邂逅
暗い道を一人歩いている。誰の姿も見当たらない。
なんだ此処は。どうしてオレはこんな所にいる?
大体何故一人っきりなんだ。オレの傍にはいつだってーーがいたのに。
そこまで考えてから違和感に気付いた。
誰がいたんだって?オレは誰の名を呼ぼうとした?
愕然とした。確かにいつも誰かが傍にいた事は解るのに、それが誰なのかが解らない。
その顔も思い出せず、どういうヤツだったのかも解らない。
これはいったいどういう事なんだ。
その名は忘れちゃいけない名前だったはずだ。何よりも大切な存在だったはずだ。
他の誰が忘れても、オレだけは覚えていなきゃいけない。それなのにどうして。
「それがあなたの本当の望みだから」
何も無い空間に響き渡る声。透き通った子供のようなボーイソプラノ。
驚いて声がした方へ振り返る。
「本当は忘れたいと思ってたんじゃないの?その方がきっと楽になれる」
暗闇から響く声。シルエットは辛うじてわかるのに、顔は暗すぎて見えない。
見覚えはある、と思う。影だって体のラインだけだって、自分にはわかるはずのその姿。
なのにどうしても誰なのかが解らない。その声を心底懐かしいと感じてるのに。
「忘れたとしても責められはしないよ。だってあなたは今まで充分苦しんだ」
微笑むように、囁くように優しく響く声。
「だけどね、ボクも充分苦しんだとは思わない?…ねえ、兄さん」
その時闇が一瞬ざわめいた。
「アル…」
名前は自然と口をついて零れた。思い出したわけではなく、意識もせずに。
ザッと闇が払拭される。今度は眩いばかりの光が溢れ、やがてただ白いだけの空間になった。
見覚えがある。これはー真理の世界。そうだ、お前が囚われている世界だ。
「苦しいよ。ここでは喜びも怒りも痛みも快楽もない。今のボクには何もない。何も感じない。
それが苦しいんだ。苦しくて辛くて消えてしまいたいのに、狂うことすらボクにはできない」
死ぬことさえも。
そう言いながら腕を伸ばされる。オレはピクリとも動けなかった。
滑るように近づいてきたアルフォンスは、白く細くなった手でオレの首へと触れた。
緩く輪を描き、絞める。首と指の間には隙間があって、それが仕草だけなのだとわかる。
「…オレを殺したいなら殺せ。それでお前が楽になるなら」
首に添えられた手に自分の手を重ねた。上から押さえるように力をこめると、一瞬だけアルフォンスの手が震える。
「オレの体が死ねばお前の体も朽ちるかもな。それともオレが狂えば、精神で繋がってるお前も狂えるのか?」
長く伸びたアルの髪に左手を伸ばし耳元からかきあげた。少し軋んで指通りが悪くて、切なくなった。
小さい頃触ってたアルの髪は、ちょっと堅めだったけど滑らかでサラサラしてのに。
「オレはお前の体を必ず取り戻す。でもそれまで待てないくらいにお前が辛いのなら、お前の好きにしろ」
こうなったのは全てオレのせいだった。いつか夢の中で、あの真理の野郎が言っていたのは真実だ。
体のない魂だけの存在。感覚も何もない魂だけで存在する事の苦痛なんて、想像したって理解はしきれない。
失う事に耐えられない、ただそれだけの理由で行き地獄へ引きずり込んだ。引き寄せる力があったというだけで。
そんな権利、オレにはなかったのに。
「オレの命はお前のものだ。生きるのも死ぬのも狂うのも、最後まで一緒だから。お前には不本意だろうけど。」
目の前にいるアルは、アルであってアルじゃない。アルはこんな風にオレを責めてくれはしない。
優しい弟はいつだって自分の不安をギリギリまで押し殺して、不肖の兄を責めたりしない。
責めてくれたら良かったのに。詰ってくれたら良かったのに。
だけど本当はそう思う事さえオレのエゴだ。責められたら楽になるのにという逃げ。
これはその願望がもたらした夢なのか。だが例え夢であろうとアルが望むのならオレに否はなかった。
その時アルフォンスの腕から力が抜けてオレの肩へと落ちた。首に腕を廻してるような格好になる。
「…馬鹿だよ君は」
ふぅっと溜息をついてアルフォンスが言う。
ー諦めてしまえば、見捨ててしまえば楽になれるだろうに。
口にはせずにそう思う、その表情は先程とは違って苦笑混じりだった。
「お前なぁ、兄ちゃんに向かって馬鹿はないだろ。仮にも最年少国家錬金術師に向かってだな」
確かにアルに関する事では馬鹿になる自覚はあるけどな。自他共に認める弟馬鹿なのは否定しない。
口を尖らせる兄に仕方ないなぁというような顔をして、アルフォンスは首に廻していた手に力を入れ抱き寄せる。
「お、おい、アル?」
慌てるエドワードを一度だけギュッと強く抱き締めて、それからアルフォンスは唐突にその体を軽く突き放した。
「うわっ!」
そのまま後方へ体が浮かび上がる。吸い込まれそうな見えない強力な力に、エドワードは為す術もなく引き寄せられた。
「アルっ!アルフォンス!!」
離れていく弟に手を伸ばす。「前」と同じ様に必死の形相の兄に、「アルフォンス」が答える。
「いくら精神が繋がってるからって、魂だけでこちらに来るのは感心しないよ。無事に戻れる保証はないんだから」
魂…?言われた言葉に呆然とする。抗うのを忘れた瞬間、グッと体が引き込まれる。
「アルフォンス!!!」
「大丈夫、ボクらはまた会えるよ。ー待ってるから」
最後にアルフォンスが微笑む。それを確かにエドワードは見たと思った。
そしてそこで意識は途絶えた。
「あ、兄さん。目が覚めた?」
ちょうど起こそうかと思ってた所だよ、と手に持っていた本を閉じながらアルフォンスが言う。
身動きする度に微かに聞こえる鉄の擦れる音。鎧の中で反響してエコーがかって聞こえる声。紛れもなく弟だった。
「アルフォンス…?」
「あれ、兄さんまだ寝ぼけてる?早く目を覚ましてよ。今日は午前中には列車に乗るんでしょ。」
ぼんやりと自分を見る兄に、寝ぼけていると思ったアルフォンスは起床を促した。
「はいタオル。顔でも洗ったら目が覚めるよ。ボク下に行って、朝食準備してもらってくるから。」
静かに扉を閉めて出ていくアルフォンスを見送りながら、エドワードはまだぼんやりしていた。
さっきまでのあれはー夢だったのか?少なくともこの世界は現実だ。
「アルがいるしな…。」
でも夢の中のアルもアルだ。魂は違うのかもしれないが。…魂。
「オレは本当に魂だけあっちにいったのか…?」
あれが現実だったのかどうかなんて解らない。解りようもない。
だけど夢だとしてもどうでも良い気がした。アルフォンスが最後に微笑んでくれたから。
また会えると言っていた。待ってるって。
ならば会いに行けば良いだけの話だ。魂を連れて、今度こそ全てを取り戻す為に。
「待ってろよ、アルフォンス。」
おっしゃー!と雄叫びをあげて両頬をバチンと叩くと、エドワードはタオルを掴んでバスルームへ向かった。
望みを叶える為に、今日も二人は歩き出す。