蜂蜜風味の甘い抵抗
どっかりとテーブルの上に乗っているのは、温かな湯気を立てるホットケーキ。 「さあ、食え!」 にこにこと勧めてくるのは、正守の7歳下の弟の良守。高校生兼烏森の守護者。趣味はお菓子作り。 そんな弟が作ったホットケーキと弟とを、正守は何度も見返した。 正守が実家へ帰省したのは今朝早く、まだ夜も明けきらない時間だった。本当はもう少し早く帰って烏森に行く予定だったのだが、前日の仕事が思ったよりも長引き、こちらに着いた時には弟達も烏森から引き上げ床に着くような時間だった。 自室で眠り、朝起きると予め連絡してあった事もあり、張り切った父が豪勢な朝食を用意していてくれた。きっと今夜も正守の好物を作ってくれるだろう。 学校に出かける弟達を見送り、昼間は蔵の書物を読んだり父や祖父と話したりと穏やかな時間を過ごした。夜行にいると休暇の時でも修行ばかりだったり、他の構成員の修行に付き合ったりと何かと落ち着かないから、実家にいると休んでるなぁという気になる。まあ、こういう気持ちになれるようになったのもここ数年の事だ。以前は実家といえども、どこか余所の家のような感覚が少なからずあった。帰ってきたと思えるようになったのは、良守との関係が良好になってからの事だろう。 だがその良守との良好な関係がさらに変化したのはつい最近の出来事だ。 突然、弟に「好きだ」と告白されたのは約一ヶ月前の事。あまりにも突飛で荒唐無稽なその告白は、跳ね飛ばす事も出来ずに保留扱いになっている。弟の事は大事だし、弟以上に想っている事は確かなのだが、それが彼が言うような「恋」と同等のものなのか分からないまま帰宅する事を躊躇わなかったと言えば嘘になる。帰るならば何らかの答えを用意しなければならないかとも考えたのだが、無理に結論を出すような事でもないだろうと思い直しての帰宅だった。 茶を飲みながらぼんやりと庭を眺める。祖父は昼過ぎに約束があるからと町内の公民館へと出かけ、父は打ち合わせと、その帰りに買い物をしてくると嬉しそうに出かけていった。どちらも帰ってくるのはもう少し先だろう。誰もいない家は広いだけに静かだった。いつも誰かがいて賑やかな夜行とは大違いだ。だがこんな静けさも悪くない。と茶を啜っていた正守だったが、湯飲みが空になった頃小腹が空いている自分に気付く。台所には確かおやつに煎餅が用意されているはずだが、今は甘い物が食べたい気分だった。正守が土産に持参した塩大福もあるのだが、それは夕食後にみんなで食べる事になっていたし手をつける訳にもいかない。何か買いに行くかな、と考えた所で玄関の戸が開く音がした。「ただいまー」と帰宅した良守の声に、正守は腰を上げる。 「お帰り良守。ちょうど良かった。お前少しの間留守番しててよ。」 ひょいっと出てきた正守の言葉に、良守が首を傾げた。 「別にいいけど、兄貴どっか出かけんの?つーか誰もいねーの?」 「ああ、ちょうどみんないないんだ。急に甘いもの食べたくなってさ。買いに行って来るけど、良守、何か食べたいのある?」 「食べたいものって、どんなの食べたいんだよ。和菓子?それとも洋菓子?」 「う〜ん、今は別に決めてないんだ。コンビニでも行って見てみようかと思って。」 「だったらちょっと待て。俺が何か作るから。」 取って置きのがあるんだ、と嬉しそうに言いながら、良守は自室に戻ると学ランの上着を脱ぎ捨て腕まくりしながら部屋から出てくる。 「買いに行ったら駄目だぞ。すぐだから待ってろよ!」 台所に入る直前、正守を指差しながら言う良守に笑って分かったと答えると、良守は頷きながら台所へと消えていった。 それから良守に呼ばれたのは本当にすぐの事だった。促されて台所のテーブルにつくと、目の前にホカホカと湯気を立てたホットケーキが置かれた。綺麗な焼き目がついたそれからは甘い香りが辺りに漂っている。お菓子作りなどに詳しくない正守でも、ホットケーキは割と簡単なケーキの部類だろう事は想像がついた。だが下準備もしていない状態からこの短時間でサッと作ってしまう弟の手際の良さには感心する。本当にお菓子を作り慣れている人間じゃないとこうはいかないだろう。 さあ食え、と言われて素直に食べようとした正守は、一緒に置かれている瓶がメープルシロップではない事に気付いた。その視線に気付いたのだろう、良守が瓶を取り上げ蓋を開ける。 「これが取って置きなんだ。まあ食ってみろよ。」 良守がホットケーキにたっぷりとそれをかける。ホットケーキにかける物といったら、メープルシロップ以外では蜂蜜くらいだ。だがそれは蜂蜜にしては濃い褐色をしていた。一切れ口にしてみると、ふわりと軽いホットケーキに少し香ばしい香りが口内に広がる。間違いなく蜂蜜ではあるのだが、今まで知っていた蜂蜜とはあまりに違う濃厚な甘みと独特な香りに正守は驚いた。 「これ、蜂蜜だよな?」 まじまじとホットケーキを見ながら不思議そうに言う正守に、良守が楽しげに答える。 「ちゃんと蜂蜜だよ。蕎麦のだけどな。」 「へぇ。蕎麦からも取れるんだ。」 考えてみれば花が咲くものなら蜂蜜は取れるのだろう。正守は以前見たことのある、白い蕎麦の花を思いだした。あの白く可憐な花から取れるのがこんなに褐色の蜂蜜というのは何だか意外だ。まあ花の色の問題じゃないが。 「ちょっとクセがあるから、好き嫌いは分かれるかもしれないけど。…苦手だった?」 「いや、美味いし俺は好きな味だな。黒糖みたいなコクがあるから、ホットケーキが和風な感じになってるのも面白いし。これ、和菓子にも使えるんじゃないか?」 正守の言葉に良守はホッとした様子で答えた。 「そうだな使えるかも。団子の蜜に入れても美味そうだし。一応俺はマフィンやスポンジに入れてみるつもりなんだけど。」 「あー、そっちも美味そう。」 そう言った正守に、良守が嬉しそうに笑う。 「マフィンは今から作るから、また夜にでも食おうぜ。どうせ兄貴も烏森の様子見するんだろ?」 喜々として準備し始めた良守の後ろ姿を正守はじっと見る。 「…そんなにいっぺんに使っちゃって良いの?それ、取って置きだったんだろ?」 「んー?っつーか、兄貴に食わせようと思って取って置いたんだ。」 棚上に置いてある器具を取りだしながら答える良守の台詞に、正守は目を瞬かせた。 まあここ数年、良守が正守の帰宅時にお菓子を作って食べさせてくれるなんて事は割とよくある。弟の作るお菓子は贔屓を差し引いてもかなりのレベルの美味さだから、甘いもの好きな正守としては嬉しかった。だが、正守に食べさせたくて取って置いたなんて言われるとは思わなくて少々驚く。少しだけ早くなった鼓動の意味を考えないようにするため態と口を開いた。 「まるで餌付けされてるみたいだな。」 笑いながら軽い調子でそう言う正守の言葉に、良守が何言ってんだと直ぐさま返す。 「餌で釣れる程安いヤツとは思ってねーよ。単に俺が兄貴にも食べて欲しかっただけ。」 こちらを振り向きもせず、さも当たり前の事のように言ってのける弟のその言葉に正守は顔を片手で覆った。 随分さらりと言ってくれたが、それって返って結構な口説き文句な気がするぞ。告白した事で気が楽になったのか、素でこんな事言っちゃう辺りが天然って凄い。 「良守ってさ、お兄ちゃんに夢見過ぎじゃない?」 お前がそんな風に言ってくれるほどいいもんじゃないと思うんだけど、と思った事を言えば、良守が小麦粉片手にぐるりと振り返った。 「惚れた相手に夢見て悪いか。」 真顔で言い切られて一瞬言葉に詰まる。 「いや…悪くはないんじゃないかな。多分。」 珍しく戸惑った様子を見せる正守に、良守が気まずそうにそっぽを向いた。 「俺だって、ブラコンにしてもタチ悪いのはわかってる。でも好きになっちまったのは仕方ないだろ。」 「…開き直り?」 「言うな。それは俺が一番自覚してる。散々悩んで告白したんだから、後は開き直るしかないんだよ。」 「それは確かにそうかもなぁ。」 よりによって実の兄に告白したのだから、その後でグダグダ悩んだってらちが明かない。というか不毛の極致だ。 「でもさ、良守って最近学校で結構モテてるって聞いたんだけど。」 「誰から聞いたそんな事。」 「そりゃまあ色々と。」 そう言うと、良守はあいつか、と剣呑な目になった。あ、部下がピンチかもしれない。確かに閃から聞いた話ではあるんだけど。どうしようかな〜と暢気に考えていたら良守が憮然としながら言った。 「モテてるかどうかなんて、今は関係無いだろ。」 「そうでもないよ。お前くらいの年なら、やっぱ女の子とかに興味あるだろ。」 「…どういう意味だ。」 失言だったか、と正守が咄嗟に思ったのは、良守の目に本気の憤りが感じられたからだ。持っていた小麦粉を後ろ手に流し台に置くと、良守は座った正守の目線に合わせて屈み込み、正面から見据えてくる。その真っ直ぐな眼差しを正守は受け止めた。 「俺、兄貴が好きだって言ったよな?なのになんで女とか言うんだよ。もしかして俺の言った事信じてねーの?」 「そうじゃない、良守。」 「違うんだったら何でそんな事言うんだ!」 叫んだのと同時に良守がテーブルをバンっと叩いた。皿とフォークが擦れ合いカチャリと音を立てる。その間正守は身動ぎもせずに弟を見ていた。端から見れば睨み合いをしているかのように二人の視線がぶつかる。 「興味だって?そんなの、気持ちにちゃんと気付く前からお前しか対象になってねーし、触りたいのも抱き締めたいのも、キスしたいのも抱きたいのも兄貴だけなんだよ!俺が何年悩んだと思ってるんだ。生半可な気持ちなら、実の兄貴相手に欲情なんかするかよっ!!」 一気に吐き出してひとつ大きな溜息をつき、それから良守はガックリとテーブルに項垂れてしまった。 「さいてーだ。こんな事まで言うつもりなかったのに。」 ぽつりと、激情のまま言ってしまった内容に後悔を滲ませて落ち込む弟が先程叫んだ台詞を思い返しながら、正守は変に落ち着いてくる自分を感じていた。まるで良守の叫びで、モヤモヤが吹っ飛ばされてしまったかのようだった。あれこれ考えてたのが嘘のように、心の中全てがハッキリとクリアになっていく。 本当は、色々と無駄な抵抗だったのかもしれない。 「ー今のは俺が悪かった。それに前に言っただろ。嫌いになる事だけはないからって。何を言われても何をされても、俺がお前を嫌う日だけはこないよ。だから落ち込むな。」 正守の言葉に、良守が弾かれたように顔を上げた。 「何それ。どういう意味だよ。何でそんな事言いきれるんだ。」 俺が気持ち悪くないのか、などと自虐的に言うのは「抱きたい」と言ってしまった事に対してか。眉を下げて言う弟に苦笑しながら、正守はそっと手を伸ばした。本当に、無駄な抵抗だったのだと今なら分かる。特別なのだと知っていたくせに、男同士だとか弟だとか兄なのだからなんて言葉を言い訳に、自分の気持ちに気付かない振りをしていた自分はなんて愚かだったんだろう。 嫌じゃないどころか嬉しいと、そう思う心が全ての答えだったのに。 触れた手で良守の顔を少し持ち上げると、訝しげなその顔にゆっくりと近づき唇を重ねた。触れるだけの口付けの後、驚きの為目を見開いた良守に目を細め笑みを返す。 「言い切れるよ。良守は俺の中で特別だから。」 ずっと昔から、惹かれたのなんてこの弟ただ一人だ。特別だと思ったのも。その意味なんて考えるまでもない。 目の前の良守は目をまだ呆然としていた。少しだけ開いた口が間抜けな感じがして笑いそうになるのを寸でで堪える。こうして見ると、成長したと思っていた弟にもまだ子供らしさが残っていてかわいいな、なんて思ってしまう。同じ相手にドキドキしたりと思えば可愛らしいと思ったり、まったく忙しないことこの上ない。 固まってしまった弟に対して、告白はされたもののキスは早かっただろうかとちょっと心配になってきた頃、良守の口がようやく動いた。 「…特別?」 「そう、特別。」 「キスするような意味で?」 「じゃないと口にキスはしないしできないだろ。」 「…じゃあ、兄貴も俺の事好きなの?」 信じられない、という顔をする弟に笑みが零れる。俄には信じられなくてもまあ無理もないだろう。正守自身だって、こんなに早く認めてしまうなんて思っていなかったのだから。 「好きだよ、お前の事。自分でも驚くくらいに。」 その言葉に良守は首を傾げて「なんだそれ」と訝しがった後、徐々に信じたのだろう、おずおずと手を伸ばして正守の腕を掴んだ。 「後から嘘とか冗談だったなんて言っても駄目だぞ。もう俺、さっきの言葉以外受け入れられないし、兄貴の事離すつもりもねーからな。」 「こんな後戻りの出来ない状況になってから、離されたって困るけどね。」 そう正守は笑いながら言うと、もう一度良守に顔を近づけた。吐息がかかりそうな距離で大きな瞳を覗き込む。真っ直ぐで翳りのない強い眼差しが正守だけを熱く見つめている。その事に歓喜する自分は、とっくの昔に堕ちていたのだと苦笑したくなった。 ー本当に無駄な抵抗だったな。 「お前のものになってやるよ。」 だから離すな、と告げると良守が一瞬泣きそうなほど顔を歪め、正守を抱き寄せるとその肩口に顔を埋めた。正守の背中に回された手がぎゅっと着物を掴む。その背中を軽く叩いて諫めようとすれば良守が顔を上げた。泣いているかと思った弟は、目を真っ赤にしていたものの泣いてはいなかった。真剣な目でじっと見つめてきたかと思えば、そっと正守の頬に手を伸ばす。「兄貴」と呼ぶその響きに含まれる意図に気付き正守が目を閉じかけたその時ー。 「ただいまー。」 父、修史の声と共に玄関の引き戸が開く音がして、2人は一瞬固まった後パッと身を離した。少々の気恥ずかしさを払拭するように、正守は居間から顔を出し「お帰り」と修史を出迎える。 「ああ正守。ごめんね、お留守番させちゃって。」 「別に良いよ。さっき良守も帰って来たし。ー重そうだ、随分と買ったんだね。」 持つよ、と言う正守にありがとうと応える父が抱えていた荷物を受け取り台所へと移動する。食材を分け始めた父を残し戻ろうとした時、良守が居間から出てきたのと鉢合わせる。 正守の目の前で止まった良守は、兄の腕をいきなりグイッと引くと素早くその唇にキスをした。 「次はもっとちゃんとしたのするからな。」 頬を赤くしながらそんな事を言う弟のかわいらしさに頬が弛みそうになりながらも、「期待してるよ」と応える正守だった。 |
2008.10.15
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