蜂蜜風味の甘い罠



これって何の罠だよ。
目の前で気持ちよさそうに目を閉じている兄の顔を見ながら、良守は少々途方に暮れた。





週末の夕方に兄が帰ってきた。最近忙しいという兄が、ちゃんと帰ってきたのは約二ヶ月ぶりの事で、良守としてはかなり嬉しかったのだがそれを家族の前では出さないようにするのに必死だった。
何しろ兄と恋仲になってまだ四ヶ月程しか経っていない。一時とは違い最近はそれなりに仲はよくなっていたけど、いきなり態度が豹変しては家族に不審に思われかねない。
注意していたから、兄が帰ってきた時も食事の時も不自然じゃないよう接する事ができたはずだ。だが以前のような距離を保つのは今の良守にとって辛い作業だった。

だから仕事の時間になり烏森に向かった時、どこかホッとしたのも事実だ。仕事が終わり家に帰りつく頃には家族は寝静まっている。でも正守はきっと起きていてくれるだろう。それならば何の遠慮もしなくていい。少しくらいは恋人同士としての二人っきりの時間を過ごせるはずだ。
それを思うと自然と仕事を張り切ってしまう良守だった。





仕事が終わり帰宅し、少々浮かれ気分のまま自分の部屋に荷物を置いた良守だったが、隣の兄の部屋が静まり返っている事に気付き首を捻った。慌てて隣に行くとやはりシーンと静かな上に襖から明かりが漏れていない事で真っ暗な事を悟る。
まさかもう寝てしまったのかとガッカリしながら、念のため小さな声で呼びかけてから襖を開けるとそこはもぬけの殻だった。

「あれ?」

キョロキョロと真っ暗な部屋を何度見渡しても兄はいない。布団も隅に畳んで置かれたままだ。

「そういや出る時爺と酒飲んでたけど・・・、まさかまだ酒盛りしてるとか?」

それはいくら何でも飲み過ぎだろうと思いつつ、暗い廊下を歩く。角を曲がると見えてくる居間から灯りは漏れていなかった。
二人が呑む時は大抵居間だ。まさか爺の部屋じゃないはず。それか今日は客間で寝てるとか?でも布団は正守の部屋に用意されてたし・・・。
あれこれ考えながら良守は、取りあえず開け放たれた居間をヒョイと覗きこみ、そこに見つけた人影に顔を綻ばせた。

いた。

縁側に横たわる細身の長身。間違えようもない。そっと近づいてみる。
誰よりも優秀な結界師であり気配にも敏感な兄の事だから、良守が帰宅している事にも気づいていて狸寝入りしているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。寝息は深く穏やかで、何とも心地よさそうだった。
足下には殆ど空っぽの一升瓶とぐい飲みが2つ。庭を眺めつつ呑んで爺は先に寝たって事か。もしかしてこいつ、その後も一人で呑んでたのか?じゃないとこの熟睡っぷりにはならない気がする。確か酒は相当強かったはずだ。

忙しい兄の事だから、急用で夜行に戻るという事態もありうる。家にいてくれてホッとしたのが半分、でもせっかく二人っきりだというのに話もできず、相手が寝ているのが不満なのも半分。良守は複雑な気分になった。

つーか、いくら兄貴が体鍛えてるっていっても、こんな所で寝たら風邪ひくだろ。

季節はまだ秋にすら遠いとはいえ、明け方になるとそれなりに涼しい。ガラス戸で締め切っただけの縁側でなど眠って良いはずがなかった。

「おーい兄貴。寝るならせめて部屋で寝れよ。休暇で帰ってきといて風邪ひいてちゃ意味ねーだろ。」

軽く揺さぶりながら言うと、正守が微かに「ん・・・。」と反応した。
小さく洩れた正守の声に、良守は思わず兄を揺さぶっていた手を止める。その微かな声は青少年の想像力を掻き立てた。ちょっと甘めの、鼻にかかった吐息のようなそれ。

う、わー!!!何考えてるんだよ俺っ!

一人真っ赤になりながら、良守は色々な場面を思い出しピンク色に染まりそうな己の頭を振った。それから先ほどよりもやや乱暴に兄の体を揺する。

「兄貴、おい兄貴起きろってば!」
「・・・う・・ん、よしもり・・・?」

ユサユサと揺さぶられてさすがに正守の目も覚めたらしい。だがその声はまだ少しもつれ気味で、目も半開きに近い。というより舌っ足らずに近い声で名を呼ばれ、酒のせいかうっすらと目元が赤く染まり涙で潤んだ目が見上げてくるに至っては、もうそういう状況を思い出すなという方が無理だろう。
何しろ相手は長年焦がれ続けた正守で、そういう関係になれてからまだ四ヶ月しか経ってなくて。しかも兄は超がつく程多忙だから滅多に家には帰ってこなくて。だからそういう事ができたのだってまだ片手で数えられるくらいの事で。
正直思春期真っ盛りの青少年としては辛い部分もある。負担になりたくないから相手には言わないだけだ。
その数少ない逢瀬での正守の媚態が脳裏に蘇る。

落ち着け、俺の脳細胞!

こんな時だけ活発に、目まぐるしく活動し始めた記憶細胞が、脳内に蓄えられた正守の姿を次々にプレイバックする。ああ、俺ってこんなに兄貴の事ばっかだったんだな、とちょっと途方に暮れる量だ。
それと連動してなにやら下半身が落ち着かなくなってきて、ある意味正常な反応に泣きそうになってきた。
ダメだダメだダメだったら。酒飲んで意識ぼんやりしてるヤツ襲っちゃダメだろどう考えても。俺は兄貴とそういう事だけしたいわけじゃないんだ。大事にするって決めてるんだ。こういうのは双方同意じゃないと意味がない!

グッと腹の底に力を込めて気合いを入れる。それからまだぼんやりと自分を見上げる正守に笑いかけた。少々ぎこちないのは許して欲しい。

「兄貴、目が覚めたか?ここで寝ると風邪ひくから部屋に行こう。」

起きあがるよう促そうと、良守は正守の腕を掴んだ。掴まれた腕を正守はちょっと不思議そうに見ていたのだがー。

「よしもり。」

そう言うと正守がふわりと笑った。それは本当に嬉しそうな微笑みだった。まるで子供が親を見つけたように純粋な幸せそうな笑顔。
良守は兄のこんな笑顔を見た事がなかった。もしかしたら二人がまだほんの子供の頃なら兄もこんな笑顔を見せてくれていたのかもしれないけど、少なくとも物心ついてからの兄は良守から見ればもう大人のようで、笑う姿も大人びていた。なのに。

か、かわいい・・・っ!

ちょっ、これ反則だろという良守の内心の叫びを無視するかのように、正守は何度か瞬きした後、またトロリと眠そうな表情になったかと思うと良守の腕を握り引っ張った。

「うわ、ちょっと兄貴!?」

急に引っ張り倒されて慌てる良守を懐に抱き込んで、正守は嬉しそうにしている。

「一緒にねような〜・・・。」

それだけ言うと正守は満足気な満面の笑みを浮かべてまた眠ってしまった。

おいおい、これって何の罠だよ。

目の前で気持ちよさそうに目を閉じている兄の顔を見ながら、良守は少々途方に暮れそうになる。この状況は蛇の生殺しだ。
とはいえ、このままにもしておけない。兄が本格的に眠ってしまった以上良守が何とかしないと風邪をひかせるだけだ。

しょうがないなと溜息一つついた後、良守は懐から式符を一枚取り出し放り投げた。現れた式神に手伝わせ、横になったまま兄の体を少しずつズラして板間から畳へと移動する。それから毛布を持ってこさせて二人でそれにくるまった。少し冷え始めていた体もすぐに暖まってくる。何より正守の体温が心地良い。
こんなに傍にいるのに生殺し状態は辛いが、この穏やかな眠りを壊したくない。
たまになら仕方ないと苦笑しながら、せっかくだしと抱き込まれた胸元にすり寄った。
兄の事だ、多分早くに目が覚めるだろう。万が一爺や父に見られたとしても、酔っぱらいの抱き枕にされたとでも言えばそんなに変な事でもない。

起きたらどんな反応をするかな。お前が離してくれなかったんだと言えば少しは照れてくれるだろうか。
そんな事を考えながら、良守も正守の寝息につられるように穏やかな眠りに身を任せた。



2009.9.1

Novel