静かな室内に碁石を置く小さな音が響く。目の前にいるのはこの家の長男であり、僕の一番上の兄。
15歳という若さで家を出ていた長兄は、6年という歳月を経てこのところ割と良く帰ってくれるようになった。僕としてはとても嬉しい。
12歳も年の離れた正兄は僕の憧れの存在だった。強くて優しくて頭が良くて背も高くて格好いい。男の子にとって理想そのものと言っても言い過ぎじゃない。こんな風になれたらなってよく思う。色々複雑な事もあるから、正兄そのものになりたいとは思わないけど。
そう思いながら、僕はちらりと目を横に向けた。そこにはダラしなく眠る次兄である良兄の姿がある。
僕が学校から帰宅した時、正兄はおじいちゃんと碁を打っていた。でもおじいちゃんは用事があって出かけてしまったので、それを幸いに今度は僕が碁の相手をしてもらった。良兄が帰ってきたのは更にその30分後。
おじいちゃんがいない事を知った良兄は喜々としておやつを作ってくれて、お父さんと4人で食べたのが15分ほど前。その後お父さんも夕飯の買い出しに行ってしまって、今この家には僕達3人しかいない。
だから本当はおやつの後、僕は遠慮して部屋に戻ろうかと思っていた。だけど正兄に「まだ勝負は終わってないぞ」と声をかけられて、良兄は当たり前みたいに座布団を折り曲げて寝の体勢に入ってしまったので、いいのかなと思いながら続きを打っている。
ー遠慮しないといけない、と考えてしまうのは、正兄と良兄の関係がごく普通の兄弟というだけじゃないからだ。
それに気付いているのはこの家では僕だけ。あと斑尾もかな。とにかく僕らだけだ。
気付くはずもないよね。というか普通考えないと思う。正兄と良兄が、兄弟だけど恋人同士だなんて。
横になった後、良兄はすぐに眠ってしまった。相変わらず寝付きの良さは天下一品だ。夜の仕事が仕事だから仕方ないんだろうけど、同じ仕事をしているはずの時音お姉ちゃんがこんなにも昼寝している姿は想像できない。単に良兄が寝汚いだけなんじゃないかって気もする。
はぁ、と小さくついた溜息はすぐに正兄に気付かれた。
「利守、疲れたのか?そろそろやめる?」
「ううん。疲れてはないんだけど。」
気遣うように顔を覗き込まれて、僕は頭を振って否定した。そう?と言いながら顎をさする姿を僕も見返す。そういう何気ない仕草も格好いいなぁ。正兄がダラッとしてる所なんて見た事ないし。
「正兄ってさぁ、良兄のどこが良いの?」
思わず前々から気になっていた事がぽろりと口に出ていた。僕の言葉に正兄は驚いたように目を数回瞬いて、それから苦笑するように口元を軽い握り拳で押さえる。
「ずいぶん唐突だね。」
「聞いたのは唐突だけど、疑問は以前からだよ。」
正兄ならどんな相手だって選り取りみどりだと思うんだよね。なのに一番厄介な相手を選んだのって何故なんだろう。
「良い所ねぇ。それ言っちゃって、利守がライバルになったりしたら嫌だなぁ。」
「大丈夫。良兄は大好きだけど、それだけはないから。」
茶化すように言う正兄の言葉をばっさり切ってじっと見ていたら、観念したように正兄がフッと笑った。そうだな、と顎をさすりながら僕を優しく見る。
「本当はね、どこが良いなんて考えてないんだよ。なんでだろうって、一番思ってるのは俺かもな。あいつのバカみたいな真っ直ぐさとか、甘さや未熟さと紙一重の底なしの優しさとか、自分に無い部分に惹かれたのかなって思ったんだけど。でもそういうのって、考えれば考えるほど後付けっぽく感じるんだよね。」
そう話す正兄の目は、僕を見ているようでどこか遠くを見ているみたいだった。
「結局、理由なんてないんだろうな、こういう事って。」
そう言って正兄は笑う。それがとても穏やかな笑みで、僕の心に強い印象として残った。
そっか、正兄はもう良兄の全てを受け入れて、良兄を好きな自分の事も受け入れて認めているんだ。だからこんなに揺らぎなく穏やかでいられるんだ。何となくそんな風に感じた。
二人が理屈抜きで惹かれ合っているのは分かる。理由なんて尋ねる方がナンセンスなんだろう。
僕は、こんな風に想える相手がいる正兄も、そしてこんな風に想われる良兄も羨ましいと思った。今は想像もできないけど、僕もいつか、兄達のように想い想われる相手と出会えるのだろうか。それは当たり前のようでいて、とても難しい事のような気がする。
考え込んでいたら、正兄がバツの悪そうな顔で苦笑した。
「まあ、兄貴二人がこんなんじゃ、利守だって色々考えるよな。ごめんな、駄目な兄達で。」
正兄の言葉に僕は顔を上げて首を振る。
「謝らなくていいよ。僕はそれが悪い事だとは思ってないから。」
言い切った僕を正兄はもう一度驚いたような顔で見て、それから嬉しそうに表情を崩した。
「ありがとう。利守にそう言ってもらえると嬉しいよ。」
その時の正兄の笑みは本当に嬉しそうで、先程の穏やかな微笑みと同じくらい、印象に残った。
1時間後、囲碁も終わり正兄に勉強を教えてもらっていると良兄が目を覚ました。半分トロンとした目で起き上がり、そろそろ修行でもすっかな〜なんて頭を掻いている。僕は今度こそ遠慮する事にした。
「良兄。修行するなら、正兄にみてもらったら?せっかく帰ってきてるんだし。」
「え?だって兄貴、お前に勉強教えてるんだろ?別に良いよ一人で。」
「僕宿題終わったから。ありがとうね、正兄。凄く解りやすかった。」
そう言うと、僕はさっさと机の上を片付けた。どういたしまして、と微笑む正兄と訳が分からずキョトンと僕を見る良兄を残して居間を出る瞬間、振り返って二人に告げる。
「そうだ、今日はおじいちゃん遅いみたいだしお父さんは夕食の準備に忙しいから大丈夫だとは思うけど、いちゃつく時には周囲に気をつけて、道場使うなら内側から鍵かけてね。まあ、正兄にそんな心配は不要だろうけどさ。」
「ちょっ、おい、利守っ!?」
僕の言葉に良兄が目を見開いて慌てたように僕を呼ぶ。その横で正兄が笑いを堪えるように口元を押さえていた。
「忠告ありがとう。気をつけるよ。」
ひらひらと手を振る正兄に僕も手を振って答える。良兄はそんな僕らを交互に見ながら、もう言葉も出ないのか口をパクパクさせていた。その顔が面白かったからもうちょっとからかいたい気持ちになったけど、それは正兄の楽しみだろうなと思い部屋を出る。途端、背後で結界がはられた感じがした。きっと我にかえった良兄の大声を遮る為に正兄がやったのだろう。
僕にばれてるのは知ってるのにあんなに慌てちゃうなんて、良兄は相変わらず腹芸とは無縁だなぁと思う。逆に正兄は落ち着きすぎててからかい甲斐がない。たまにはもうちょっと慌ててくれても良いのにな。
あの二人って足して割ったらちょうど良いのかも、なんて思いながら、僕は部屋へと戻っていった。
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