道程
「何か、お手伝いさせて下さい」
「……いや、別に大丈夫なんで」
「でも…」
「ホントに、好きでやってる事だから、手伝いとかそーゆーの、いらないし」

 ボールに入った生クリームを泡立てながら相手の顔も見ずに断れば、言われた相手はしょんぼりと項垂れてしまった。

 どうしろってんだよ。

 思わず吐いた溜息を聞かれて、更に落ち込ませてしまう。

 頼むから放っておいてくれ。

 本音が出そうになった口をグッと噤んだ。
 繁守がいない久しぶりの休日に、ここの所ひどく荒んだ気分を癒そうとケーキの城作りを始めたのに、これでは台無しもいいところだ。
 良守は諦めて器具を置くと、一つ深呼吸をして気持ちを落ち着け、いまだ後ろで項垂れている女性を振り向いた。

「グレープフルーツのジュレ、作ってやるから。妊婦さんはそっちで休んでろよ」

 無理やりなんとか笑顔を浮かべて声をかければ、俯いた顔をパッと上げて嬉しげに笑う。花のような顔(かんばせ)のその人は、一月ほど前に正守が連れてきた佳人だった。
 連れてきた本人は祖父との話が終るやいなやその足で裏会に戻ってしまい、後には“よしの”という名の妊婦が残された。
 正守の連れてきたその人が正守とどういう関係なのか一切誰も何も言わないが、あの正守が自分と関係の無い、しかも身籠っている人間を実家に連れて帰ってくるなどありえない。そう思えば、言われなくても答えは窺い知れる。現によしのはそれからずっと墨村で暮らしているし、祖父も父も弟も、それを当然のように受け入れて接している。いつまでたってもその現実を受け入れられないのは、良守だけだった。

 兄に愛され、その証を身に孕む存在を、どうして受け入れられるというのか。

 終わりの見えない片恋に身を置いて、こういう事態だって起こることは予測の範疇に入っていただろうに。
 自分の覚悟の甘さが痛感された。
 感情が上手くコントロールできないのは、久しぶりだ。
 この四年間で思慮深さというものを身につけたはずなのに、こと兄の事になると途端に十四歳のあの頃に戻ってしまう。

 よしのが来てからの一ヶ月、良守は極力よしのと接触しないように気をつけてきた。
 学校のある平日は早朝の鍛錬はしないのが常だったが、家族とよしのの揃う朝食の席に着きたくないが為に、眠い身体に鞭打って朝から道場に籠もったし、夕食時は足りない睡眠時間を補うのに当てた。そんな生活を続けていたせいで、ここのところ父親意外と顔を合わせることが少ない。あからさまによしのを避けている良守の態度に、弟の利守は含みのある目を向けてきたが、結局何も言わずに溜息だけ吐かれた。兄の大人げなさを埋めるように、よしのに優しく接している場面を見たことがある。

 八つ当たりだって事はわかってるんだ。

 居間へ向かうよしのの後姿を見送って、良守は視線を下に落とした。
 よしのがどこから来たのか、いつまでこの家にいるのか、どこで、兄と出会ったのか。知りたいと思う気持もあったが、それを聞いてしまえば色々な事を自制出来る自信がなかった。
 自分の中を荒れ狂うのは、嫉妬などという可愛いものではない。その自覚があるからこそ、不用意によしのに接触するのを避けている。
 彼女に罪はない。ましてやその腹に宿る命には尚更。
 今まで生きてきて、こんなに辛い思いをしたことがあっただろうか。
 これが兄の出した答えなのだと無理やり自分に言い聞かせようとしても、全然納得出来ない。
 溜息さえも吐けずに唇を噛み締める。

「良兄」

 居間にいたはずの弟の声に、良守ははっとして顔を上げた。近づく気配にも気づけないほど落ち込んでいたらしい。
 こちらを窺うように見て、利守は暫く逡巡したかと思うとゆっくり口を開いた。

「僕が口出すことじゃないのかもしれないけど…。ちゃんと正兄から話を聞いた方が良いと思うんだ。帰ってくるように式を飛ばしたらさっき返事が来たよ。今夜、烏森に来るって」

 昔から長兄と次兄の複雑な関係を何も言わずに見守ってきていた利守も、中学生になった。聡い子だから長男と次男の間に流れる微妙な空気に早くから気付いていて、それでも見守るだけで口を出すことはしなかったが、さすがに今回はそんなことも言っていられない状況だと判断したらしい。

「そんなに…」

 俺、ヤバそう?

 言葉にならない最後の問いを拾って利守が苦笑を浮かべる。

「そうだね。ここの所の良兄はちょっと、普通じゃないよ。でも、それに関しては僕にも責任があるから」

 ちゃんと話し合いなよね。

 言うだけ言って背を向ける利守に、あいつはどこまで分かってるんだと背筋に冷や汗が伝う。

 今夜。
 兄がやってくる。


 どうしたらいいのかなんて、まるで分からない。気を抜けば思考はすぐに深い暗闇に潜ってしまうのだ。暗い思考は思いもよらない危険な夢を見せる。


 そしてそれを、浮上させないでいるのには相当な努力が必要になっていた。





* * *





 経験では劣るのは、分かってる。
 力はおそらく互角、と思いたい。パワーには自信があるから、短期戦ならなんとか俺にも分があるはず。
 そこまで素で思考を巡らせて、ふと我に返る。
 深夜の烏森で天穴に身を預けて、良守はハァ〜と大きく溜息を吐いた。

 何、考えてんだ俺。

 長いこと胸の内に秘めてきた想いは、正気でいるのが困難な程の飢えをジワジワと身体に浸み込ませていた。
 それがよしのの出現で、あっという間に浸透してしまった自覚がある。

 今の自分は多分正気じゃない。

 心の中はぐちゃぐちゃもいいところで、こんな精神状態で兄に合うのは正直避けたい。
 進む事も、一歩も引く事も出来ない状態でここ数年を過ごしてきた。
 兄の事が好きだというこの気持ちを、自分は言葉に出した事はない。出した事はないが、それでも兄には伝わってしまう。

 あれは、いつの事だっただろう。



 自分の気持ちが最早引き返せないところまで来ている事に、焦燥を覚え始めて間もない頃だった。
 深夜に及ぶ仕事から帰ってきたら、いつもは閉じられている長兄の部屋の襖が開いていた。

『帰ってたのかよ』

 文机に向かって何かを読んでいる背中に声をかければ、おかえり、と明らかに読み物に熱中している様子でおざなりに声を掛けられる。
 暫く見てなかった姿に、せめてこっち向けよとムカついて兄の部屋から離れようとしたところだった。

『良守』

 呼び止められて向けていた背を返すと、いやに真剣な色の瞳とぶつかる。

『足、見せろ』

 兄の口から出て来た言葉に舌打ちをした。兄が帰っているなんて考えもしなかったから、時音と別れてからは気を抜いていたのだ。歩き方で気付かれたに違いない。その夜の戦闘で負った傷は他にもあったが、足の捻挫が一番重症だった。

『ただの捻挫だって』

 自分の未熟を曝したくなくて適当な事を言ってみるが、最初からそんなごまかしは通用しない相手だった。

『いいから』

 有無を言わせない強さにしぶしぶ部屋に入り、兄の前に座って足を投げ出す。ふて腐れた心はしかし、一瞬後には足に触れた兄の長い指に、惹きつけられていた。
 袴から覗く腫れた足首に、懐から出した軟膏をすくって手のひらで擦るように塗りこまれる。
 触れた時の冷やりとした温度は兄の手が動くたびに暖かくなって、まるで体温が溶け合ったようだと頬に熱が集中した。
 前までは、こうやって兄の方から触れてくる事など全くなかった。その前に自分からは近づく事もしなかった。無意識にしてはいけない事だと位置づけていた事が、実は本能からくる自己防衛だったのだと気付いたのは最近の事だ。
 近づけば、否が応でも心が引き寄せられる。無条件で心が反応を示すのは、この兄ただ一人だけ。
 姿を見れば身を切られるような痛みが生じるのは今も昔も変わらないけれど、その痛みの意味を、自分はもう間違えはしない。深く掘り下げれば帰結する真実はたった一つだけ。
 ああ。自分はこんなにも、この兄が好きなのだと。その度に噛み締める恋情は甘い物ではなかったけれど…。

 心が、どうしようもなく痛い。

 自覚してしまった恋情は、まだ少年だった良守の心を急速に成長させた。
 気付かなければ、あるいは、知らぬ振りが出来ればこれほどまでに苦しむ事はなかっただろうに、今ではもう、この苦しみを手放す事が出来ない。何も知らなかった頃には戻りたくはないと、思ってしまうのだ。
 黙して微動だにしない弟に不審を感じて、正守がふと視線を上げた。そしてその弟の顔に浮かぶ表情を見て、瞠目する。

『…お前、なんて顔してるんだ』

 思わず、といった、兄にしては珍しく呆然とした声音だった。
 その声に、はっとして慌てて視線を逸らしたが、もう遅い。聡い兄はきっと今の自分の視線から想いを読み取ってしまった。
 油断した。兄の姿を見るのは本当に久しぶりで、咄嗟に心を鎧う事を怠った。
 取り返しの付かないミスに、心臓が早鐘を打つ。

『駄目だ。良守』

 『何が』でも、『どうして』、でもない。
 ただ確固とした否定の言葉が良守の心に突き刺さったその瞬間、混乱に陥りかけていた意識の波が嘘のように引いて凍結した。

『何が?兄貴、相変わらずワケわかんねえよ』

 乾いた笑い声が、やけに遠いところで響いていた事だけは覚えている。

『手当て、サンキュ。もういいだろ、寝るからな』

 まともに顔を見られなくて、何か言いたげな気配を振り切って自室に逃げ帰った。
 翌日、朝食の席に着いていた兄にいつもと変わらない調子で声を掛けた自分に、兄はやはり何か含んだ顔をしていたが、そんな表情を見たのはそれが最後だった。



 あの時の自分は、言葉にさえ出さなければ何とかなると、そんな風に考えなければ兄との関係を維持する事が出来なかった。
 せっかく近づいた距離を、自分で更に遠いところへやってしまう事に耐えられなかった。今だって抑えておくに相当な努力を要する想いを、あの頃から上手く抑えられていたなんて事はないはずで、それは事あるごとに兄に伝わってしまっていたはずだ。けれどそれに兄が口を開いたのは、最初に気付かれたあの時だけ。
 おそらく、よしのを墨村に連れてきたのは兄の計算があってのことだろう。いつまで経っても兄を想う事を止めない弟に対する答えを、無言で提示されたに違いない。
 汚いやり方だなんて事は言わない。告げられた事もない想いに対して兄が出来る事は限られている。そしてそれを、自分は黙って受け入れなければならないのだろう。


 分かってはいるが、もう手遅れだ。

 躊躇する気持ちは完全に振り切れてしまった。


 思い巡らすのは、どうすれば兄をこの手の中に閉じ込めておけるのかと、そればかりだった。









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