ボクらがいるべき世界
アルフォンスが髪を切った。あんなにも長く伸ばしていた髪を。
「だって伸ばしてたのは兄さんを捜す為だもん。」
兄に見つけてもらいやすいように。そして「似た人を見た」という情報を得やすいように。
「目的は果たしたんだから、もう必要ないよね。」
「でも、綺麗だったのに…。」
そう言って残念がる兄に、アルフォンスは穏やかに笑ってみせる。
「兄さんの髪の方が綺麗だから、この髪が残っていればボクは良いんだ。」
躊躇いもなく伸ばされた手が、エドワードの長い髪にゆっくりと触れる。
その微かな感触にも彼は小さく身震いした。
滑らかな黄金の髪。指の間からするすると零れていく。
それに触れたいとあんなにも渇望していた。あの時のボクの望みは体を取り戻すこと。
あなたに、触れる事だった。
この2年間、記憶がなかった事は、かえって幸いだったのかもしれない。
生身の体を取り戻したのに、触れる感触も温かさもわかるのに。
一番触れたいと思っていたあなたがいないという事実は、ボクをもっと追い詰めていただろう。
そう思うのも、今無事に記憶を取り戻したから言えることだけど。
たとえどんなに罪を伴う辛い記憶でも、あなたと共に過ごした日々を忘れたままでいいはずがない。
それは代価として失ったとしても。簡単に受け入れていいことじゃない。
「ねえ、ボク兄さんにもっと触れたい。…許してくれる?」
湧き上がる想いのままに口にすれば、兄はうっすらと頬を染めた。
何度か忙しなく瞬きをして、一瞬切なく弟を見たあと小さく頷く。
そんなエドワードに微笑むと、アルフォンスは兄の体をベッドへとゆっくり押し倒した。
ベッドの端に腰掛けたアルフォンスを、エドワードは少し悲しそうに見上げる。
「アル…、その前にオレはお前に謝らなくちゃいけないことがある。」
お前も気付いてるかもしれないけど、と真っ直ぐ自分を見る兄にアルフォンスは答えた。
「気付いてるよ。だけど謝らないで。兄さんが謝ることじゃない。」
「だけどアルフォンス、オレは。」
尚も謝ろうとする兄の口に指を当てて黙らせた。
この柔らかな唇に触れた誰かの事を考えると、今も嫉妬で目が眩みそうになるけど。
「もう何も言わないで。寂しかった気持ちは、ボクだって分かるから。」
目が覚めたら周りは一気に4歳年を取って、仲の良かった幼馴染みは大人になっていた。
さらに見知らぬ人達がボクを知っているという、その居心地の悪さ。
全てに置き去りにされたような孤独感。何より兄さん、あなたがいなかった。
だけどボクには錬金術という希望が残されていたから。
錬金術を勉強し続けていれば、兄さんとも繋がっているような気がしていた。見つけられると信じていた。
でも兄さんは、あの4年間の記憶を失ったわけでもなく、異世界に飛ばされて。
しかも錬金術を奪われながら、帰る道を探し続けていたのだ。
何度も何度も挫折したはずだ。その度に新しい道を探して立ち直っていたはずだ。
そんな苦しい中、あの人がただ一人、あなたを支えてくれた。
そこで何があったって。どんなに悔しくたって、責めることなんか出来ない。
「ボクが兄さんの立場だった時、差し出された手を取らない、なんて断言できない。」
何も関係無い人間だったなら、どんなに優しくされようと心は動かない。
だけどもし、それが兄と同じ容姿を持ち、兄と同じ魂を持つ者だったなら。自分はどうするのか。
色々な葛藤は抱えるだろうが、所詮兄本人ではないとは思うだろうが。ーボク達はそんなに強い人間じゃない。
少しだけ苦いものを胸の内に感じながら、それでも言った言葉は本心だった。
「この2年間、ボクらが離れていたのは曲げようのない事実だ。でもこうして会えた。」
兄の頬に手を滑らす。ひんやりとした感触に、一瞬あの人に一度だけ触れた時の事を思い出した。
こんな風にボクらはきっと、あの人を忘れない。ふとした弾みに思い出すのだろう。
いや、忘れようって方が無理なんだ。それはそれでいい。無理にあの人という存在を忘れる必要はない。
だって彼はボクらにとって特別な人なんだから。
「離れてた2年間の事を無かった事にはできないけど、でも間違いだったわけでもないんだよ。」
あなたがあの人に出会ったのだって、必要なことで。必然だったのだろうから。
離ればなれに過ごした時も、あんなにも苦しんだ時間も。ボクらが再会する為に必要だった。
あの時、あの絶望の中、諦めなかったから今がある。
その為に犯した罪は一生かけて償おう。心に開いた傷は癒さぬまま、血を流しながら抱えてゆく。
同じ罪を抱くあなたの傍にいられるなら、それは辛いばかりのことではない。
「これからの兄さんの時間の全て、ボクがもらうから。」
離れていた時間は、永遠のように長く感じて辛かった。
ボクらは生まれてからずっと一緒だった。2年の空白期間を経て、これからはまたずっと一緒にいられる。
今度こそ離れる事なんてない。離したりなんかしない。
「他の誰にも、一瞬たりとも目を向けさせないからね。」
覚悟して、と戯けたように言うと、兄が泣き笑いのような表情になった。
「お前、何か急に大人びたな。」
「そう?まあ無くしてた4年間の記憶も少しずつ戻ってきたからね。見た目は13歳だけど魂と精神は違うわけだし。」
ボクの言葉に兄が少しむくれたように口を尖らせる。なに、その悔しそうな顔。
不思議に思っていると、兄が本当に悔しそうな声を出した。
「見た目も13歳には見えねーよ。オレがその年だった頃より確実に背が高い。」
「…不機嫌になるくらいなら言わなきゃいいのに。」
あーあ、こっちは敢えてその事には敢えて触れないでいたってのな。
溜息混じりに言うと、兄がお前いつから気付いてたと真剣な顔で聞いてくる。(真剣というか殺気立ってるというか)
「だってあのコートとか、残されてた兄さんのコートを参考に作ったんだけど、去年辺りからサイズが同じくらいになって。」
15歳だった兄さんと12歳だったボクが同じくらいのサイズって。言っちゃいけないかな〜って思ってたのにさ。
「じゅ、12歳のアルとあの頃のオレの身長が同じ…。」
ショックの為か顔が青ざめてこわばる兄を見て、アルフォンスはたまらず吹き出してしまった。
「良いじゃない、今は兄さんの方が高いんだから。」
だがアルフォンスの台詞は、兄の慰めにはならなかったようだ。
「お前な、今オレ達年齢差何歳だと思ってるんだ!?5歳だぞ!なのにすでに殆ど変わんねーし!!」
頭を抱えてうおおおお、と変な呻り声をあげる兄に、弟としては苦笑するしかない。
どうやら兄の身長コンプレックスは一生払拭されないらしい。
「兄さんも成長期なんだから、まだまだ伸びると思うよ。一緒に成長していこうよ。」
肉体的なことだけじゃなくて精神的にも。あなたと一緒に成長していけることは、何よりも嬉しい事だから。
アルフォンスの言葉に、エドワードが少し驚いたあとくしゃりと顔を崩して笑った。
泣きそうになるのを堪えるような、でもとても嬉しそうな笑顔で。
元の世界の懐かしい人達に会えないことは寂しいことだけど。あなたがいるこの世界が、ボクがいるべき場所だと思うから。
ボクがあなたの帰る場所になり、あなたがボクの帰る場所になれば。それだけでもうボクらは充分に満たされる。
ボクらの存在はこの世界にとって、異質なものかもしれない。犯した過ちは償えないかもしれない。
それでも、ボク達に出来ることを全力でやるだけだ。
これからはずっとあなたの傍にいる。
あの頃のように、あの頃以上に。あなたの傍を離れない。
アルフォンスは愛しさのまま兄の体に覆い被さり、ギュッと強く抱き締めた。