「兄さん、この本どうしたの?」
弟の言葉に、俺は首を傾げた。
「どうしたのって、きのう図書館で借りてきたじゃないか。」
「そう…だったっけ?」
「俺は読んじまったから、お前も読んどけよ。結構興味深い内容だったぞ。」
「分かった。そろそろ次の街に行きたいし、今日中に読んじゃうね。」
弟の言葉に生返事をして、俺は再び読んでいた本へと意識を戻した。
本当はこの時に気付かなくてはいけなかったんだ。
抜群の記憶力を持つ弟が、例えこんな瑣末とはいえ忘れるなんておかしいという事実に。
気付いた時には本当は遅い。
愛しき記憶の欠片
「ねえ兄さん。大佐に提出するように言われてたレポートが見あたらないんだけど。」
不思議そうに話すアルフォンスに俺は少し驚いた。
「何言ってんだ。レポートだったらきのうこの宿に入る前に出しちまったじゃないか。」
「え、兄さんこそ何言ってるの。ここに着いたのは今日でしょ?きのうは一日列車で移動だったし。」
「アル…?」
弟の言葉に耳を疑う。列車で移動していたのは一昨日の事だ。
「アル、お前変だぞ。きのうの事覚えてないのか?」
「きのうって、だから列車でこの町に向かってて。」
「違う、それはおとついの事だ。この町に着いたのは今日じゃなくてきのうだし。」
言いながら何ともいえない不快感が胸に込みあがってきた。不安というか予感かもしれない。
一日分の記憶が飛んでいる…?
改めてアルフォンスを見てみる。こうしているといつもの弟で、変わった様子は見られない。
少なくとも外見上、変化はない。
ならば変化がありえるとしたら、魂だけの存在である弟に何かあるとしたら。
それはたったひとつしかありえないではないか!!
エドワードは素早い動きでアルフォンスの胸元を開け、その中を覗き込んだ。
そして見つけたものに、全身の血の気が引いていく。
「兄さん、どうしたの。何かあった?」
凍りついたように動かない兄を心配して、アルフォンスは声を掛けてみる。
それに辛うじて返事を返すエドワード。
そこにあったのは、何の弾みで出来たのか小さなヒビだった。ほんの3cm程の。
だけど場所が最悪だ。よりによって血印にも少しだけヒビが及んでいる。
とにかく鎧の罅だけは先に直してアルにも説明する。弟は納得したと言って手を叩いた。
「そうか、だからボクには自覚がなかったけど記憶が飛んでいたんだね。」
弟のどこか暢気な声に、エドワードは以前第5研究所に忍び込んだ時に出会ったスライサー兄弟を思い出していた。
あの時ホムンクルスに血印を壊された弟の方は、刃物で何度も傷つけられていた。
だがすぐに死んだわけではなかった。
「血印に傷がつく=死」という訳ではない。その大きさ深さが問題なんだ。
アルのこの傷はとても小さくて浅い。だから記憶が途切れるくらいで済んだのだろう。
だけどこれがもう少し大きければ。後ちょっと深ければ。
…どうなっていたかは分からない。
どうして俺は今まで気付かなかったんだ…!!
「兄さん、何を…!?」
突然右手の機械鎧を刃物に錬成し、徐に左腕に傷をつける兄にアルフォンスは慌てた。
ポタポタと流れ落ちる鮮血。その鮮やかな赤に意識を奪われる。
するとエドワードは手の中まで流れてきた血を指先に擦り付けた。
その仕草で兄が何をしようとしているのか悟ったアルフォンスが、大きな音をたて体ごと後ろに引く。
「アル。」
「駄目だ兄さん、何しようとしてるんだよ。」
「大丈夫だから、アルフォンス。」
「大丈夫なんてどうして分かるの。もう一度血印を書き直して、魂と繋ごうとしてるんだろ。
そんな事してまたどこかを持っていかれたらどうするのさ。」
「等価交換したのは、お前の魂とだ。血印は関係ない。」
「血印はそうかもしれないけど、それを繋ぐのに危険がないとは言えないだろ。
鎧のひびは直したんだし、これからはこれ以上血印に傷が入らないように気をつければいいだけだ。
わざわざ危険な事をする必要はないよ。」
「必要はないだって…?ふざけんなっ!!」
いきなり怒鳴られて、アルフォンスが動きを止める。
「お前こそ、これからは気をつければいいだけだなんて、どうしてそんな事言えるんだ?
知らない間に傷が大きくなったらどうする、その時じゃ間に合わないかもしれないんだぞ!?
大体今のままじゃ、記憶は飛び飛びのままだ。そんなの良いはずないだろう。
俺はアルと今一緒に過ごしている日々をちゃんと覚えていたい。もちろんお前にも覚えていて欲しい。」
「兄さん…、でも嫌だ。兄さんが危険な目に合うかもしれないのに…。」
アルフォンスの声は震えていた。まるで泣いているかのような声だった。
「血印を繋ぐだけなら危険はない。大丈夫だからアル、俺を信じろ。」
「…ずるいよ、兄さんは…。」
信じろ、なんて言われたら、もうそれ以上何も言えなくなる。
だってこの世で誰よりも信じてる人なんだから。
「どうしても、やるんだね?」
「ああ、俺がそう簡単に引くような性格じゃない事は解ってるだろう?」
兄の台詞に思わず溜息をついてみたい気分になる。この体じゃどう頑張ったって無理だけど。
でも兄の言いたい事も解るのだ。
ボクが兄が傷つく事を恐れるように、兄はボクを失う事に怯えている。
お互いに同じ心配をしているから、なかなか譲る事が出来ない。
ここでボクが絶対に嫌だと言えば、兄さんは無理強いは出来ないだろうけど。
そうしたらきっと、事あるごとに血印の状態を確かめようとするんだろう。
ほんの一時も目を離さずに、もしかしたら眠る事すら殆どせずに。
少しの変化にも過敏に反応して。今よりももっと神経をすり減らしながら生きていく事になるんだろうか。
そうまでさせて、ボクが兄さんの傍にいる意味はあるの。
兄を苦しめるだけの存在になるのなら、いっそ消えてしまいたい。
でも今血印を壊して消えたって、兄はまたボクを錬成しようとするだろう。
ならもう旅をしたくないとか、兄さんが嫌いになったと嘘でも言って離れればいいのかもしれないけど。
消える事に躊躇いは無くても、兄から離れる事は嫌だった。
消えるならいい。でもこの世界に存在するのなら、兄の傍にいたい。
なんて、我侭なんだ。ボクも、そして兄さんも。
「…解った。兄さんの望むようにして良いよ。」
「アル。」
嬉しそうなホッとした表情を浮かべた兄をじっと見詰める。ひとつだけ伝えておかなければならない事がある。
「だけどこれだけは覚えていて。もし兄さんに何かあったら、ボクはどうなるか分からないから。」
「どうなるかって…、何を言ってるんだアル。」
「言葉通りだよ。兄さんがボクの為にまた何かを失ったら、…兄さん自身が失われたら。
ボクはきっと正気ではいられない。自分で自分がどうなるか分からないよ。」
「アルフォンス!?」
驚愕のため目を見開くエドワード。
「兄さんに何かあったら、ボクも生きてはいないから。」
初めて聞くアルフォンスの言葉に、エドワードは呆然とする。
淡々と、そして静か過ぎる祝詞のようなその言葉が、弟の真実の気持ちなのだと聞かなくても分かった。
自分に何かあったからって、アルフォンスまで、というのは到底許せない。
自分が死んでしまったとしても、弟には生きていて欲しいのだから。それが俺の我侭だとは知っていても。
それなのに弟の言葉を嬉しいと感じている自分は、どうしようも無いと思う。
たとえそれがたった一人の家族だからでも、共に罪を背負った共犯者がいなくなるのは困るという理由でも。
アルフォンスにこんなに望まれて、心が歓喜するのが分かる。
自覚してはいたけど、本当に最低だな俺。
でも最低な兄だろうと何だろうと。いや、だからこそアルフォンスを失うわけにはいかない。
失ったら生きていけないのは、自分も同じなのだから。
そしてどんな些細な記憶だろうと、それは全てアルのものだ。欠けていいはずがない。
ましてやそれがアルの消失に繋がるかもしれないとなれば、見過ごせるはずはないのだ。
少しずつ乾き始めた血を掬い、鎧の背にある仲立ちの血印に手を伸ばして欠けた部分を丁寧になぞる。
兄のその一切の動きを、アルフォンスは何も言わず沈黙して見守っている。
血印を描き終え、エドワードはアルフォンスを見上げてニヤリと笑って見せた。
「大丈夫だ、アル。アルが生きていくのに俺が必要だって言うなら、俺は俺自身も失わない。」
何かを言いたげにカシャリと身動きした弟を目で制し、そのまま思いを込めて一度だけ目を閉じた。
そしていつものように勢い良く手を合わせると、鎧に触れる。
青白い錬成光が二人を包み、飲み込んだ。
「それにしても今度の事は焦ったな〜。」
寿命が縮まる思いってのは正にこの事だ、と溜息をつきながら呟くエドワード。
隣を見ると、アルフォンスは押し黙ったまま返事もしない。
どうやら自分のせいで兄に危険な事をさせたと落ち込んでいるようだ。
無事だったんだから良いじゃないかと言った所で、弟は納得しないだろう。
意外と頑固な性格をしていることは、長年の付き合い故によく分かっている。
どうしたもんかとアルフォンスを見ていたエドワードだったが、ふと思いつくと弟を見てニヤリと笑った。
「…?何か兄さんやけに機嫌が良いね。」
ニヤニヤしながら自分を見る兄に気付いて、アルフォンスが怪訝そうに首を傾げる。
「え?だってアル見てたら思い出しちゃってさ。」
「思い出したって何を。」
「きのうのアルの熱烈な告白。」
「こ・・・っ!!」
思わず言葉を詰まらせて固まるアルフォンス。生身の体だったら真っ赤になっていた事だろう。
「いやー、『兄さんに何かあったら、ボクも生きてはいないから。』なんてさ、なかなか言えないよな。
兄ちゃんアルに愛されてて嬉しいぞー。」
「だってそれは…!あー、それもう忘れろよ!今すぐに!!」
調子に乗っている兄にからかわれたと思ったアルフォンスが、照れながらも怒鳴り返す。
「それは無理。俺の記憶力は知ってるだろうアル。…ってちょっと待て、何をする気だ!?」
唐突にハンマーを錬成した弟に、ジリジリと後退しながら問いかけるエドワード。
「うーんとね、忘れてくれないなら忘れられるようにショックを与えてみようかと思って。」
可愛らしく首を傾げながら可愛い声で恐ろしい事を言う弟に、エドワードは慌てた。
「無茶言うな!大体それって、普通忘れた事を思い出す時に使う手段だろ、逆だ逆!」
「やってみなくちゃ分からないじゃない。物は試しっていうし。」
「そんな物騒な事試せるかー!!」
脱兎の如く駆け出した兄を弟が追い掛けていく。
眩しい日差しを浴びながら、兄弟の姿はやがてこの街から消えた。
二人の旅はまだまだ続いていく。
サイト1周年企画その六 リクエストはやたろうさん
リク内容は
鎧アルの異変に気付かない兄。ギリギリセーフで助かるシリアス話
でした。
鎧アルは久々だったのと、異変をどういうのにしようかとちょっと悩みました;
鎧アルなので自覚なし、兄さんはバリバリ自覚有りな二人です(笑)
やたろうさん、いつも感想下さって本当にありがとうございます!
これからもどうぞよろしくお願いいたしますv