目隠しの森・番外編








「お〜い、墨村〜。」

正面玄関を出たところで呼び止められて、良守は振り返った。そこにいたのは同じクラスの友人二人の姿。

「なんだ〜?」

近づいてきた友人ー川元と板敷に声をかけると、二人は楽しげに「この後時間ある?」と聞いてきた。

「この間言ってたケーキ屋あるだろ?あそこ寄ってみないか?」
「それって、中央公園の近くにできたっていうヤツ?」
「そうそう。あそこでさ、きのうから期間限定のチョコレートケーキが出たらしくって。墨村、チョコケーキ好きだっただろ。」
「おお、チョコケーキか〜!っと、…すっげぇ行きたいけどまたにしとくよ。今日はちょっと用事があるんだ。」

ごめんな、と二人に声をかけ、良守は早足に学校をあとにした。あまりに素早いその動きを呆然と見送って、二人は顔を合わせる。

「…珍しいな。この手の誘いにあいつが乗ってこないって。」
「そうだな。用事ってなんだろ。」

まさか彼女とデートでもないよなと川元は笑って言ったが、まさかそれが当たらずとも遠からずだとは思いもしない二人だった。



「ただいま!」

勢いよく玄関を開くと、良守は部屋へと駆け込んだ。良守の声に振り返ったその姿にほっと安堵の息をつく。

「お帰り。早かったんだな。」

兄貴、と笑みを浮かべた良守に、その人物ー正守も微笑み返した。





正守が記憶を取り戻した後、彼は夜行へと戻った。色々と手荒い歓迎を受けたものの、みんな正守の死を信じきれずにその帰りを待っていたらしい。戻ってきた正守が以前のように頭領の席に着く事を反対する者はいなかった。
すったもんだの末、結局推されるままに正守は夜行の頭領の任に戻り、その後は忙しく過ごしながらも時間を見つけては良守の元へと来ている。
良守はというと、自分が住んでいたマンションを引き払い、正守が住んでいたマンションに移っていた。そこにはだいぶ片づけたとはいえ、正守が「善信」としてここで暮らしていた頃の衣服などが残されている。彼がいつ来ても良いように、と。

その正守から連絡があったのがきのうの夜。『明日の昼過ぎにはそっちに行ける。部屋で待ってるよ』とのメールを見た時から、良守はそれを楽しみにしていたのだ。いっそ学校を休もうかと思ったくらいだ。
走って帰ってきたらしく、息を切らせた良守の姿に正守が苦笑した。

「そんなに急がなくていいのに。」

兄の言葉に良守が少し照れたように口を尖らせる。

「しかたねーじゃん。楽しみにしてたから、待ちきれなかったんだよ。」

顔を赤くしながら言う弟の台詞は、以前なら考えられないくらいに素直でかわいらしい。立ち上がった正守はそんな弟に近づくと、荷物を降ろした良守の体を抱きしめた。

「俺も楽しみにしてたよ。会いたかった。」

そう言うと良守がギュッと正守にしがみついてくる。
テーブルの上に置かれたふたつの同じ鍵が、今の二人の距離を表していた。



一緒に買い物に出かけ、夕飯を作り他愛ない会話を楽しみながら食べる。それは二人にとって何よりも大切な時間だった。誰に言えなくても誰にも認めてもらえなくてもいい。一度失ったと思った存在を取り戻す事ができたのだ。もう二人はお互いを手離す気は毛頭なかった。
例え普段は離れて暮らしていても、こうして過ごす一時が二人を支え、その絆を揺るぎないものにしていた。

食事を終え、良守が学校で作ったタルトでお茶にする。薄いりんごスライスにカスタードクリームの入ったタルトはかなりの出来映えで正守を喜ばせた。

「お前、本当に腕を上げたよな〜。昔っから上手だったけど、もう今すぐでも店が開けるんじゃないか?」

頻りに関心しながら言う正守に、良守も嬉しそうに答える。

「兄貴は大袈裟なんだよ。そんなに褒めたってもう何も出ないぞ?」
「大袈裟なんかじゃないさ。俺はお世辞なんか言わないよ。知ってるだろ。」

確かに正守はお世辞なんて言うタイプじゃない。良守はありがとうと照れくさそうに笑った。

「そういえばお前も来年で卒業だよな。その後はどうするんだ?」
「あー、それなんだけど…。」

正守の言葉に、ぽり、と頬を掻いて良守は座り直した。それを見て正守が少し不思議そうに良守を見る。良守は照れくさそうな、それでいてバツの悪そうな顔をしながら話始めた。

「先週から就職相談が始まったんだ。この周辺や他県のケーキ屋とか、いくつか先生から薦められた店もあってて・・・。その中でN県にあるホテルにしようかって考えてる。」
「N県?」

良守の言葉に正守は少々驚いた。
正守が戻った事で烏森に対してのわだかまりが無くなった以上、良守は学校を卒業した後は烏森に戻るかと思っていたのだ。N県はここからも多少離れているが、何と言っても烏森からさらに離れる事になる。

「良守が決める事に反対はしないけど、それでいいのか?N県って、里帰りも頻繁にはできないと思うけど。」

そう尋ねる正守に、良守はいいんだと頷いた。

「たまになら家にだって帰れない距離じゃないし、そのホテルって割と夜行にも近いんだよ。」

嬉しそうに言う良守だったが、その内容に正守が目を見開いた。

「ちょっと待て。まさかお前、俺の為にN県にしようとか思ってないよな?」

今現在、良守の元に正守が通う形になっている事を良守が気にしている事には気づいていた。夜行の頭領に戻り忙しいのにと言うのを、それを望んでいるのは俺だからと諭したのは一度や二度じゃない。正守にとっては良守に会えるというだけで嬉しかったし、例え多少距離があろうとも苦にはならない。早く早くと心は急くが、それすらも楽しい時間だった。
時間短縮の為空間移動の術の研究も進めているのだが、長距離をいっぺんに移動すると消耗が激しく、良守を心配させそうだからまだ実行には移していない。

どちらにせよ、良守が夜行に戻るのを反対していたのに押し切り、その上で良守に会いたいのは正守の方なのだ。良守が苦にするような事ではないと思う。ましてや大事な就職先をその為に決めてしまっては後で後悔しかねない。

鋭い声で詰問する正守に、そういう反応をされるのは予想していた良守はもう一度頬を掻いた。

「兄貴の為じゃないよ。俺がそうしたいんだ。俺自身が、兄貴の側に行きたい。ーそしたら今よりもっと会えるかなって思って。」

少し頬を染め、照れたように話す良守にまたも正守は驚いた。そんな正守に良守は笑ってみせる。

「それにそのホテルってすっげー有名なパティシエがいるんだ。チョコレート作りがうまくってさ、世界的なコンクールで銀賞取ってるんだぜ。…まぁ、最初は小さなケーキ屋にでもって思ってたんだけど、先生が若い内は修行できるならしといた方が良いって言うし、推薦してくれるって言うから折角だしさ。」

そう言った良守の顔に迷いや憂いはまったくなかった。彼なりに考えた末の決断なんだろう。
ー良守はもう大人だ。色々な事を考慮した上決めた事なら正守に反対する理由はない。側に行きたいと思ってくれた気持ちは嬉しかったから尚更だ。

正守は無言で良守に近づき、言い表せない気持ちを込めてそっとその身体を抱きしめた。自分よりも少しだけ低い、もう小さいとは決して言えない身体。それなのにこうして抱きしめているだけで心が安らぎ温かな気持ちになれる。その時良守が嬉しそうに身体を擦り寄せてきた。その仕草が愛しいと思うと同時に、たったそれだけで安らいでいた心が簡単に熱を持ち始めて、そんな自分に苦笑した。

大切に、誰よりも大切に慈しみたいとそう思う心と、涙も涸れるまで滅茶苦茶に抱いてしまいたいと思う心。矛盾するような思いはいつも正守の中にあってせめぎあっている。
それを抑える術を知らず、正守は腕の中の愛しい人の頬に手を添えた。真っ直ぐに正守を見る瞳は昔とまったく同じだった。変わらないでいて欲しいと願ったそのままに、揺るぎない強さを秘めた瞳に吸い込まれるように、正守は良守に口づけた。





「なあ、良守。」

散々抱き合った後の気だるさの残る身体を緩く抱きしめながら、正守は良守の耳元に囁きかける。それを擽ったそうに首を竦めながら、なに?と尋ねる良守の頬にチュッとキスをした。

「一緒に住もうか。」

何の脈絡もなく言われたその言葉に、良守は一瞬意味が分からずに正守の顔をまじまじと見る。そんな良守の様子に正守は少し苦笑した。

「お前がN県に来るなら、どっちみち引っ越さないといけないだろ。だったら一緒に住もうよ。」

そこまで言われてようやく意味が分かったのだろう。良守が目をぱちくりさせる。

「一緒にって…。俺とお前でって事?」

ぽかんとした良守に正守が笑いながら言う。

「良守以外のヤツと二人だけで住むつもりはないけどな。」
「だけど…、お前夜行はどうするんだよ。」
「別に夜行を辞めるわけじゃないよ。でもそろそろある程度距離は置いても良いかなって思ってたし。折角お前がN県に来るなら、一緒に暮らせばもっと側にいられるだろ?」

そう言いながら正守は良守の髪をそっと撫でる。その優しい感触につい微睡みそうになる意識を叱咤しながら、良守は正守を見た。

「多分一緒に暮らしても、俺は家にいない事も多いと思う。仕事の時間も不規則だから良守に迷惑をかけるかもしれない。それをお前が許してくれるなら、の話だけどな。」

正守の言葉に良守は半身を起こして慌てて首を振った。

「許すも何もないだろ!そんなの、俺は迷惑なんて思わねーよ!」

一気にそう言ってから、我に返ったように良守はポスン、と布団に逆戻りする。そして目の前の正守の顔をじっと見つめた。

「…本気か?」
「本気だよ。こんな事、冗談じゃ言えない。」

良守、と名を呼びながら正守はその頬に手を滑らせた。

「返事は?」
「っ、そんなん、聞くまでもねーだろ!」

プイっと横を向いてしまった良守の頬と耳は真っ赤に染まっていた。そんな弟の可愛らしい仕草に正守は笑みを浮かべる。

「言ってよ。俺は良守の口から聞きたい。」

なぁなぁと何度も促せば、ようやく良守が顔を見せた。真っ赤な顔のまま、少し潤んだ瞳で恥ずかしそうに正守を睨みつける。

「・・・みたい。」
「え?」
「俺も、お前と一緒に住みたい!」

あまりに小さな声に思わず正守が聞き返すと、良守はヤケになったように正守の腕を掴み怒鳴り返した。その言葉に正守はこれ以上ないくらいの笑顔になる。
恥ずかしさのあまりそれ以上何も言えず、黙ってしまった弟を引き寄せ腕の中にギュッと閉じこめた。

「ありがとう。」

言い表せない気持ちまで全て込めて、そう一言告げた正守の言葉に、良守はその胸に顔を埋めたまま『それはこっちのせりふだ』とそう返した。
それにますます嬉しくなって、正守は腕の中の愛しい人の顔中にキスの嵐を贈るのだった。




2009.1.5


Novel