境界線の二人
掴まれた腕が痛かった。 人が落ち込んでるってのに相変わらずの説教。いや、落ち込んでいるからこその説教か。 それが心配してくれてるからだって本当はもう分かってる。なのに素直になれない。 無言で睨み返すしかできない俺は、どうしようもなく子供だ。 兄貴の言ってる事が正しいなんて分かっていた。だから何も言い返せなかった。 そもそも俺が兄貴に何かを言い返せたためしなんて無い…こともないけど、あの時は極限状態だったしな。 一人でこうしていると、色んな事がすんなり頭に入ってくる気がする。 もしかして今、目の前に兄貴がいたら。素直にごめん、って言えるのだろうか。 授業をサボって来た屋上は、当然ながら誰もいなくて静かだ。それなりに暑いけど影に入ってるから辛い程じゃない。 昨夜は結局一睡もしていないし、少しは眠っとこうと思ったのは朝兄貴に言われた事を思い出したからだった。 別に疲れを感じていた訳じゃないけど、今夜だって仕事はあるんだし休んでおくべきだと思う。 でもいくら経っても睡魔はやってきてくれなかった。 目を瞑っても思い出すのはあの時の兄の言葉と、引っ張られた腕の痛みだけ。それと同時に胸までチクリと痛む。 どうして俺って進歩がないんだろ。 しっかりしなくちゃと思うのに、その為の修行だったはずなのに、肝心なところで空回りだ。 ダメだ。考えれば考える程落ち込んでくる。というか目がさえてしまう。 こうなったら無理矢理にでも寝てしまおう。目を閉じて何も考えないように、ちょっとだけ心を無想に近づける。 意識をカラっぽにしてしまうと少しずつ睡魔が訪れ、良守はようやく眠りにつくことができたのだった。 学園の上空から侵入してきた影は、校舎の屋上に足音も立てずに降り立った。 まだ授業中の校内は静まりかえり、体育の授業も無いのだろう、校庭にも人がいない。 当然本来屋上にも誰もいないはずなのだが、ここにはただ一人例外がいた。 目当ての人物がちゃんといた事に、その人影ー正守は小さく苦笑する。いてくれたのは良かったけど授業をサボっているのだ。あまり褒められた事ではない。 とはいえ特殊な事情を抱えている身だ。あえて咎めようとも思わなかった。 気配を殺してそっと近づく。どうやら件の相手はよく眠っているらしい。こうして近くに兄がいても目を閉じたまま、薄く開いた唇からはすぅすぅと穏やかな寝息が聞こえてくる。 目が覚めたらこんなにも安らいだ顔は見せてはくれないだろう。ある意味貴重とも言える姿をじっと見つめた。 最近急に大人びた顔を見せるようになったと思っていたけど、こうして目を閉じていると随分と幼くみえる。 まだ良守の修行も始まっていなかったくらい昔、にいちゃん、と舌足らずに呼ばれていた頃を思い出した。 あの頃はかわいかったよなぁ、とつい口元が綻んだ正守だったが、すぐにそれは自嘲気味な笑みに変わった。 「ごめんな、きつい事ばっかり言って。」 あの時の言葉に嘘はない。間違っているとも思わない。 だけどその中に自分勝手な感情が一欠けらも入っていなかったとは言えなかった。 あの時、自分は確かに嫉妬したのだ。眠る事もできず食事もしようとはしないくらいに、あの少年を心配する良守の姿に苛立ち、同時に嫉妬した。 自分以外が傷つく事を誰よりも恐れる弟ならば、あの少年の負った傷にどうしようもない程心を痛めているはず。 そんな事は解っていたのに、そんな弟を見たくなかった。その結果があの態度だ。 以前の自分ならもう少し違う態度をとれていたのかもしれない。だがそんな風に取り繕う事すらできなかった。 己の未熟さを弟に押し付けてしまった。腕をひいた時、泣きそうな目で見上げてきた良守の顔を思い出す。あんな顔をさせたかったわけじゃないのに。 元々そんなに仲の良い兄弟じゃない。6年前に家を出てからは、ぎこちなかった距離はさらに広がった。 それでもそれなりに兄らしい態度をとれていたはずなのに、今はもう以前の自分がどんな風に良守に接していたのかすら分からない。 どうしてこうも良守に関しては箍が外れてしまうのか。その理由も自覚している以上、もうどうしようもない。 兄貴でいるのって難しいんだな。自然とついて出た溜息は、どこかほろ苦いものになった。 こんなに近くにいるのに誰よりも遠い。同じ両親から生まれ、同じ血が流れる兄弟でも、むしろだからこそ遠く感じてしまうのかもしれない。 15の年に家を出なければ、もう少し兄らしいままでいられたのだろうか。 実の弟に抱いた邪な感情にも、気付かずにいられたのだろうか。 つい過ぎるその仮定はあまりにも無益で無意味だ。解っていても考えてしまう。 過ぎた時間は戻らない。戻せない。それ以上にあの時の自分には家を出る必要があった。我が身の幼さを理由に引き伸ばすつもりもなかった。 だからこそ過去を悔いる事だけはしたくないのに。 考えに耽っていると懐に入れた携帯が小さく震える。我に返って開いた画面には新着メールの知らせがあった。 同時に表示された時計の時刻に、そろそろ戻るべきだと悟る。 今夜は幹部会もあるのだ。報告する内容的に穏便にすむとは思えない。昨夜のダメージも抜け切っていないのだから少しは休まなくては。 それに学校も終わる時間だ。もうすぐ良守も目を覚ますだろう。 「何があっても、思うとおり望む道をすすんでくれ。・・・お前ならきっと大丈夫だから。」 少しだけ躊躇って、でも一度だけ。そっと頭を撫でる。 伝わってきた温もりに、心のどこかが柔らかく溶けるのを感じながら。 名残惜しさを押し殺して、正守はまたなと呟くとその場を立ち去った。 キーンコーン カーンコーン 学校内にチャイムの音が鳴り響く。目覚まし代わりのそれにつられて良守の目は覚めた。 ふあぁ、と大きなあくびを一つ。昼休みから眠ったおかげで多少まとまった睡眠がとれた。これなら夕方にもう一度仮眠すれば夜に影響はないだろう。 目元を擦りながら起き上がった良守だったが、不意に何かを感じ辺りを見回す。だが周りには何もない。感じた何かが何であったかも分からない。 「・・・?まあいっか。」 大きく伸びをしてから扉に向けて歩き出す。 何かに後ろ髪を引かれるような気持ちを心のすみに残したまま、良守は屋上を後にした。 |
2009.11.9