衝動の行方


久しぶりに帰った実家。出迎えてくれたのは末の弟だった。

お父さんは買い物に行ってる。もう少ししたら帰ってくるかも。
お爺ちゃんは老人会に囲碁を打ちに行ってるよ。夕飯まで戻らないって。
それより正兄が帰ってくるなんて、お父さん言ってなかった。
知ってたら友達との約束なんか入れなかったのに。

残念そうに言う弟は可愛らしいと思う。誰かさんとは正反対の態度で、素直に慕ってくれるのが嬉しい。だからその頭をくしゃりと撫でて言った。

パソコンにメールしたのがいけなかったな。父さん気付かなかったんだろう。
今回は3日ほど休めるから、明日でも充分遊べるよ。

だから行っておいでと言うと、安心したのか利守はニコリと笑って出掛けていった。

手土産に持ってきた串団子は香りの良いヨモギ餅に粒餡が絶品で、最近のお気に入りの品だ。
台所に置いた方が良いかなと思いながらもひとまず居間へと向かうと、よく知る気配がそこにあることに気付く。

ー珍しい。

お爺さんがいないからだろうか。いつもなら大抵自室に結界を張って寝るはずのすぐ下の弟の姿。枕代わりに頭に下に座布団を折り曲げ、気持ちよさそうに眠っている。
しかし眠るのはいいんだが、まだ肌寒い季節だというのに寒くはないのだろうか。
そんな事を考えていたら、案の定弟が小さなクシャミをした。やれやれと思いながら、着ていた羽織を脱いでその体に掛けてやる。そっとしたつもりだったが、自分のクシャミで半覚醒状態だったのか、良守がうっすらと目を開けた。

「う゛…?」
「ああ、悪い。起こしちゃったか?まだ寝てても大丈夫だぞ。」
「うー…。」
まだ寝ぼけているらしい。返事らしき呻り声を上げて、良守はもそもそと動いた。それから掛けられた羽織を掴む。

「あったけー…。」
一言呟くと、良守はまた眠ってしまった。くうくうと寝息が聞こえてくる。
その横で雷に打たれたかのように固まる正守。

呟いた瞬間、良守は笑ったのだ。ふわりと、普段なら決して見せてくれない柔らかな微笑み。温かいと呟いた言葉も優しく響いた。いつも人の顔を見るだに不機嫌も露わにする弟とは真逆な姿。

考える間もなく体が自然と動いていた。安らかな寝息をたてる弟に静かに近づくと、覆い被さるように顔の横に手を付く。
こんなに近づいたのに良守は起きる気配がない。結界も無しにどうしてこんなに不用心なんだろうという思いが頭を掠めたが、それもすぐにどうでも良くなった。
気持ちよさそうに羽織を顎まで引っぱり眠る良守に、少しずつ吸い寄せられるように近づいていく。あと数pで触れる、という所まできた時ー。

「ただいまー。」
玄関がガラガラと開く音と、陽気な声が家に響いた。瞬間、正守はハッと我に返り後ずさる。買い物から戻った修史が帰ってきただろう事は分かった。
壁に背を寄りかからせながら、早鐘のように脈打つ心臓の辺りをわし掴む。こめかみに汗が流れていくのが妙に強く感じられて、自分の動揺具合がよく分かった。
2m程離れた所で横たわる弟は、相変わらずスヤスヤと眠っていて起きる様子はない。
それを幸いに正守は居間を出ると、ちょうど台所から出てきた修史と鉢合わせした。

「あ、正守帰ってたんだね!草履があったからもしかしてって思ってたんだけど。」
お帰りなさいと嬉しそうに言う父親の顔も、今は何だか後ろめたい気がしてまともに見れない。だが不自然にならないように、勤めて平然と振る舞った。

「うん、ついさっき帰ってきた。居間にお土産置いてるから、あとでみんなで食べてよ。ー俺、ちょっと部屋で休むから。」
「いつもありがとう。せっかくだからみんなで食べられる夕飯後に頂こうか。起こすのは夕飯の頃で大丈夫?」
「そこまで寝ないと思うけど、起きないようなら起こしてもらえる?」
「分かった。仕事も忙しかったんでしょう?ゆっくり休んでね。」
張り切りながら台所へ向かう父を見送る。何も不審に思われなかったらしい事に、内心ホッとしながら自室へと向かった。
部屋に入り襖を閉め、誰も入ってこないとは思うが念のために結界も張る。
一人の部屋で正守は凄まじい葛藤と戦っていた。

落ち着け、落ち着くんだ墨村正守。お前がトチ狂いそうになった相手は誰だ?
相手は7歳下の弟だぞ弟。手を出したらさすがに犯罪だ…ってちょっと待て、手を出すってどういう意味だ。だから良守は弟だってのに。
軽くパニック状態に陥る正守の脳裏に、昔の記憶が甦る。
家を出て裏会に行き、暫く経って環境の変化にも慣れ、気心の知れた人と付き合いだした頃の事。




ぼうや、それは恋じゃないよ。

ちょっと呆れたように言ったのは、かつて自分が師のようにも思っていた人物だった。


…彼女は恋人ですよ?頻繁にじゃないけど会ってるし、やる事もやってる。

そうじゃない。それは若さ故の下半身の欲求のはけ口に、ちょうど良い相手がたまたまいたから付き合ってるだけだろう。人に恋するという事を、お前は全然わかっちゃいない。

あなたがわかってるとは思えませんが。

見くびらないでもらいたいね。私が人に恋い焦がれた事がないとでも?
私にだって恋する人はいたのだよ。生涯只一人の人がね。

意外な台詞。過去形の恋する人。いつも軽口ばかりの人だけど、時々重い真実を語る事は知っていたので、正守はその人の顔をじっと見た。
するとその人は微かに口の端を上げ、面白そうに言ったのだ。

いずれぼうやも思い知る時が来る。恋というのは突然だったり、自分でも知らぬ間に体の中に染み込んでいて、満たされてから初めて気付いたりするものさ。その時にはもう手遅れ。全身全霊相手に魅了されて囚われる。目を離したいと思っても、目を離せなくて惹き付けられる強烈な呪縛だ。もしかしたら、もうすでに恋してる事に、ぼうや自身が気付いていないという事もあるかもな。だがそれは今の相手じゃないよ。お前が彼女を見る目は、愛しい人を見る目じゃない。

楽しみだねぇと彼は言った。そうなった時、ぼうやはどうするんだろう。恋というものは楽しくもあり、切なくもあり、苦しくもあり、様々な感情に振り回されるものだ。
きっとぼうやも取り乱すに違いない。ぜひそのスマした顔が、慌てふためく瞬間を見たいものだよ。




あの時はそんな事あるわけないと、彼の言葉を一蹴した。
例え俺が恋とやらを知らなくても、いずれ知るとしても。取り乱すなんてある訳ない。
そこまで己の心が掻き乱される事があるなんて信じられなかった。そういう意味では確かに、自分は彼女に恋はしてないのだろうなと変に納得もする。
付き合い始めて三月程になるが、目を離せなくなった事も、呪縛されたと感じる程の強い感情もない。切なくなったり苦しくなったりなんて問題外。
だがそれでも別に構わなかった。制御出来ない感情に振り回されるなんて御免だ。

ただその時もちらりと、ほんのちらりとなら思ったのだ。
まだ俺が実家にいた頃、目を離せない存在ならいたな、と。
今まさにその通りの事が起こっている。
あるわけないと思った事が、現実に起こっていた。

恋は知らずとも、眠る弟に突然湧き上がった衝動の意味くらい、正守も知っている。
脊髄を駆け上がるように甘い痺れが走り、ただその無防備に眠る弟に口付けしたいと、それだけが頭を支配していた。人、それを劣情と呼ぶ。もしくは欲情。
修史が帰って来なければ、それ以上の事をしていたかもしれない。

嘘だろう、と正守は頭を抱えた。
何かの間違いだと思いたい。じゃないと自分で自分が信じられなくなりそうだ。

最近忙しかったし自分でも気付かない内に疲れてたか、欲求不満だったのか。それとも幹部会で人外魔境と応対してたから、子犬みたいに眠る弟に癒されたくなったとか。そうだそうに違いない。俺結構犬好きだし、その点良守って小型犬タイプだ。キャンキャン吠えて噛み付いて無駄に威嚇してくる。黙ってれば可愛いのにな。吠えてても可愛いけど。そういや、アイ○ルチワワって可愛かったなぁ。大型犬も良いけど、小型犬の愛らしさは格別だ。

癒されたいと欲情は違うだろう、というどこからか別の自分が突っ込んでくるがあえて無視する。ストレス、そう、全てはストレスの成せる技なのだ。

ストレスって恐いねぇ、なんて考えながら、取り敢えず一眠りする事にした。
大体、夜行にいるとどうしても仕事仕事で睡眠時間も削られる。寝不足だって思考能力を狂わせるだろうし。色々無理してたんだな、俺。
カバーに包まれた布団を押入から出しながら、少々、いやかなり強引に、正守は自分の行動に無理矢理決着を付けた。なんとか己の人格否定はしなくてすみそうだ。
どうせ深夜烏森に行く弟の様子を見に行くつもりだったし、夕飯までは2時間ほどあるから眠れば少しはスッキリするだろう。
そうすればこんな訳の分からない衝動なんて収まってるはずだ。

軽く整えた布団に横たわる。その途端、あの時の良守の笑顔が脳裏に過ぎった。
父の帰宅があと数秒遅ければ、触れていただろうあの瞬間を思い出し。
…ちょっと惜しかった気がする、と考える自分はすでに手遅れだという事に、正守はまだ気付いていない。





2007.6.2

Novel