Rain, later sunshine.
雨が降っている。 地面に跳ね返るほど強くもなければ、傘が不要なほど弱くもない。 ちょうどいい塩梅の雨がっている。 どっしりとした木の幹に体を預けて、彼は葉の先から滴る雨粒を無心に見つめた。 夕食前の、忙しないがどこか空白を感じさせる時間。 修行を終えて部屋着に着替え、まったりケーキの本でも眺めようと思っていたところに、呼び鈴が響いた。 「父さん、俺が出るから」 家事の手を止めて台所から顔を出した父に言うと、良守は軽い足取りで玄関に向かう。 まだ日が落ちる時間ではないが、分厚い雨雲のせいで外はもう薄い闇に支配されていた。その中に立つシルエットに「今開けまーす」と声をかけ、サンダルをつっかけて鍵を開ける。そして、 「げっ」 一声ヒキガエルのような声を上げて、彼は後退った。 「ただいま」 人の悪い笑みを浮かべて良守を一瞥すると、兄は硬直した彼の脇をすり抜けて家の中に入る。 「おかえり!」 声を聞きつけて顔を出した父と弟が声を上げたために、彼の「なんで帰ってきた!」は口に出ることなく終わった。 一人モゴモゴとしている彼を余所に、駆け寄った家族が口々に正守に話しかける。 「正守。ずいぶん濡れてるじゃないか」 「僕、タオルとって来るね!」 「ありがとう」 たたきに立ったまま歓待をうける正守の声に、先ほどとは違う柔らかさを感じて、その事実がますます良守を頑なにさせた。 ガラガラと大きな音を立てて戸を閉め、むっつりと背中からもたれかかる。 本当はさっさと家に上がりたいのに、前がふさがっていてそれも叶わない。 兄を押しのけてでも入らないのは、肩越しに見える父の笑顔が底抜けに嬉しそうだったからだ。 その父は、駆け戻った利守と二人がかりで、濡れた服を拭いている。 「いいよ。自分でやるから」 「自分でって、背中は無理だろう? ほら、後ろ向いて」 その言葉にあっと思った瞬間、問答無用で後ろを向かされた正守と、しっかり目が合ってしまった。 とっさに逸らした視線の端っこに、皮肉に歪んだ口元が引っかかる。 狭くはないはずの玄関先が、黒い男に圧迫されて妙に息苦しかった。 気分の問題だとわかっていても耐え切れず、部屋着の襟首に指を入れて気道を確保する。 良守がそうして気持ちを落ち着かせている間にも、父の弾んだ声は止まらない。 「晩ごはん、まだだよね?」 「うん。そう言ってくれるの期待して、食べてこなかった」 如才ない嬉しがらせに、父は背中の水滴を拭いながら照れたように笑う。 「ちょっと身体冷えてるね。食事の前にお風呂に入って温まるといいよ」 「別にそこまでしなくても……」 「正守。気を遣う必要ないんだよ。今お風呂にはおじいさんが入ってるから、その後だけど、ね」 遠慮がちに断ったところで、おもてなしモードに入った父は止まらない。そこにすかさず利守が口を挟んだ。 「正兄、僕も一緒に入っていい?」 場を収めようとしたのか、父を後押ししたのか、純粋に甘えたかったのかはわからない。 だが、その一言が落とし所になった。 「そうだな。……久しぶりに一緒に入ろうか」 至れり尽くせりの立場に戸惑いながらも肯いた正守に、利守が歓声を上げてしがみつく。 「良兄は?」 完全に「感動の再会劇」の観客と化していた良守は、突然名前を呼ばれて、きょとんと首を傾げた。――俺が、なに? 「お前も一緒に入る?」 傍観者から当事者へ。切り替えができないまま、目を瞬かせている彼に、言葉を補う形で正守が尋ねる。 その気のなさそうな声に、ようやく事態を把握した良守は、慌てて否定した。 「じょ、冗談じゃねー!」 「だよなー」 「だよねー」 腹が立つくらい仲良く口を揃えた兄弟に、むっとしかめ面を作るが、二人が今更良守の機嫌を気にしてくれるはずがなかった。 「大体、お前まで入ってきたら風呂が狭くなる」 「お前がっ! 一番、場所取るんだろ!」 「そもそも正兄がお風呂に入るのが主眼なんだから、そんな前提を覆すようなこと言っちゃ駄目だよ」 大きな手に捕まりながら、利守が呆れた目で良守を見上げる。その台詞に、彼の中の何かが弾け飛んだ。 雨のたそがれ時。道行く人がいないのをいいことに、良守は雨避けの結界を作った。 ポツリポツリと滴り落ちる水滴を眺め、良守はため息を押し殺す。 しっかりものの弟にたしなめられるのは日常茶飯事なのに、今日に限ってなぜか我慢ができなかった。 いつもと同じじゃれあいのはずが、彼がいきなりルールを破ってしまったから、あのき真面目な弟はきっと「兄を傷つけた」と思っているに違いない。実際に傷つけたのは、良守の方なのに。 早く帰って安心させてやらないと。そう思っても足が動かない。 雨が降ってるから。 傘を持ってないから。 帰りたくない理由ではなく、帰れない理由を数え上げて、良守は強く唇を噛み、痛む胸を押さえてうつむいた。 どのくらいそうしていたのか。足元の水たまりに黒い影が映りこみ、こわごわと顔を上げた良守は、予想通りの相手を見つけて長いため息をついた。 「利守が泣きそうだったぞ」 「……うん」 咎めるのではなく淡々と事実を伝える声に、自分でも意外なほど素直に肯けた。しかし、続いた言葉には思わず顔をしかめる。 「別に俺を好きになれとは言わないけど、せめて利守の前でくらい平気な顔できないのか? 利守にとっては、どっちも大事なお兄ちゃんなんだからさ」 「説教すんな」 良守が不機嫌に吐き捨てても、相手は顔色も変えない。 「そのつもりはないけど、これを説教だと感じるのは、お前に原因があるんじゃないの?」 言い返す言葉もなく、うつむいたまま口を噤む良守を諦めたのか、彼が身体を預けた木に傘を立てかけた。 「ここに置いておく。ちゃんと落ち着いてから帰って来い」 それだけを口にして先に帰ろうとする兄の背中に向かって手を伸ばす。 「待てよっ!」 物心ついてから何百回となく口にした台詞を、今もまた口にする。本当に足を止めてくれたことなど数える程度しかない。 今回も届くはずのなかった手は、しかし予想に反して、しっかりと正守の腕を掴んだ。 「え、っと……」 予期せぬ事態に言葉が続かない。 「何?」 そっけない態度に腹は立っても、手を離そうとは思えない。振りほどかれないことにも後押しされて、良守は口を開いた。 「別に、嫌いなわけじゃねーよ」 言った後で、突拍子がなさ過ぎた気がしてひっそりと後悔するが、一度口にした以上、言葉を取り消すことは出来ない。 どこか呆けた表情の兄に視線を流し、何気ないふりで隣を指した。 「ちょっとだけ、つきあえ。一緒に帰った方が利守だって安心するだろ」 とってつけた理由でも、言葉にするとなんとなくそれっぽい。ためらいながらも傘を閉じ、隣に移動した正守にほっと息をついた。 あらためて木に体を預けると、良守ははたと困ってしまった。――何を話せばいいんだ。 言いたいことがないのではなく、ありすぎて言葉にならない。 良守が言葉に詰まっているのを察して、正守は何も、文句も言わず静かに良守を待っている。 今ならきっと、正守の心まで言葉を届けることができる。 そう確信した良守は、溢れそうな感情を抑え、ちゃんと言葉を整理して、と頭の中をフル回転させた。 一方的な押し付けじゃない気持ちを伝えたい。 だけど、 「兄貴、なんかしゃべれよ」 「……お前ね」 穏やかで居心地のいい空気が、いきなり弛緩した。 「言いたいことがあるから呼び止めたんじゃないのか?」 「そうだけど、何から話していいかわかんねーし、そうやって黙って待たれると、焦るってか煮詰まって、もっとわかんなくなった」 呆れを通り越してがっくりと肩を落とした正守の声に、良守は堂々と言い返す。 「待たされた文句でも言えばいいのか?」 「違うって! もっとこう……会話のキャッチボールっての? 話しやすい雰囲気っての作れよ!」 良守の破れかぶれの欲求に生返事を返し、ついで正守は楽しそうな笑みを唇に浮かべた。 「それじゃ、さっき言ってた「嫌いじゃない」について、どういう意味なのか聞かせてもらおうか」 初っ端から核心を突かれて、良守は言葉に詰まった。 「で、どうなんだ?」 「考えてんだから、ちょっと黙ってろ!」 容赦なくせっつかれて、焦りのあまり矛盾したことを口にする。正守の口からため息が漏れたが、もう構っていられなかった。 「あ、兄貴は、俺のこと嫌いか?」 「別に嫌いじゃないよ」 決死の覚悟で尋ねた問いは、間もおかずにさらりと返される。 頭の中が爆発しそうになりながら、良守は前のめりに言葉を続けた。 「じゃ、す、すすすす、す」 「好きかどうか聞きたいんだったら、好きの範囲に入ると思うぞ」 肝心の言葉が喉の奥に詰まって言えないうちに、正守が口を挟む。一瞬、最後まで言えなかったことを怒るべきか、言葉の内容を喜ぶべきかで混乱したが、とりあえず後回しにして、良守は大きく息を吸い込んだ。 「お、俺も」 「俺も?」 「お、れも、兄貴のことは、す、好き……の中に入れてるから!」 「ふぅん」 「んなっ、なんだよ。信じてねーな!」 無感動な返事にふて腐れて、ぴちゃっと足元の水たまりを跳ね上げる。 「そう言われても、俺の顔を見るたびに嫌そうにされたんじゃ、信じようにも無理だよなー」 耳の痛い事実だが、かと言って、良守は黙って引き下がることのできない性格だった。 「あ、兄貴だって、俺の顔見るたびに説教するじゃないか!」 「アレは、愛のムチ」 むきになって反論すれば、あっさりと打ち返される。――そんな愛なんていらないと思いつつ、彼は言い訳がましく続けた。 「……だって、今までずっとこうだったから、今更どんな顔したらいいか、わかんねーし」 新しい関係には新しい距離感が必要で、彼はそれをすぐに掴めるほど器用ではない。 「ああ。それは、なんとなくわかる」 なぜか朗らかに声を上げて笑い出した正守を見上げると、それを察してか、良守の疑問に答えるように話を続けた。 「自分で決めて家を出て、それで勝手に敷居を高くして、帰りづらいって思ってるのに、父さんたちはなんでもなかったように迎えてくれる。それは嬉しいしありがたいけど、なんとなく後ろめたい」 不思議な気分で正守の告白に耳を傾ける。――そんな風に感じているとは欠片も思わなかった。 「さっきも寄ってたかって大事されて、なんか珍獣になった気がした」 家族――特に父は、ずっと家に寄りつかなかった長男が、このところ頻々と顔を出すので嬉しくてたまらないらしい。それは、良守の立場から見ても仕方がないと思う。父は、なにより家族が大切な人なのだから。 どうしても珍獣扱いから逃れたければ、方法は一つだ。 「もっと帰ってくりゃいいだろ」 シンプルかつ効果的な提案に、正守はただ喉の奥で笑う。 「お前さえ嫌な顔しなかったらなー」 「どうしても俺のせいかよ?」 不機嫌に突っ込んだところで、会話が途切れた。 流れた沈黙は重苦しいものではなかったが、どうしても説明の必要を感じて良守は口を開く。 「だから、嫌いなわけじゃねーって言ってるだろ! 一回くらい人の言うことを信じろよ!」 「……ふぅん」 その短いセンテンスにはどんな感情が含まれているのか。わからないまま、いつもどおりに憎まれ口を叩いた。 「昔ほどじゃないってことだからな!」 やっぱり、こっちの方が調子がいい。はっきりとそれを確信して、良守は満面の笑みを作る。 「よし、そんじゃ帰ろうぜ!」 言うや否や、返事も待たずにさっさと傘を広げた。 「突然だな」 「え、だって腹減ったし、父さんたちも心配してるだろうし、それに……なんかスッキリしたから、もうイイや」 不要領顔の正守にケロリとした顔で答えると、良守は意気揚々と歩き出す。後ろからついてくる忍びやかな気配に、良守の口元から自然と笑みがこぼれた。 |
「Unfinished.」安野さんの4周年記念フリーSSです。
もうね、この兄弟以上恋人未満の微妙な距離にニマニマです!
君達一生好きとか言い合ってれば良いよ!
安野さん、遠慮なく強奪させていただきます。ありがとうございましたv