いつかの誓い




疲れ切っているはずなのに、寝付けそうにない。
冴え渡る目と頭に眠る事を諦め、正守はそっと溜息をついた。
容赦なく責め立てられあちこちにできた傷は、致命傷とまではいかなかったが浅いとは言えない深さ。夜行お抱えの治癒能力者に多少は治してもらったとはいえ、動き回れるほどじゃない。あと数回治療をうければ良くなるだろうけど、今はまだ身動きするたび引き攣るように痛んでは眠りを妨げてくれるものだから、すっかり目は冴えてしまった。
薬を飲むのは性に合わないし、薬に頼らなければならないほどに耐えられない痛みでもない。枕元に用意だけはされているそれは、結局飲む事はないだろう。
眠れないのならと天井を睨み、今後の事に考えを馳せる。


今回の一件で、正守は己の無力さと傲慢さを思い知らされた。傲っていたつもりはなかったが、実際には己の未熟さをひしひしと痛感する事になった。
ーあの人が、人の命を取り込めるという事には見当をつけていたと言うのに、主にまで力が及ぶとはまったく考えなかった自分の浅はかさが憎い。あの地にただ逃げ込んだと思いこんで、結果時間を与えてしまった。

力を吸い尽くされた神佑地。やり直すと主は言っていたが、恐らくあのままでは再生は難しい。弱り切っていた土地とあの主では、例えやり直しができても時間がかかるだろう。俺に出来る事をしなくてはいけない。
結界師の俺に出来る事、それはひとつしかなかった。別れてしまったふたつの空間をもう一度ひとつに繋げ直す。人の手によって歪まされたあの神佑地が再びひとつになれば、少しは安定するはずだ。それによってどこまで回復するかは分からないが、あとはあの地と主の力に託すしかない。

動けるようになったら真っ先に行こうと決め、時間を見る為に携帯を開いた。
午前1時。光る液晶画面を見ながら、ふと着信履歴を表示させる。
スライドさせていくと「良守」の文字があった。
神佑地に行く直前渡した携帯電話。「呼んでくれ」と言った正守の言葉を律儀に守った弟がかけた電話が、闇に沈みかけていた意識を揺さぶり起こした。
繋げた出口のすぐ傍にいたから辛うじて電波も入ったのだろう。それはまさにギリギリのタイミングだったはずだ。
ディスプレイの文字をじっと見る。脳裏に、必至に「兄貴!」と呼んでいた良守の声が甦った。

電話越しだったから、いつもは言えないような事も言えた気がする。
「そのまんまでいい」、それは正守の本音だ。
真っ直ぐすぎる気性には時々ハラハラする事もあるけど、あのまま変わらないでいて欲しいと思う。


お前がそのままでいてくれるなら、俺はきっと大丈夫。道を見失った時にはお前という光を目指して戻ればいい。
それを確信した今だからこそ、決着をつけるべき時なのかもしれない。


ーずっと迷っていた事がある。
恩も義理もある相手だから、決着をつける事を躊躇っていた。
情報を流した事は確かに明らかな裏切りで、それが元で取り返しのつかない犠牲も出た。だがそれは、それを利用してこちらを陥れようとする相手に対して、有効な策を取れなかった自分の落ち度の方が大きい。だから彼が夜行を抜けたいというのなら、見逃そうかと思っていたのだがー。

今回の一件で思い知った事はもうひとつあった。
あの時「夜行は俺がいないと」と言ったのはその場しのぎの言葉だったが、少し前から感じてはいた事が口について出たのだという事に正守は気付いていた。
夜行は裏会の中でも若い連中を集めたから、比較的仲も良く連携も取れている。だけどまだ烏合の衆という感は拭えない。
頭領である自分に何かあった時、有耶無耶の内に瓦解する可能性は限りなく高いと言えた。只でさえ上からも睨まれている組織なのだから。
そろそろ足下を固める時期にきたのだろう。その為に必要な事をしなくては。
少なくとも今は内輪もめをしてる場合じゃない。あの人の特殊能力は手放すには惜しいし、他に取られても厄介と言える。ならば彼にとって不本意だろうと、夜行にいてもらうしかない。

本意を確かめて、夜行を離れると言ったらば。その時は釘をさせば良い。どんな手を使ってでも残る事を承諾させるのみだ。
だがもしそれでも、諾と頷かなければ?

なあ、良守。お前は俺が人を殺しちゃうような悪人でも助けるって言ってくれたけど。
もし本当に俺が人を殺したら。お前はどんな顔をするんだろうな。
俺達にとって証拠も残さず人を葬るなんて、実はそんなに大変な事じゃない。結界術を使えば跡形もなく消してしまえる。妖と違って入れ物がある人間相手だと、かなりの力が必要だけど難しいという程じゃない。お前はそんな使い方、考えた事もないんだろう。

良守、お前兄ちゃんが術をそんな風に使ったらどうする?それでも俺がピンチの時は助けてくれるか?

こんな事考えるまでもない。きっとあいつは助けてしまう。助けた事で誰かに非難されたとしても、その非難すら真っ正面から受け止めて、誰のせいにもしない。それが良守という人間だ。だからこそ俺はお前に敵わない。それこそ一生かかっても。
そんなこと本当はずっと前から知っていたのに、気付かないふりをして自分を誤魔化していた。認めるわけにはいかなかったから。
認めてしまえば否応なくお前に惹かれている事実にも気付いてしまう。
実の弟を愛している事も、その存在に頼り依存してる事も、認めなくちゃいけない。
そんな自分が許せなかっただけだ。

なんて卑小で、なんて愚かな。だがそれが墨村正守という人間だった事に、漸く気付く。

夜行の頭領で、裏会最高幹部十二人会第七客。そんなものよりも先に、一人の人間であり、墨村良守の兄という、ただそれだけの存在なのだという原点に立ち戻れば、こんなにも話は簡単にすむ。
ご立派な肩書きなんていつなくなってもおかしくないし、本当に欲しいものでも俺にとって必要なものでもない。だけどあいつの兄だという事実は一生変わらない。その事実があれば俺は大丈夫なのだと思えた。

大丈夫、俺は俺として立っていられる。

この想いを受け入れるまであんなに葛藤した事が嘘のように、今心は穏やかだった。
そっと目を閉じる。


いつか。
時間はかかるかもしれないが、あいつを烏森から取り戻そう。
あいつは烏森を封印すると言っていた。本当はぶっ壊してやりたいくらいだが、あいつが封印したいと言うならそれでも良い。どんな手段でも構わない。
それは弟を案じる兄としての崇高な願いなんかじゃなかった。ただ、あいつが囚われているという事実が許せないだけだ。理不尽だと思うから、許せないと思うから解放したい。望みはそれだけの事。

心底愛しいと想うからこそ、手に入れようだなんて考えてはいない。


あの地に縛られた弟を解放する為に、俺は俺の成すべき事をやる。
誓いはただ一人の胸の内に。誰にも明かされる事はない。当の弟にさえ。

ディスプレイの文字をもう一度見る。弟に渡した携帯はそのままだから、これからは連絡もしやすい。だけど余程の事がなければ弟からかけてくる事はないだろう。この着信履歴も、きっと明日には流れてしまう。それが少し面白くないと思った。
神佑地の件が済んだら電話してみよう。あの地と主を心配していたし、きっと気にしているだろうから。そんな風に電話する口実を見つけて喜んでいる自分に気付き、僅か苦笑する。その途端小さな欠伸が出た。何だか今なら少し眠れそうな気がして、ゆっくりと目を瞑る。

静かな室内に、携帯を閉じる音が響いて消えた。





2007.6.7

Novel