一体どうしたんだろう。アルフォンスは不安げにバスルームの方を見た。
どうにも最近元気がないとは思っていたけど、さっきの兄さんは本当に変だ。
ちょっと赤くなっていたような気もするし、風邪でもひいて熱でもあるんだろうか。
でも食欲とかはあったみたいだし…。
取りあえず体が温まるように、お茶のお代わりはカモミールのミルクティーにしよう。
そう考えてキッチンへと向かうアルフォンスだった。
云えない言葉 W
ゆっくりと開かれるバスルームの扉。そこからそっと頭だけ出すエドワード。
その姿は不審としか言いようのないものだった。
微かに聞こえてくる陶器の音、どうやら弟はキッチンにいるらしい。
自分の気持ちに気付いた以上、アルにちゃんと打ち明けなければ。
アルはずっと俺の知らない所で苦しんできたんだから。
もうそんな思いをさせたくなかった。辛い目に合わせたくなかった。だから。
でも何というか、経験がないだけにこういう事ってどうしたら良いのか検討もつかない。
大体こ、告白って。すんげー恥ずかしいぞ。どんな顔して言えばいいんだ。
家族としての好きの言葉なら、何の気負いもなく自然に口に出来たのに。
ほんの少し意味合いが違う、ただそれだけでこんなにも伝える事に勇気が必要だなんて。
考えるだけでも心臓がバクバクと五月蠅い。早鐘を打つとはこういう状態を言うのだろう。
俺の今までの人生の中で、こんなに緊張した事ってあったかな…。
いや、あるにはあったんだが種類が違うっていうのか。緊張の仕方が違う。
それでも伝えなくては。恥ずかしいなんて言ってられない。
大きく深呼吸をして、エドワードはよし!と気合いを入れた。
聞き慣れた兄の足音が近づいてくる。どうやら兄がバスルームから出たらしい。
アルフォンスはお茶のお代わりをトレーに乗せて、キッチンから居間へと移動した。
部屋に入ると兄はソファに腰掛けて、何やら神妙な顔つきをしている。何だろう、やっぱり具合でも悪いのかな。
「兄さん、大丈夫だったの?」
「ア、アル…。」
声を掛けるとピクリと兄の体が大きく揺れて、ボクを見上げてきた。なにその反応。
「ねえ、やっぱり兄さんさっきから変だよ?具合が悪いなら部屋で休んだ方が良いよ。」
「…いや、具合は悪くないんだ、心配すんな。それ、お茶のお代わり煎れてきてくれたのか?」
トレイに乗ったティーセットを指さす兄に頷いて見せると、サンキュと言って嬉しそうに笑ってくれた。
それに少しだけ安堵してテーブルにトレイを置くと、新しいお茶を注いで兄に渡す。
ティーカップを受け取った兄は、漂った香りを嗅いで一瞬不思議そうな顔をした。
「ハーブーティー?こんな時間になんて珍しいな。」
「うん、たまにはいいかなって思って。」
こういう事に疎い兄は、その甘い香りからハーブティーだという事は分かっても、それが何であるかは分からなかったようだ。
リンゴの似た甘い香りのカモミールには、リラックスと共に体を温める効果が期待出来る。ミルクで煎れれば尚更だ。
結構鎮静効果は高いから、ボクはこの手のハーブティーは就寝前の飲み物として煎れる事が多かった。
ミルクが嫌いな兄だったが、蜂蜜を入れたミルクティーは結構飲んでくれる。今も美味しそうに飲んでいた。
良かった、風邪だとしても大した事はなさそうだ。これで夕飯に栄養たっぷりのものを作れば大丈夫かも。
そんな風に献立を考え始めていたアルフォンスだったが、ふいに感じた視線に顔を上げる。
そこには真剣な目で自分を見ているエドワードの姿。
ドキリ
心臓が跳ね上がったのを感じた。
こんな風に凝視されると、後ろめたい想いを抱えている身としては落ち着かない気分になる。
真っ直ぐな眼差しは高潔で、兄に尋常ではない想いを寄せている事を見抜かれてしまいそう。
それにしてもどうしたんだろう。見ている、というより見詰めているって感じだ。
その視線に、頬に熱がたまりそうになってアルフォンスは慌てた。誤魔化さなくちゃ。
「兄さん、ボクの顔に何かついてる?じっと見ちゃってど」
「アルフォンス、好きだ」
『じっと見ちゃってどうしたの』
続けようとした言葉は唐突な兄の言葉に遮られた。
恐る恐るバスルームを出て、ソファに腰掛けた。
いつ言おうか迷っていると、キッチンからアルフォンスがトレーを抱えて戻ってくる。
「兄さん、大丈夫だったの?」
「ア、アル…。」
心配そうに声をかけられて思わずビクリとしてしまう。何て返して良いのか分からない。
「ねえ、やっぱり兄さんさっきから変だよ?具合が悪いなら部屋で休んだ方が良いよ。」
心底気遣ってくれているのが分かる。アルフォンスは優しい。いつだって俺を気にしていてくれる。
体を失っていたあの頃も。自分には感覚が分からないからと、常に俺の事ばかり考えていてくれた。
どうしてこいつはこんなにも、人に優しくなれるんだろう。よくそう思ったものだ。
こういう所も俺はずっと好きだったんだな、きっと。
「…いや、具合は悪くないんだ、心配すんな。それ、お茶のお代わり煎れてきてくれたのか?」
先程スコーンと一緒に飲んだ紅茶は、殆ど飲み終わっていた。
トレーに乗っているのはティーコジーの被ったティーポットと新しいティーカップ。
頷くアルに礼を言って笑ってみせると、少しだけ安心したのか微笑んでくれた。
そんな表情が今更ながら愛しく思えて、何だか胸が苦しくなる。
いつもこうして向けられる笑顔を当たり前のものだと思っていた。
その陰でお前がどんな気持ちでいるかなんて、考えもせずに。
手渡されたのは、甘酸っぱい香りのするミルクティーだった。何度か嗅いだ事のある香りだ。
「ハーブーティー?こんな時間になんて珍しいな。」
「うん、たまにはいいかなって思って。」
紅茶やコーヒーといったものが好きなアルフォンスは、お茶を煎れるのがとても上手だ。
だからそれなりの拘りを持っていて、知識も深くて広い。
ハーブにも関心を持っているので、庭の一部でハーブを育てていて、時々それでお茶を煎れてくれる。
ドライハーブにフレッシュハーブ、どちらを使ったお茶も美味しくて俺は気に入っていた。
でもそれらの殆どはリラックス出来るからと、いつもは寝る前に煎れてくれることが多かった。
特にこの香りは、鎮静効果が高いと言っていたハーブじゃなかったかな。なんて名前だったっけ。
もしかして、だけど。アルは俺の具合が悪いと思ってるから。
寝かせ付けようと思って、ゆっくり休ませようと思って、ハーブティーを煎れてくれたのかな。
弟はこういうヤツだった。
はっきりと分かる優しさと、気遣っている事を気付かせない優しさを併せ持っている。
強くて、前向きで、根性座ってて。
そして、誰よりも誰よりも心優しいんだ。
兄としてアルフォンスを守りたいと、ずっと思ってきた。
魂を無理矢理鎧に繋ぎ止めた、その事に負い目を感じながら。
それでも失えなくて、手放せなくて、きっと辛い思いばかりをさせてきた。
そんな俺を赦してくれた、大切な弟。
俺、アルフォンスが好きだ。こんなに愛せるのはこいつだけだ。
だって昔も今も、俺にはアルしか必要じゃなかったじゃないか。
何も気負うことはないんだ。ただ心のままに正直に、想いを伝えればいい。それだけなんだから。
「兄さん、ボクの顔に何かついてる?じっと見ちゃってど」
「アルフォンス、好きだ」
一世一代の告白、失敗。
…しまった。自分の考えに没頭してたから、アルの言葉を聞いてなかった。台詞を遮っちまった。
しかしもう言い直す事も出来ない。仕方ないからこのまま押しちまおう。
「俺、お前が好きなんだ。」
もう一度告げると、アルは先程言いかけた言葉の形に口を薄く開いて、そのまま固まっている。
見事に微動だにしていないし、瞬きもしていない。それどころか息すらしてないんじゃ、と心配になってきた。
「アル、おい大丈夫か?」
目の前で手をヒラヒラと振ってみせると、アルフォンスがハッとしたように気付いて口元を手で覆った。
慌てたようにパチパチと忙しなく瞬きする姿が妙に可愛らしい。
そして視線をテーブルに落とし、その後そっと上目遣いに俺を見て。あのさ、と躊躇いがちに聞いてきた。
「それって、どーいう意味の好きかって聞いても良い?」
「どーいう意味って、そのまんまなんだが。家族とか兄弟とかじゃなくアルが好きだって言ってるんだ。」
ちゃんと通じてなかったのか。まあ俺も唐突だったし、仕方ないな。
伝わるまで何度だって言ってやるぞ。そんな覚悟もした俺だったが、目の前のアルの変化に気付いてギョッとした。
アルが泣いていたんだ。大きな目をさらに大きく見開いて、呆然としたように泣いていた。
「お、おいアル!何で泣くんだよ!?」
「え…。」
その言葉にアルが戸惑ったように目元に手を当てる。指先に温かくて冷たい水の感触を感じる。
「ボク、泣いてるの?」
「そりゃ俺が聞きたいけどな。そんなにビックリしたか?」
「ビックリというか…、うん、そうだね。ビックリしたかも。」
でもそれ以上に、この涙は。
「嬉し涙だよ。…ボクも兄さんが好きだから。」
そう言って微笑んだアルフォンスにエドワードが近づき抱き寄せる。
長い睫毛に溜まった涙を、そっと唇で掬い取った。
そのくすぐったさに身を捩っていたアルフォンスだったが、ふと抱いた疑問を兄にぶつけてみた。
「ねえ、どうして兄さんはそんなにあっさり告白出来たの。ボクは恐くて云えなかったのに。」
兄さんに嫌われるかもしれない。もう傍にはいられなくなるかも。
そう思うと恐くて、とても伝える気にはなれなくて、あんなにも悩んだのに。
「それはさ、俺はアルの気持ち知ってたから。」
「・・・・は?え、なにそれ、どういう事さ!?」
「だからアルが俺の事好きなのは知ってたから、俺も自分の気持ちに気付いた以上、早く伝えないとと思って。」
「そうじゃなくて、ボクが兄さんを好きな事知ってたってどういう事なの!」
そりゃいつかは気付かれるとは思っていたけど。ずっと必死に隠してきたのに、一体いつばれたんだろう。
「えーと10日くらい前だっけ。お前熱があるかもって、早めに寝ちまった日があっただろ。
あの後俺、気になって部屋の前まで行ったんだ。そしたら…、お前の声が聞こえた。」
10日前、ボクの声。キーワードを元に記憶を辿ったボクは、思い当たった事に顔が火を噴きそうになった。
あの時は、兄への想いが溢れそうで辛くて、色々口走っていたような気がする。
それを兄に聞かれてた…?
真っ赤になって俯いてしまったアルフォンスを、エドワードが慰めるかのようにポンポンと頭を軽く叩く。
恥ずかしさの頂点にきて少々脱力してしまっているアルフォンスは、抵抗もせずに大人しくしている。
それに気を良くして、エドワードはアルフォンスの頭を繰り返し撫でながらこれまでの事を話した。
「その時初めてアルが俺に云えない事で苦しんでるのを知ったけど、その時は俺まだ何も自覚してなかったから。
何を言えば良いのかどうしたら良いのかも分からなくて、知ってたくせに何もしてやれなかった。
俺がもっと早くに自分の気持ちに気付いてたら、アルがあんなに苦しむ事もなかったのに、…ごめんな。」
謝られて思わず顔を上げた。兄は申し訳なさそうに、少し寂しそうに微笑していた。
そんな表情は見た事がなかったから、急に胸がドキドキしてきたけど。兄にこんな寂しそうな顔はさせたくない。
「兄さんが謝ることなんてないよ。こういう事って気付こうと思って気付く事じゃないんだから。」
それよりも、こうして告白してくれただけで充分嬉しい。そう言うと、兄がボクを抱き締める腕に力を込めた。
そうされると更に今自分が兄の腕の中なのだという事を自覚してしまう。
抱き締められている兄の腕の中はとても恥ずかしくて、きっと顔なんて真っ赤になってると思うけど。
それでも、温かくて心地よくて、安らげた。
変なの、心臓は忙しなく脈打っていて息苦しいくらいなのに。
それが煩わしくもなく、腕から逃れたいとも思わずに安心できるだなんて。
やっぱり、貴方は特別なんだ。
ボクにとって、たった一人の兄で家族で、そして大好きな人。
これまでもこれからも、兄さんはボクの中で特別な場所に居続ける。
「ボクも兄さんが好きだから。…大好きだよ。」
今まで云えなかった言葉を、心からの言葉を伝えた。これからはもう無理に想いを殺す事もない。
今まで云えなかった分、たくさん貴方に伝えよう。
離れないで、離さないで。離れないから。
愛してる。だからずっと一緒にいようね。