そうだね」

「でも諦める事だけは出来なかった。気持ちは変えられなかった」

「…兄さん」

「俺、アルが好きだ。ずっと昔からお前だけを愛してる」

兄の手に添えていた手を握り締められて、アルフォンスは微笑をもらした



「兄さんはたった一人だけの家族だから。それ以上の意味で好きになったらいけないと思ってた」

「アル」

「大好きだけど、大切だけど、それは家族としてで。それ以上の意味はないって思ってたんだ。
 そうやって思いこもうとしてただけなんだ。自分の気持ちに気付かない振りをしてたんだよ」

今まではぐらかしていた想い。それは兄に対してでもあり、自分に対してでもあり

まだ少し涙の残る瞳でエドワードを見詰めながら、アルフォンスはもう一度伝えた



「兄さんが好き。兄さんを愛してる。だから傍にいて」

まっすぐに伝えられた想いを受け止めて、エドワードは目を閉じた

今のアルフォンスの言葉がゆっくりと体に染み込んでいく



「傍にいるよ。アルが嫌だって言っても、絶対離してなんかやらないからな」

握っていたアルフォンスの左手にそっとキスをしながら、もう一度その体を抱き締める

「だからお前もこの手を離すな」

「うん。僕も離れないから」

うっとりとするような柔らかい笑みを浮かべるアルフォンス

その笑顔に惹かれてそっと顔を近づけると、察したアルフォンスが瞳を閉じた

最初はそっと触れるだけの口付け。それを何度も繰り返して

少しずつ深くなる口付けに二人で溺れる

やっとお互いを解放した時には、アルフォンスは荒い息を吐いていた

その姿が愛しくて胸の中に閉じこめる。ただ一人の大切な存在を

背中に回った手の感触に、涙が出そうになるのをエドワードは感じていた



ようやっとエドワードがアルフォンスを離したのは、それから暫く経ってからだった

横になったエドワードが、ふと思いついたように少し不機嫌に言う



「でも何か悔しいよな」

「悔しいってなにが」

「いやだってさ。せっかくアルと両想いになれたってのに、俺こんな様だし」

これじゃ、アルに手を出せねー、なんてほざく兄を冷たい視線で一瞥する



「怪我してる人が何言ってるの。それ、治るまでは絶対安静だからね」

心配したんだから、ちゃんと治さないと口効かないよ。と言うアルフォンスに兄は黙った

その様子に苦笑して、アルフォンスは兄の枕元に近づくと、耳元でこう囁いた





「全ては怪我が治ったら、ね」







見舞いに訪れる人々が気味悪がるくらいに、エドワードが大人しく入院していた理由

それは二人だけの秘密





















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