いつものように、気配はすぐ近くに来るまで悟らせない。
中等部の屋上は、高等部に上がった今でも特別感慨深いものがあって、夜には無意識に足が向いてしまう場所でもある。 その中等部の屋上で結界の上に寝転がりながら、良守は不意に生じた気配が近づいて来るのを待った。 自分から一定の距離を取って動かなくなった気配に良守は緩慢な仕種で体を起こすと、背後の兄へと向き直る。 顔を合わせるのは(前回のあれが顔を合わせた内にはいるのなら)一ヶ月ぶりだった。 月明かりに照らされた兄の表情は、呼び出された苛立ちこそ浮かんではいなかったが、酷くつまらなそうだ。 「お前ね、そんな年になってまであんまり弟に心配かけるんじゃないよ」 そんな呆れた声音で牽制してみせても、いつもみたいにそれに乗ってやる事は出来ない。 利守の言葉が脳裏に浮かぶが、端から自分は話し合うつもりはないのだ。 心は、これから実行しようとしている大それた計画を前にしても静かに凪いでいる。上体を起こしたままで座り込んでいる自身の結界から、いまだ動かずにその時を待つ。 もう少し。 焦りはない。ただ来るべき瞬間に備えていつでも術を繰り出せるようにしておく。 黙ったまま動く気配の無い良守に、やがて正守の方が諦めて近づいて来た。 その刹那。兄の一歩が更に踏み込まれたタイミングで、床面と平行に平たい結界を成形して兄の足を浚う。 兄の身体が不意を突かれてバランスを欠いた一瞬で、良守は正守の身体をそのまま結界に押し倒し素早く両手を拘束すると、正守の頭の上に念糸で縛り上げた上で更に結界で固定させた。 兄に乗り上げたまま見下ろす良守の視線と、さすがに驚きを隠せない様子の正守の見開かれた眼がぶつかる。 見上げる弟の表情に本気を感じ取った正守は、本能で繰り出そうとしていた攻撃を身体から力を抜く事で制した。 そんな兄を依然無言で見下ろしたまま、良守はあっさり兄が掴まった事に内心では拍子抜けしていた。簡単には掴まってくれないだろうと思っていたのだ。多少の血を見ることも辞さない覚悟で臨んだというのに、予想に反して兄はあっさりこの手の中にいる。 けれど、やはり兄は兄で。 「良守」 命ずることに慣れた口調は、言外に開放を要求していた。 真っ直ぐ射抜くような瞳に、常時の自分なら抵抗出来ない程の声音と眼差しが向けられる。それに抵抗する事は、弟としての良守には難しい事で、こんな状況にあってさえ兄弟のそれを崩そうとしない兄に胸が痛む。 それでも、離したくない。 この狂おしいまでの想いは、既に引き返せない程に自分を支配している。 ずっと長く、とても強く、この存在に囚われて来た。 一度は拒まれても、どうしても諦める事が出来なかった。想いを告げる事はしない。だけど、想う事だけは否定されたくない。 そんな自分を、もう兄は何も言わずにただ受け止めてくれていた。 自分が何もかもを捨てる覚悟で向き合えば兄はきっと拒まないだろうと、そんな確信まで抱けるほど、交わす視線にお互いが熱を感じていたはずだった。それでも一歩を踏み込む事ができなかったのは怖かったからに他ならない。既に一度、この生を受けた時点で歪めてしまった兄の道を、これ以上自分の所為で歪めてしまいたくはなかったのだ。 けれどそれも、もう、どうだっていい。 拘束されてなお泰然とある兄に、今は強烈な失望と怒りしか浮かばない。 「逃げるなんて、許さねぇから」 訝しむように細められた瞳を無視して、強引に唇を重ねた。初めて唇に触れる他人の体温に、心臓がドクドク音を立てる。今現実に触れているのが焦れた兄の唇だというだけで、もうどうにかなりそうだ。 成長期に入って随分と伸びた背はそれでも兄にはまだ及ばないけれど、こうして唇を合わせるのに不自由はない。 結婚だとか、子供だとか、そんなもので自分達の今までを断ち切る事が出来ると思ってるなら、そんな浅い考え根底から覆してやる。 逃げを打たれる前に隙を突いて滑り込んだ口内の、熱い粘膜に眩暈を覚えた。その甘い陶酔に、長い間必死の思いで自制していた理性が瓦解してゆく。 中三に上がる年の春休み、兄の手伝いの名目で赴いた神佑地での出来事。あの時に自覚してしまった自分の兄に対する歪んだ感情は、それ以降、心身が成長するにつれて幾度も自身を苦しめた。 紛れもなく血の繋がった、同腹の兄弟だ。 その兄を、何よりも誰よりも大事なのだと思う気持ちを、自分ではどうあっても止めることが出来ないでいた。それどころか、月日が流れ身体が成熟してゆく過程で、欲望の向かう先にあるのは、いつも兄の姿で。 本来なら隠し事も、我慢する事だって得意じゃない。グダグダ悩むことは性に合わないし、出来る事ならさっさと吐き出してすっきりさせたい。けれど、この想いだけは吐き出してはいけないことぐらい容易に知れたから。悟られてはいても口に出す事はなかった。 弟の右手に方印があるせいで生家を出て行かなければならなかった兄に、どうして不用意に想いを打ち明けられるのだ。 あの神佑地での一件で、兄に疎まれているとばかり思っていた自分の考えが間違っていた事を知った。 盟友だった男を前に、生死を賭けた闘いを仕掛けに行ったのだろう。言いつけを守らず踏み込んで兄に不利を強いた自分を、それでも最後は見捨てる事をしなかった。 居場所を奪った弟にさえも向けられる優しさに、兄の中に強さを見た。けれどその強さがいつか、兄自身を窮地におとしめはしないだろうか。 今思い返してもぞっとする。 あの時、もし兄が帰って来なかったら自分はどうしてただろう。自分の手の届かない所で、知らぬ間に兄を失っていたかもしれない。その恐怖はトラウマとなって今でもこの胸に巣くっている。 その身に迫る脅威からなら、供に並び立って戦う事が出来るはずだと、あれから自分は更に真剣に修行を積んできた。 けれど、こんな結末は想像だってしていなかった。 今は吐き出せない想いを、それでもいつかは兄へ告げる日がくると信じていた。 受け入れられる事はなくても、自分達の関係が揺るがないものになれば伝える事も出来るはずだと思っていた。 間違っていたのだろうか。交わす視線に含まれる熱を、互いに知っていて触れずにいただけだと思っていたのに。 もっと早く、こうしていればよかった 口腔を犯しながら、綺麗に整った袷を強引に暴く。自分よりも成熟した身体に掌を這わせると、組み敷いた身体が微かに震えた。 上昇する体温に、着物に染み込んだ香が匂い立つ。兄の香りを認識して、身体が一層熱を溜める。 嫌悪されても、憎まれてもいい。 奪われるくらいなら、無理矢理にでも自分の元に縫い留めてしまえばいい。 思いの強さが結界の強度に影響を及ぼすのなら、それこそ絶対に破られはしない。この想いは、何よりも強く自分の中に在る。 その存在を手に入れたくて、おかしくなりそうだった。 それでも湧き上る情動を何とか制して、良守は強い瞳で兄の視線を捕らえた。口を開こうとして、けれど思うように言葉が出てこない。 これを言ってしまえば、もう後戻りは出来ない。 自分の試みが成功しても失敗しても、自分は永遠に兄を失う事になるだろう。 その予感に一瞬躊躇を覚えた心を叱咤する。 俺は今まで、ちゃんと抑えてきただろう? 吐き出せない想いが滲んでしまっても、それを言葉にする事はしなかった。その事を、兄なりに理解してくれていたのではなかったのか。それとも、そんな弟に付き合うのはそれ程に我慢が出来ない事だったのか。 甘えていた自覚はあった。だけど、それを許してきたのは兄貴じゃないか。 完全な逆ギレの自覚はあった。けれど良守は今度こそ、口を開く事に躊躇をしなかった。 「俺、ホントにもう、嫌なんだ。自分の気持誤魔化して、兄貴が離れて行くのを黙って見てるのは」 吐き出された言葉を聞く正守の表情は、こんな状況にあっても揺るがず静かだ。良守は見下ろす視線で深い黒の瞳を真っ直ぐに貫いた。 「駄目だって言われた時から、何一つ変わってない。俺は、兄貴が好きだ」 はっきりと告げられた言葉に、正守は初めて絡み合う視線を嘆息と共に瞼で遮った。 そんな正守の、伏せられたまつ毛が頬へ落とす影にさえ、魅せられる。胸に沸き上がる愛しさは最早甘さなど欠片も含んではいない。 暴走しそうな感情を無理やり押さえ込んで、良守は兄の答えを待った。兄の瞳が現れるまでのほんの数秒が、いやに長く感じられる。 やがて開かれた瞼から覗いた漆黒の瞳が、潤いを含んで艶やかに瞬いた。 「お前、自分が何を言っているのか分かってるか?」 かすれた声音に宿るのは、いつものような軽いものではなく真実を欲する静かな問いだ。 想いを告げる言葉は、タブーだった。 ここで引けば、兄はそれ以上を追求しないだろう。こんな事をしている弟を許し、何も無かった事にしてくれるに違いない。そして今まで以上に距離を置かれ、やがて完全に自分の前には気配も見せなくなるのだ。 手に取るように分かるその後の兄の行動に、歪んだ笑みがこぼれる。 引こうが進もうが結果はどうせ同じなのだ。 それなら、引き返すつもりは毛頭ない。 「生半可な気持で、こんな事出来るかよ」 良守は肌蹴た装束の隙間から素肌に置いた手を正守の胸の突起に滑らせ、指先の刺激で芯を持ったそれに爪を立てて欲を示す。 「兄貴が拒んでも、もう放すつもり、ねえから」 宣言と同時に良守の強固な結界が二人を囲う。 強い意志を宿した良守の瞳に、しかしその時、正守がふと破顔した。からかいや嘲笑とも違う、芯から湧き出たというような微笑みだった。そのあまりにも場違いな笑顔に、良守が一瞬動きを止める。 「兄貴、分かってんのか?俺、本気だからな」 「ああ。分かってるし、拒む気もない」 そう言ってなお笑う正守に、良守の視線が釘付けになる。艶を含んだ笑顔は良守を赤面させる程に魅力的かつ美しい。 「いいから。お前のしたいようにすればいい」 「…ッ、兄…貴!」 堪らない。触れたいと思っていた人が、自分の下で笑う。その誘うような視線に良守は抑えていた情動を解放した。 先ほどの強引な口付けで色づいた唇に再度己のそれを重ねる。薄く開かれた隙間から舌を滑らせれば、待ち構えたように正守の舌が絡みついてきた。絡め合わせ、伝う唾液で熱を確かめ合う。一方的ではない口づけは良守に深い陶酔を植えつける。 口付けも身体を重ねる事も、何もかも初めての経験だったが、長く焦がれていた心が自然と身体を突き動かした。 とにかく触れたい。全身で兄を感じたい。その欲求に忠実に自分の手が動いてゆく。身体は熱くなっていくのに、思考は冷静に肌を辿る軌跡と兄の反応を拾っては記憶に刻み込んでゆく。 絡めた舌を解いて首筋の薄い皮膚に口付けると、刺激を敏感に受け取った身体がぴくりと震えた。乱れた呼吸を耳に感じて、堪らずに何度も口づけては肌を辿る。 「…っ……ぁ」 微かに零れた喘ぎに一気に火がついて、後はもうわけも分からず痕を残しては貪ることを繰り返してゆく。肌から匂い立つ色香が、甘い誘惑となって良守の正気を削ぎ落とした。 鍛えられた身体は欠片も柔らかさを持ち合わせてはいないけれど、整った筋肉が覆う引き締まった肉体はとても美しい。随所に残る傷痕さえもその美しさを損なわせはしない。辿る掌が感じる、抉られた肉が盛り上がるその稜線にさえ引き寄せられるのだ。自分の手が辿る身体をもっと見たい衝動に駆られて、良守は身を起こして真上から拘束している兄を眺めた。 乱れた装束から覗く肌は、夜を常とする生活のせいであまり日には焼けていない。自分と同じ、鍛えても表面に筋肉が大きく隆起する事の無い肉体は、組み敷く身体に同じ血が流れている事を物語っていた。自分より遥かに少ない傷痕をひとつひとつ目で確かめていく。 自然と、言葉が零れた。 「兄貴は、きれいだな」 押さえつけた身体を上から見下ろす良守の表情には、どこかうっとりとしたような陶酔の表情が浮かんでいた。 その言葉と視線に、正守が一瞬瞠目する。 「…お前は時々、変なことを言うよね」 良守の掌が肌を撫でるのが心地よいのか、クスクスと笑う声には、けれど確かな艶が含まれていた。 「何だよ。俺は本当のこと言ってるだけだ」 「お前、ちょっと夢見すぎなんじゃないの?」 相変わらず面白そうに笑う正守に、良守は憮然とした表情を浮かべる。 「お前こそ、バカじゃねえの?兄貴のどこに夢見ろって言うんだよ」 綺麗な女の人を見て思うのとは全く違う。自分が兄に対して劣情を抱いているからでもない。ただ、兄の存在全てが良守にはうつくしく見えるのだ。 例えどれ程汚い事に手を染めようが、何人の人間を殺していようが、その本質がいくら闇に近づこうが、その姿がぶれる事はない。 潔いまでに運命と戦い、血まみれになろうが切り開くその姿勢こそが何よりもうつくしい。 そのうつくしい人をこれから自分が犯すのだと思うだけで、身震いが起きそうな程の罪悪感と、同時にそれを凌ぐ程の愉悦が沸き起こる。 「夢みる要素はねえけど、兄貴はきれいだよ」 良守の真剣な声音に、正守は笑いを引っ込めて真直ぐに良守の視線を受け止めた。 「…良守。手の結界、解け」 しようと思えば自分で解除できる結界だろうに、敢えて解放を要求してくる。 最初の拒絶とは違う響きを持っているその言葉に、躊躇したのは一瞬だった。 周りを巡らせた結界はそのままに正守の腕を拘束している方に解除をかけると、自由になった腕が良守を引き寄せた。 「お前、俺をどうしたいの」 |