赦しの日




「久しぶりね。」

部屋の隅の空間が異質な波動と共に捩れるのを感じたと同時に、凛と響いた高い声。正守は慌てるでもなくゆっくりと振り向いた。誰何の声で尋ねなくとも誰だかは解る。何しろ相手は生まれた時から、いやその体内にいた頃からの付き合いだ。何より空間をねじ曲げるなんて芸当、出来る人間は限られている。

「元気そうだね、母さん。」

そこに現れたのは紛れもなく正守の母、守美子だった。いつもの如く脈絡も予告もない登場の仕方に正守は苦笑するしかない。すたすたと近づいてきた母は、当たり前のように正守の向かいに座った。これもいつもの事だ。

「ちょっと待ってて。お茶煎れてくるから。」
「別にいいわよ。長居する気もないし。」
「俺が飲みたいの。ついでだから付き合ってよ。」

時間は深夜。夜行ではまだ大体の人間が起きている時間で、お茶くらい頼めば刃鳥辺りが煎れてきてくれるだろう。だが何となく自分で煎れたい気分だった。大所帯ゆえ随分と広い台所に向かうと茶を煎れる。そういえば小腹が空いたな、と思いお菓子を置いているはずの棚を探せば、昼に食べた羊羹の残りが半分あった。切り分けて皿にのせると自室へと戻る。
座卓の脇に盆をのせ、散らばった書類を纏めて下に置くと茶と羊羹を差し出した。「ありがと。」と礼を言って茶を一口含む母を見てから自分も喉を潤す。夜になると少し肌寒くなってきたから、温かい緑茶が殊更美味しく思える。

「烏森に龍を放りこんだって聞いたけど。」

一息ついてからの正守の問いに、守美子は「ああ、あれね」と平然と答えた。

「良いアイデアだったでしょう。烏森も落ち着いてくれたし。」
「…アイデアはともかく、手段が乱暴すぎない?」
「そお?手っ取り早くて良いじゃない。省ける無駄は省くべきだわ。」

カラカラと笑う母の姿に、正守は苦笑した。

「せっかく烏森に行ったんなら、たまにはちゃんと良守に会ってやってよ。」

久しぶりに烏森に行ったというのに、結局この母は良守に会わずに去ったらしい。拗ねていたという弟を思うとつい一言言いたくなる。
何だかんだ言って良守はまだ14歳なのだ。たまには母親に会いたいと思っても仕方ない。利守だっているのだし、家に帰っても良かっただろうにと思う。

こんな風に時々母と会っている事を知られたら、あいつ怒るだろうなぁ。こちらの場合自分が呼んだり会いに行くわけでもなく、情報交換も兼ねてとはいえ、気紛れに母の方から会いに来るのだから尚更だ。溜息をつく正守を見ながら守美子は言った。

「私はあの子の顔を見たもの。術はまだまだだったけど元気そうだったわ。それで充分よ。」
「そういう問題じゃないと思うけど…。」

額を押さえる正守に、守美子がふふんと笑う。

「あんたに言われたくないわ。私の誘いを蹴って、たった15歳でさっさと裏会に行ったくせに。」

親が傍にいなくても、あんた充分自力で育ったじゃないの、と言われてしまっては正守は黙るしかない。
家を出る事を考えていた正守に、守美子は「一緒に来るかい」と言った。烏森の何かを知り、祖父にも何も知らせず一人動いている母と共に行動する事も確かに考えた。外の世界を知り力をつけるには、正統継承者ではないのに並外れた力を持つ母といる事は正守の為になっただろう。だが結局正守はその道を選ばなかった。

「仕方ないだろ。色々考えて、異能者の群で修行しようと思ったんだから。結果的にはそれで良かったと思ってるよ。二人して同じ事をしていたら効率が悪すぎる。母さんが裏会の仕事を蹴ってる以上、俺が適任なんだし。」

目的が重なるなら別の方面からアプローチをしてみた方が良い。情報を集めるなら同じ所でやっていても意味はない。母のやり方は身軽に動けるという利点があり、正守が裏会にいることは様々な情報が入りやすい以外にも利点がある。利用できるものは利用すべきだ。

正守の言葉に守美子は「まあね。」と気乗りしない様子で返事をしたが、ふと思いついたように正守を見てニンマリと笑った。その笑顔がどう見ても何か企んでいるような顔だったから正守は眉根を寄せた。どこかで見たような顔だと思うのは当然で、それは自分とよく似ている。いや、自分が守美子に似ていると言うべきか。多分碌でもない事を考えてるだろうと思うのは、己を鑑みての予想だった。警戒も露わな息子に、守美子は楽しげに問いかける。

「ねぇ、良守ってどう?」
「…どうって、どういう意味。」

嫌な予感を覚えつつ、正守は無難に返した。
家庭に大人しく収まらず気侭に放浪しているせいなのか、守美子は3人の子持ちだとは思えないほど若い。若くして自分を生んだから、21歳の息子がいるにしては確かに実年齢も若いのだが、見た目だけなら独身でも通りそうだ。ふふふ、と楽しげに笑う母の口元は見るからに妖艶で、我が母ながら年を感じさせないその姿に息をつく。そんな正守に守美子は顎に手を当てながら目を細めて言った。

「聞いてるまんまの意味だけどね。ほら、良守ってあの年頃にしちゃ友達との付き合いも薄かったせいか、時音ちゃんラブだったせいか、天然っていうかある意味純粋培養っていうかそんな感じでしょ?でもそういうのって男からしたら堪んないだろうなーって思うわけよ。自分色に染められるじゃないの。」

だから正守も楽しかろうって思ってね、と笑いながら言われて正守は今度こそ大きな溜息をついた。どう考えても二人の関係がバレている。そしてこの規格外の母は、己の息子二人の関係を面白がっている。そういう人だと知ってたけど、と正守は痛む米神を押さえた。

一応そう大っぴらに出来る関係じゃないから、人目のある所では態度は控えめにしているつもりだ。本音を言えばバレても構わないという気持ちはあるのだが、あの土地を離れられない良守の立場を考えたらそうも言ってられない。斑尾や利守にはバレるのは時間の問題だと思っていたから最初から隠す気はなかったし、どのみちこの母に隠していられるとも思ってなかったけど。

「そう平然と肯定されても、どういう態度とったらいいのか悩むよね。」

そう言ってもう一度溜息をつく息子を見て、守美子は少し呆れたような、それでいてからかうような笑みを浮かべた。

「おかしな事を言う子だねぇ。じゃあ何、否定して反対されたかったの。もし私が駄目だと言えば、良守と別れるとでも言うのかい?」

そんなつもり毛頭無いくせに、と笑いながら言われて正守は憮然とした。確かに良守に言われたのならともかく、他の誰に言われたって良守を手放す気はまったくない。いや、触れてしまった以上、良守が嫌だと言ったとしても離すつもりはなかった。
年齢以上に大人びた息子の少しだけ年相応の顔を見て、守美子は楽しげに笑う。

「私が何を言わなくても、自分達の関係がどうかだなんて、あんた達自身がよく知ってるだろう。それでもそうして手を取り合ったっていうなら、私に何を言う事がある?あんた達が幸せなら、私はそれで構わないよ。」

幸せなんだろう?と聞かれて正守は無言で頷いた。それに守美子は満足そうに声を出して笑った。

「そうだろうねぇ。良守も、あんたの腕の中にいる時は心底幸せそうだ。」

守美子の言葉に、そんな所もしっかり見ていたのかと正守は眉を顰める。

「覗きは悪趣味だよ。」
「何を言うんだか。覗かれたくなかったら、学校の屋上なんかでいちゃついてるんじゃないよ。」

その尤もな意見に、正守も黙るしかない。屋上より更に上から覗くのなんて貴女くらいですよと言いたいけど、自分もよくやってる事なので言い返せない。大体この母親に敵う気などしないのだから言うだけ無駄だろう。
渋面の正守を守美子は楽しげに眺めながら言った。

「私はこれでもあんたたちの母親だからね。どうでもいい世間の常識とやらよりは、子供の幸せを願うよ。」

守美子の言葉に正守は軽く目を瞠る。

「あんただって烏森をこのままにしておくつもりは無いんだろう?無くなってしまえば正統継承者も必要なくなる。まあ爺さん辺りは子孫を残す事に拘りそうだけど、うちにはまだ利守もいるしねぇ。血筋が途絶えるわけでもあるまいし、文句は言わさないよ。」

手にしていた茶を一口飲むと、守美子は先程までとは違う少し苦笑したような表情になった。

「生んだ私が言うのも何だけど、あの家に生まれたというだけであんたもあの子も家と烏森に散々振り回わされたんだ。せめて心くらい、想う相手と通わせたって罰は当たらないだろう。」

どこか暗い感情を潜ませたその言葉を、正守は複雑な思いで聞いていた。黒い瞳に浮かぶ僅かな嫌悪は、烏森と墨村の家そのものへと向けられていると正守には解った。振り回わされたというなら守美子だとて同じだ。結界師の家に一人娘として生まれ、類い希なる素質に恵まれながら烏森には選ばれなかった。弟が継承者だった正守とは別のところで様々な葛藤や重圧があったはずだ。それを受け入れたにせよ、全てに納得できるはずも、抱えた凝りが完全に消え去るはずもない。同じ様な思いを抱えてきたからこそ、正守にとって目の前の存在は母親としてもだが同志としての存在感が重かった。

「まあ、あんた達がそういう仲になった事は、あんたもだけどあの子の為にも良いと思うよ。あの子には執着するものがあった方がいい。」

考え込んでいた正守に、守美子は小さく息を吐きながら言った。その言葉の意味を正守は考えるまでもなく察して、背筋にぞくりと怖気が走った。
幼い頃から弟は時々、その存在能力の高さを感じさせる事があった。「自分よりも上」とは繁守に言った言葉だったが、実際には繁守よりも、そして時子よりも「上」だと思っている。ただコントロールが出来ていないだけで。恐らく、その力は歴代の継承者の中でも群を抜いていると正守は確信していた。それはそれだけ烏森に愛されている証でもある。

弟は危ういのだ、何もかもが。その予感は神佑地の主、淡幽の言葉から確信へと変わった。底が見えないー、それは術師としての本能が告げる警告。
守美子の言葉は正守の中の得体の知れない不安を煽った。母も同じ惧れを抱えているという事か。

「母さん、それは…。」

その先の言葉を口にする事を躊躇う正守に、守美子は苦笑しながら言う。

「あんたの事はあまり心配してないからね。良くも悪くも、あんたは私によく似ている。あんたが何を思っているか、大体は解ってるつもりだよ。」

でも、と守美子はすっと目を伏せて言った。

「でも良守は違う。修史さんに似てくれれば良かったんだけど…。あの子の根本は誰にも似ていない。あんなに烏森に好かれてるのも、そういう所からかもしれないね。だからこそ正守、あんたがあの子の枷になりなさい。良守が人としての全てを捨ててしまわないように。」

その言葉の重さに、正守は守美子をじっと見つめると改まった口調で問い返した。

「…俺で、あいつの枷になりえますか。」

なりたいと、そうで在りたい願っている。だが自分は良守の中で、それほど大きな存在になれるのだろうか。

「おや、随分と弱気だこと。」

いつも強気で冷静な態度からは想像できない姿に、守美子は楽しげに笑う。正守がこんな表情を見せるのも、それが良守に関する事だからだろう。眉を寄せる正守に守美子は手を伸ばした。人差し指でその眉間を軽く押してやる。

「あんたにあの子が必要なように、あの子にはあんたが必要なんだよ。そんなの端から見てたら簡単に解るのに、本人達には解らないものなのかもねぇ。」

言いながら守美子は一息つくように茶を口に含む。それから正守を真っ直ぐに見た。

「あんた以外に、あの子を本当の意味で繋ぎ止められる者はいないよ、正守。あんたはあの子の手を取ったんだ。どんな事があろうと、絶対に離しちゃいけない。例えあの子が泣いて離してくれって頼んだとしてもね。」

決して離すんじゃないよ、と言われ正守は頷いた。

「あいつを誰にも渡すつもりはないよ。それが烏森であるならば尚更だ。」

正守の決意を秘めた目を見て、守美子は満足げな顔をした。それからニマッと口の端を上げる。

「言ってくれるじゃないの。随分と惚れ込んだもんね。」

あんた、昔っからあの子しか見てなかったもんね、とからかうように言われて正守は苦笑した。自覚はしていなかったが、母の目から見たらバレバレだったのだろうか。だがそれでも見守って、こうして認めてくれた事が有り難かった。もしかして今日は励ます為に来てくれたのかもしれない。そう思うと心が温かくなる。

「俺達の母親が母さんで良かったよ。」

正守がそう言うと、守美子が一瞬意外そうな顔をして、それからゆっくりと微笑んだ。それは今までの笑みとは違う柔らかなもので、正守も自然と微笑みながら、やっぱり良守にも会わせてやりたいな、とぼんやり思った。母がそれを望むのはもっと先の事になるだろう。なんの憂いもなく当たり前の家族のように暮らせるのは、全てを片付けたあとになるだろう。

いつか、だけど必ず。

正守は心の中で、その決意をそっと呟いた。



2009.2.24

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