等価値の愛憎
伸ばされた手を拒めない事は、自分自身がよく知っていた。 囁かれた愛の言葉を信じたわけではなかったけど、そんなの嘘でも構わなかった。向けられた笑顔の目の奥は暗くて底が見えなくて、本心からの笑みではないと気付いたけど、それでも自分を見て笑ってくれたということが大事だった。 憎まれるならともかく、愛されるはずがない。自分が生まれた瞬間に全てを狂わしてしまった人。 そうと分かっていながら、それでも惹かれた。どうしようもなく焦がれた。7つ年上の、実の兄にー。 その日は小物の妖が数匹出ただけの比較的静かな夜だった。見回りに行ってくると言って斑尾と別れた良守は、それでも気乗りせずに屋上から眼下に広がる烏森を眺めていた。 烏森という名の名残なのか、学校にしてもこの学園には緑が多い。その辺のへたな公園よりも木々が青々と生い茂っていた。 こうしてると別に普通なんだけどな、と思いながらぼんやりとする。ここ最近あまり眠れていないのでボーっとする事が多かった。眠れていない原因なんて解りきっていて、でもそれを誰に相談する訳にもいかずただ思い悩むだけの日々が続いていた。 考えたって仕方のない事なんだって思い切れたらどんなに楽だろう。正守がどういうつもりなのかは分からないけど、自分はそれを拒むつもりはない。こちら側から関係を絶つつもりがない以上、あとは正守の好きにさせるしかないのも分かっている。 あれほど人を惹き付ける人間を良守は他に知らない。多分それは良守にとって正守という存在が、幼い頃から特別だった事も大きいのだろうけど、客観的に見ても正守は人目を惹くし魅力的な男だろうと思う。それが何故よりにもよって弟なんかに手を出すのかと言われれば、それは恐らく右手の方印が全てだろうと良守は思っていた。 幼い頃から術に長けていて、正統継承者じゃなくとも跡継ぎに相応しい力を身につけていた兄。それが7歳下の弟の手に現れた方印ひとつで人生が変わってしまった。家の跡継ぎからいずれ家を出ていくべき人間になり、その通りにたった15歳で裏会へと行ってしまった正守。小さな弟は術を上手く使いこなす事も出来ず失敗ばかりで、さぞかし歯痒かったに違いない。 烏森は何故俺を選んだんだ。何故兄貴を選ばなかった。 それは幼い頃から繰り返し考えていた事。あの兄ならばこの土地を守るのに相応しかった。誰も傷つける事もなく、立派に役目をこなしただろう。そして良守だって、年の離れた兄をただ尊敬していれば良かった。目標にしていれば良かった。 そうであればきっとこんな、複雑で曲がった感情をあの兄に抱いてしまう事も無かったはずなのに。 初めて「愛してる」と言われた夜。それは違うだろう、と頭は否定していた。正守は一見優しげに微笑んでいたけど、自分を見る目は死んだように暗くて感情の色が無かった。だからその言葉が嘘だってすぐに気付いたけど、でもどうしようもなく心が喜んでしまったのだ。 嘘偽りの言葉だと知っていても、それは良守がずっと欲しかった言葉だった。口では嫌いと言いながら本当はそうじゃなくて。利守に向ける笑顔の10分の1で良い。夜行の仲間達に向ける信頼の欠片でも良い。自分にも向けて欲しかった。 掌の方印ひとつで、本当に望むものは得られない。それに気付く訳にはいかなくて、欲しくはないのだと自分を誤魔化していた。そうするしか出来なかったのだ。 屋上から下を見下ろして溜息をつく。知らずその息が苦い物を含ませている事に良守は気付いていなかった。年には似合わない憂いの色を含ませた目を数度瞬きすると、一度地表に降りようとフェンスを越える。空中に結界をはろうとして、眼下に白いものが見えた。先程別れた斑尾だなと声を掛けようとすると、そのすぐ傍に佇む見慣れた影に気付いて良守はハッと息をつめた。 見間違うはずがない、それは正守だった。良守に会いに来る以外にも時間があれば烏森に来ている事は知っていたけど、何故斑尾と一緒に居るのだろう。斑尾は正守を嫌っていたのに。ただ上からでも何だか緊迫した雰囲気だけは伝わってきて、良守は自分でも分からない内にそっと校舎の影から結界を伝って降りると、二人の背後に忍び寄った。斑尾は鼻が利くからあまり近寄る事は出来ない。風下の離れた距離だとあまり二人の会話は聞こえないけど、切れ切れに聞こえてくる声に耳を澄ました。その時「良守」という斑尾の声が聞こえて、二人が自分の事を話しているのに気付く。校舎の影から身を縮めて必死に気配を殺した。 「あんた、いい加減にしな。」 「…何の事かな?」 フッと口の端を上げ笑みを浮かべる男を、斑尾は憎々しげに見た。何を聞かれているのか解っているくせにこの態度。何よりその目は少しも笑っていなかった。光を宿さない漆黒は、見ているだけで惑わされそうな力を持っている。この男の傍に生まれた時からいたのだ。良守がおかしくなっても仕方ないのかと、斑尾は苦々しく思った。 「態とはぐらかすんじゃないよ。良守の事に決まってるじゃないか。」 「良守がどうかした?さっきチラッと見た感じじゃ、元気そうだったけど。」 平然と言う正守に、まともな受け答えを期待してなかった斑尾も流石に怒りを露わにした。 「あれが元気だって、あんた本当にそう思うのかい!?」 見た目には元気かもしれない。だが良守の不調は体が原因ではない事は、彼を少しでも知っている者ならばすぐに気付いていた。あれは精神的に不安定になっている。 時音も白尾も、そして墨村の家族もその変調に気付いていた。だが本人が訳を話さず、見た目には元気に振る舞っている為に口出し出来ずにいる。訳など言えるはずがないのだ。実の兄と只ならぬ関係になり、その事で悩んでいるなどと。 それも拒めなくて悩んでいるのではないのだから尚更だ。 「あんなまだ不安定な子を抱いて、翻弄するだけ翻弄してさ。」 「翻弄?そんなつもりは無いよ。愛していれば欲しいし抱きたいと思う。それは人として当然の事だと思うけどな。」 「よく言うよ。そんな調子であの子にも愛の言葉を囁いてるのかい?あの子があんたを拒めない事を誰より承知してるくせに。」 「それは良守の都合だからね。俺は最初から無理強いはしていない。」 「そんなのが言い訳になるとでも思ってるのかい、正守!」 流石の言い草に斑尾が声を荒げた。それを正守は面白そうに薄ら笑いを浮かべて見ている。 最早この男に何を言っても無駄なのか。斑尾は内心大きな溜息をつく。だけどせめて、まだ幼いあの子の為にこれだけは言って置きたかった。正守、と神妙な声で呼ばれ男は笑みを消して、自分と同じくらいの目線に浮かぶ妖犬を見る。 「愛してないのに抱くのはおやめ。もうそろそろ気も済んだだろう。あの子を解放してやりな。」 斑尾の言葉に正守は一瞬驚いたように目を開き、それからまたうっすらと笑った。 「愛、ねぇ…。」 その心底おかしい、という声色に、良守は身を固くした。 あの口から『良守など本当は愛してなどいない』と肯定の言葉が出たら。それを聞いてしまったら自分は壊れてしまう。 嘘偽りでも良いなんてそんなの嘘だ。本当は信じたかった。誰よりも正守から愛されたいと渇望していたからこそ、信じようとしていたのだ。 もうこれ以上聞くことは恐くて出来ない。 良守は思わずその場から離れた。後ろを振り向く事も恐くて出来なかった。 だからその後の会話を聞かなかった事が彼にとって良い事なのかどうかは、誰にも分からなかった。一人と一匹の会話は続く。 「俺があれを愛してないなどと、どうしてお前が言えるんだ?」 その言葉に斑尾がピクリと動きを止めた。正守から噴き出すような気を感じ思わず目を細める。 「俺の心は俺の物だ。お前に解るはずがない。勝手に決めつけるな。」 不愉快だ、と吐き捨てるように眉を顰める正守の顔は、明らかに怒気を孕んでいて斑尾は驚いた。まさかと思うがその言葉に嘘や欺瞞の色はない。冗談、と思わず口から出たのは信じられない気持ちからだったが、正守の顔を見るとその気持ちも霞んでいく気がする。 それ以上何も言えないでいる斑尾を見て、正守はニヤリと笑う。 「信じなくてもいいよ。誰にも解らなくていい。だからお前は口を出すな。これは俺と良守との問題だ。」 斑尾は正守の言葉の本気を嫌という程感じ取った。嘘だと思いたかったが否定など出来ようもない。 ー正守は良守を愛しているのだろう。誰よりも強い感情で。 「…なぜ、言ってあげないんだ。あんたのたった一言で、あの子は楽になれるのに。」 それだけの気持ちがあるのなら、なぜ嘘で塗り固めたような愛の言葉しか告げないのか。 斑尾の尤もな疑問に正守は口の端を歪めて笑った。 「俺はね、あいつに愛して欲しいわけじゃない。俺だって純粋に愛してるわけじゃないからね。人の感情なんて満足してしまったらそこで終わりだ。知ってる?人の中で、愛よりも憎しみの方が強い感情だって。俺はあいつに誰よりも強い感情を向けられる事を望んでるのさ。」 どれだけ毛嫌いしてる風を装っていても、あの優しい弟は一度受け入れた存在を切り離す事は出来ない。それはかつて神の領域で正守自身が思い知った事だった。 愛してると告げるのは簡単だ。優しくする事も。そうすれば弟は簡単に絆される。今まで兄に冷たくされていた弟は、哀れな事に兄の優しさに慣れていない。良守が幼い頃からそれを欲しがっている事を知りながら手を離したのは正守なのだから。 愛していると告げて欲しがっていた優しさで身も心も溶かして。溺れるだけ溺れさせてから裏切れば、あの弟はどうするだろう。 殺したいと思う程憎んでくれれば正守の勝ち。それはまるでゲームのようだった。 正守にとって人生最大で何よりも優先させるべき、それは命がけのゲームだ。 追い詰めて裏切れば、いくら優しいあいつでも今度こそ俺を憎むんじゃないかな。 楽しげに笑う正守に斑尾は溜息をついた。 「あんたの本当の望みはなんだい。ただ良守に憎まれる事なのかい?」 「それはちょっと違うかな。」 斑尾の問いかけに正守はうっすらと笑みを浮かべた。先の未来を見つめるような、どこかうっとりとした視線を空に向ける。 「俺の望みはあいつに『殺したいほど憎い』と思われる事だよ。」 他の何も目に入らないほど強い感情を。それだけが心を占めるようなそんな想いが欲しかった。 勝者から敗者へ贈られるのは勝者の命。それで良守の心は永遠に正守のものになる。 誰よりも優しい弟は、決してその手にかけた兄の事を忘れないだろう。その屍を抱いて狂ってしまえば良いのにと正守は思う。 斑尾はそんな哀れな男の横顔を見ていた。 どうして、という思いがその胸中に渦巻く。どうしてこんな愛し方しかできないのだろう。これがこの兄弟に与えられた運命なのだろうか。烏森という土地に縛られず、墨村という特殊な家に生まれなければ、もっと違う人生だったろうと思うのは無意味だと知っているけど、あまりにも哀しくて考えずにはいられない。 何も言えない、そう感じた。この二人に口出す事は最早誰にも出来ない。ただ最後にこれだけは伝えておきたかった。真実が伝わるはずもない事はよく知っていたけど。 「正守。あんたは何一つ解っちゃいないよ。」 「ー斑尾?」 不審そうな顔をする正守を残し、斑尾はくるりと身を翻した。正守は知らないのだ。良守がどれほど兄を恋い焦がれていたか。どれほど欲しがっていたか。この男を拒まないのは優しさからでも罪悪感などでもない。ただ良守自身もそれを望んでいたからだ。 きっと良守は正守からどれほど辛い扱いを受けたとしても、彼を憎む事はないだろう。例え身の回りの大切な人を傷つけられたとしても。良守にとって正守以上に大切な存在はないのだから。 正守の想いを狂っていると言うのならば、それは良守だとて同じだ。あの男を拒絶出来ずに惹かれている時点で狂っている。 ふよふよと飛んでいた斑尾だったが、校舎の影に微かに残る馴染んだ匂いに気付き、そっと溜息をついた。 「あんたもあいつも、どうしようもない大馬鹿者だよ。」 せめて私くらいは見守ってやるさ。どうしようもない大馬鹿者でも、一応私の主人だからね、あんたは。 そう呟くと、斑尾は彼の主人の跡を追いかけていった。 |
2008.3.8